※ この話は子供には不適切かも知れません。
本当のあらすじ/続き
八歳の頃>
1)皇居(後宮)で侍女らと一緒に宿直をさせられて、そこへ現れた三笠宮寛仁に着物を捲り上げられて猥褻行為をされた。その後、宮内庁男性職員に、下着姿の猥褻写真を撮られた。若い侍女が寛仁に捉まって、強姦された。
2)皇宮警察護衛官に東京国立博物館・宮内庁宝物館へ連れて行かれ、奥の暗がりで麻酔薬を注射されて、宝物館職員に猥褻行為をされた。
3)皇宮警察護衛官に、宮内庁の食堂で出たゴミ・バケツを持たされて、屋外の焼却炉に捨てるように言いつけられた。別の護衛官が重油のようなものを炉の中へ撒いて、火をつけた。(バケツの中身は野菜くずだった) 後日、また護衛官が「犬が死んだから、火葬しろ」と言って、ぼろ布を巻きつけた包みを私に持たせた。が、私がそれを放って逃げたので、護衛官自身が焼却炉の中へ投げ入れた。
半年くらい経った頃、今度は「猫が死んだ。可哀そうだから、埋めてやってくれ」と護衛官は言い、厚地の布をかぶせたバスケットと小型のスコップを私に持たせた。皇宮警察庁舎裏の林で樹の根元あたりを掘っていると、また警察犬が二匹現れて、一匹がバスケットの中から二十センチくらいの黒い棒のような物を引っ張り出した。もう一匹がバスケットの縁に足をかけたので、籠が傾き、真っ黒く変色した頭蓋骨が転がり出た。猫ではなく、人間の子供の頭骨だった。後で、護衛官が私の顔を見ながら言った、「赤ん坊はいいが、あのくらいになると犬が食わねえ、残すんだ。犬もあんな物、残すんだよ」
「闇の子供」のうち、女の子は大抵、護衛官らに性虐待されたあげく殺されたので、中学生になるまで生きたのはみんな男だった。彼らは皇宮警察から銃とサリン弾と青酸カリを貰って、皇宮警察のアルバイトとして働いていると私に話した。彼らは五、六人が一組になって活動していたが、その集団の中に彼らより二回りも小柄な女の子が一人、いつも同行していた。年長の男子がその子を指して言った、「こいつは、俺らにくれたんだ」 彼らは密偵である皇宮護衛官らと一緒に私が通っていた中学校へも来たが、その教室内で性行為をしようとした。
彼らは中学を卒業する頃に「処分」された。幾らかの金を付けて、誰かの「養子」にして、出来がいいのは警察学校へ、防衛学校へ、残りは住込みで働ける民間企業へと振り分けられた。その時、皇宮護衛官が「餞別」として渡したのがサリン弾だった。そうしてサリン弾と青酸カリを持って日本中へばら撒かれた子供らは、一般社会でも女を拉致し、強姦した。彼らは本来は被害者である女たちに、「俺たちは、天皇陛下を守る皇宮護衛官の子供なのだ。腹の子供もそうだ、大事にしろ」と、自分の父親が言ったとおりを繰り返した。
4)私は自宅近くで皇宮護衛官三名に捉まって、皇居外に建てられた皇宮警察別館の三階か四階の部屋に入れられた。そこには医療用ベッドが一つ置かれ、その上で顔色の悪い女が股を広げた格好でぐったりしていた。股の間からは、小さな手が出ていた。護衛官の一人が「逆子」だと言ったので、私はその後、高校生になる頃までそう信じていたが、よく考えてみれば胎児の手が出ていたのだから「逆子」ではない。それに、手は洗ったように綺麗だった。つまり、誰かがまだ子供が生まれる前に、「胞衣」を破って、片手を引っ張り出したのではないか? それとも、すでに誕生して産湯で洗った後に、赤ん坊を再び子宮に入れたのか?
