斎服殿の中から、女の啜り泣きが聞こえていた。皇后良子が祭祀用の蚕を踏み潰して以来、忌屋は無防備に解放されていたが、その開け放たれた引戸の奥で、女が木製の椅子に腰掛けて泣いていた。「あっちへ行って。・・・一人にしておいて」
忌屋はあれから神聖な場所ではなく、単なる蚕の飼育小屋になってしまった。或る時は、作業着を着た職員がピンセットで蚕を一匹ずつ挟んでは、成長が悪い幼虫を選り分けて、まるで塵のように足下に捨てていた。また或る時は、降嫁した裕仁の娘らが、親が住んでいる実家へ帰って来たかのように、「私たちはここへ入ってもいいのよ」と宣言して、武官から貰った阿片を持ち込んでは、きゃあきゃあと嬌声を上げていた。
従って、私はこの時、普段着の女が忌屋を占拠して泣いていても、別段、驚きはしなかった。が、その時、女の口から漏れた言葉は、彼女自身の苦悩を説明していた。「嗚呼、あんな男の子供を産まされて・・・」
その男は、しばらくすると慌てた様子で走って来た。自分の妻が皇居内で泣いているという体裁悪さのせいか、軍服を着た男は興奮して怒鳴り散らし、女が言い返すと、すぐに諍いが始まった。
「そんなに厭なのか・・・ お前はいつもそうだ」 男の声が言うと、泣いていた女が何か甲高く叫んだ。
「もう死にたい」と言ったのか、「殺してやる」と言ったのか、私の記憶ははっきりしない。
それから声が止み、長い時間が過ぎた。
「もう死にたい」と言ったのか、「殺してやる」と言ったのか、私の記憶ははっきりしない。
それから声が止み、長い時間が過ぎた。
不意に私は背中を突かれた。振り向くと、それまで何処かに隠れていた侍従が、いつの間にか私の背後に戻っていて、声には出さず、中の様子を見て来い、と戸口を指差した。厭々、私が忌屋へ近づいて行き、そうっと中を覗いた時、男は屈んでいた体をこちらへ向き直って、一瞬、驚愕の表情を見せたが、すぐに足早に小屋を出て行き、建物の裏手のほうへ消えた。
しかし、女のほうは・・・ 最初に見た時と同じ木製の椅子に腰掛けて、上半身は机に伏したまま、微塵も動かない。
「誰か、来て」
「誰か、来て」
呼ぶと、すぐに数人が駆けて来て、ぐったりした女を担いで、何処かへ運んで行った。それきり、照宮成子に会っていない。