護衛官らは小学生の私に「産むのを手伝ってやれ。お前、できるだろう?」と言って、部屋から出て行った。私は彼らとは反対方向へ廊下を逃げ出し、(後で給湯室と分かったのだが)暗く狭い部屋に飛び込んで、鍵をかけた。
そこには運よく「直通ボタン」がある電話が置かれてあったので、私はまず、警察庁へかけてみた。「護衛官らが女に赤ちゃんを産ませては、殺している」 しかし、相手は「ああ・・・そういう事はよくあるんだ。こちらでも時々、利用させてもらっているよ」と返した。私はすぐさま電話を切って、今度は内閣府へかけた。「お腹に赤ちゃんがいる女が死にそうになっている」と私は説明したが、これもまた煩そうに「そんな事はよくあるんだ。お前も死ねばいい」と吐き捨てた。
その時、廊下の向うから、女の力無い悲鳴が聞こえた・・・
私は、「国会」だったのか、「総理官邸」だったのか忘れたが、まだ押していないボタンを押して、「女が死にそうなのだ。紫色の顔をしている。あんたたちの誰かが父親なのだ」と怒鳴った。相手は「俺は違う」と言い、「おちつけ。今から言う番号へかけろ。119だ。分かるか?」
・・・ああ、この猿の国にも、ましな人間がいないわけじゃあないのだ、と思ったら、涙が出そうになった。私は119番へかけた。それから110番へもかけた。救急車は表玄関の外の道路で停まった、が、一階にいた皇宮護衛官らに銃撃されて、最初に車から降りた救急隊員が路上に倒れた。他の隊員は仲間を救急車の中へ運び入れ、サイレンを鳴らして走り去った。警視庁のパトカーが来た。護衛官らはまた銃撃した。警官はパトカーをバックさせて、見えなくなった。私がいた給湯室の窓ガラスが銃撃で割られた。皇宮護衛官がそこからサリン弾を投げ入れた。私は盲目で階段を駆け降りようとしたが、護衛官が待ち伏せていて麻酔銃で撃たれた。女は死んだ。宮内庁で葬儀をした時、誰だか知らない中年の男が「彼女は子供を腹に入れたまま死んだので本望だった」と言っていた。
5)宮内庁で振袖を着せられ、皇宮警察護衛官に車に乗せられたが、都内の橋の途中で降ろされて、護衛官に足下を銃撃された。「川へ飛び込め」と言われ、逃げようとしたがすぐに捉えられて、川へ落とされた。運よく川底に足が着いたので、岸へ上がることができた。
再び、別の日、同様に着物を着せられて、川へ投げ込まれた。どうにか仰向けに浮いていたが、着物が重く、体はだんだん沈んで行き、溺死しそうになった。橋の上から、護衛官がバケツで何かの薬剤を私の上に撒いた。
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十歳の時>
1)夜中に、皇宮警察護衛官四名が私の家を襲って来た。物音で私が目を覚ました時、父は板間に正座させられて、毒針で頭を刺されていた。母と弟は土間に倒れていた。私自身は青酸カリを塗った針で脚を刺されて、玄関のたたきへ転げ落ちたが、その叫び声で近所の人が起きて来て、警察を呼んでくれた。
しかし、父は再び帰宅時にサリンで襲われ、しばらくの間、目が見えないと言っていた。
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十一歳の時>
1)父が脳出血で倒れて、殺された。(殺人)
2)葬儀が終わった後、宮内庁の中年女が訪ねて来て、青酸カリの丸薬を一粒、母の前に置いた。自殺しろという意味なのだろう。母が飲まずにいると、女は私を捉え、丸薬を口に入れようとした。
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十二歳の時>
1)皇宮警察護衛官に皇居へ拉致されて、天皇裕仁と侍医の二人に、性器を検査されるなどの虐待を受けた。私はまだ初潮が無かったが、年寄りの医務官は「少しお待ち頂ければ、すぐに女になりましょう」と裕仁に言い、私が服を着た後で、ホルモン剤と思われる錠剤を飲むようにと渡された。
2)皇后良子と和子の命令で、皇宮警察護衛官に皇居へ拉致され、和子を伊勢神宮祭主に推薦せよと脅迫された。二人に銃撃された。
3)宮内庁から、バケツ一杯の水銀に漬られた小魚が届けられた。三歳の妹が素手で魚を掴もうとしたので、水銀が台所の土間に散らばった。
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十三歳の時>
1)十二歳で初潮があってから半年ほど経った頃、皇居に拉致され、下腹部に麻酔薬の注射を二本打たれて、天皇裕仁に強姦された。丸裸で裕仁に抱っこされている図を、写真に撮られた。避妊のためにホルモン剤を注射されたので、その後の五ヶ月間、メンスが無かった。(宮内庁は、この「天皇が処女を強姦する」という行為を宮中祭祀とした。実際、私が強姦されている最中に、正装をした神官が幣を振りながら何か唱えていた)
2)再びメンスが始まった頃、また皇居へ拉致されたが、裕仁はもはやホルモン注射をしても勃起せず、性的不能になっていた。怒った裕仁は、私を護衛官の一人に下賜した。
顔も名前も知らない皇宮警察護衛官に、麻酔を注射され、器具を使って膣を開けられ、強姦された。護衛官はスポイトで膣の中の精液を抜き取り、消毒剤を噴射した。さらに、私が妊娠しないようにホルモン剤を注射したので、急にメンスが始まり、血だらけになった性器を写真に撮られた。下着を穿かないまま自宅へ帰され、護衛官は母の前で私の股を広げて、強姦された性器を見せた。
3)再び皇宮警察護衛官に皇居へ拉致され、(性交の記念品として)真鍮の指輪を指にはめられた。私がそれを抜き捨てると、護衛官にサリンを噴きかけられ、指輪を膣に入れられた。
4)皇宮警察護衛官が私宅へ電話をかけて来て、「指輪はどうしたか?」と訊いたので、「知らない」と答えると、数日後、五、六名が私宅へ土足で押し入って来た。「あれが無いと、売春だぞ」 一人が撃針銃で私を撃ち、別の一人が実弾銃で天井を撃ち、それで興奮した別の一人がズボンの前から勃起した性器を出して、畳の上に精液を飛ばした。最後にサリン弾を投げて、意気揚々と帰って行った。
5)皇宮警察護衛官が、私が通っていた中学校の職員室に、覚醒剤と青酸カリと短銃を置いて行った。数日後、教員の一人が短銃を持って教室へ入って来て、撃った。弾は最前列と二列目に座っていた生徒の体を貫通して、後方の生徒の肩に当たった。
救急車が来るより前に、護衛官が教室に現れて、幾人かの生徒へ順に視線を投げながら「警察が来たら、こいつがやったと言え。そうすれば、アレ(先生)は助かるんだ」と教唆した。しかし、生徒らはさすがに同級生が死んでいるので、県警の警察官へ事実を話したようだったが、一人は卒業するまで、私に「あんたがやった」としつこく言い続けた。
青酸カリは、後で私が校長に飲まされそうになった。「俺とやったら、お前が撃ったことは高校へは言わないでおく」と脅された。
6)皇宮警察護衛官に、中学校の制服(厚地のウール)を着たままプールへ投げ入れられ、サリンを浴びせられて、体近くに銃撃された。(殺人未遂)
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十六歳の頃>
1)高校の制服を着たまま、海上で小型船から落とされた。浜に近かったので海岸へ向かって泳いだが、大型のサメが追って来て、間一髪で浜にたどり着いた。皇宮警察護衛官らは、船上で声高に笑っていた。(殺人未遂)
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十七歳の時>
1)皇宮警察護衛官に皇居へ拉致され、売春婦のような卑猥な下着を次々に着せ替えられて、写真を撮られた。性的不能の天皇裕仁と若い護衛官に猥褻行為をされた。
2)皇宮警察護衛官数名が、私が通っていた高等学校へ侵入して、教室にサリン弾を投げ込んだ。私が廊下へ逃げると、屋外にいた護衛官が開いていた窓から、撃針銃で撃ってきた。まるで人間狩りだった。
3)宮内庁へ拉致された後、皇宮護衛官に「芸能人では誰が好きか?」と訊かれた。「誰もいない」と私が答えると、「それなら、こちらで探してやる」と言って部屋を出て行ったが、しばらく経つと、「おい、いたぞ。お前にぴったりなんだ。お前、会いたいだろう?」と言い出した。
翌日、後にオウム真理教教祖となる松本智津夫が連れられて来た。護衛官は松本に「お前、これが作れるか?」と訊きながら、サリン弾一個を渡し、続けてサリンの原料らしい薬品名を二つか三つ教えた。私は叫んだ、「開けちゃ駄目。それは猛毒のガスだから」 松本はもらったガス弾を床へ落として、廊下へ逃げた。護衛官がそれを拾って、追いかけながら、廊下で松本を捉えた仲間の護衛官に、「なあ、早くこれをやって、帰そうぜ」と言っていた。
日本人の誰もが、信じられない!と叫ぶだろうが、「オウム真理教」は皇宮警察が作った!
護衛官らは私の家を襲撃して来た時、学校へ侵入して来た時、また、私を公用車に乗せて帰る途中で私を捨てる時、偶然通り合わせた人間・・・皇宮警察にも私にもまったく無関係な人間に・・・「これはガスが出るだけで、すぐに消えてしまうから、使っても、お前は逮捕されない」と言ってサリン弾を与えた。すると、貰った者の全員が使った。
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十九歳の頃>
1)天皇裕仁は、私を皇宮警察護衛官に下賜したことを忘れたのか、明仁、寛仁、宜仁を次々に呼んで、私を下賜するが、いかがか?と尋ねた。明仁と寛仁は辞退したが、宜仁の場合は母親の三笠宮妃百合子が現れて、「それなら、息子の相手をしろ」と私に命令した。結局、私が必死に抵抗したので、未遂に終わったが、宜仁は自分の体が汚されたと騒いだ。
2)宮内庁へ拉致されて、男性職員に眼のすぐ上あたりに何かの注射をされた。翌日、片方のまぶたが「お岩さん」のように腫れた。治癒後にかさぶたができたが、それが取れた後に大きなアバタが残った。
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二十二歳の頃>
1)皇宮警察護衛官が私の職場へ来て、サリン弾を投げて逃げた。県警の警察官は空になったサリン弾を確保して行ったが、一週間後、「捜査はやらないから、返すぞ」とまるで拾得物のように返却しに来た。私は、私の所有物ではないので拒否したが、警官は事務机の上に置いて行った。別の部署の男性社員が来て、持ち去ってしまった。
皇宮警察護衛官は、同企業の玄関受付にいる女性社員にもサリン弾と護身用銃を、また同僚の男性社員数名にサリン弾と青酸カリを渡したので、私はそれら全員に襲われた。
2)皇宮警察護衛官に撃針銃で撃たれて、皇居へ拉致された後、東久邇信彦に覚醒剤を注射されて、強姦された。
その後、宮内庁男性職員の「(北朝鮮へ拉致されて)日本へは帰って来るな」と言う声に送られて、私は報道関係者と称する韓国人の男二名に引き渡された。男らはインタビューしたいと言ったが、私は途中で逃げ出して、警視庁に保護された。
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二十三歳の頃>
1)(私はすでに結婚が決まっていたが)皇宮警察護衛官に撃針銃で撃たれて皇居へ拉致され、浩宮徳仁に(避妊具を使わずに)強姦された。
発情した犬みたいに、徳仁は私に飛びかかって来て、自分がやりたいようにやった・・・
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二十四歳の時>
1)結婚相手の生家から、伊勢神宮の白銅鏡が発見された。
私は東京国立博物館へ委託したい旨を連絡したが、宮内庁男性職員と皇宮警察護衛官が「宝物を全部よこせ。」と脅迫に来て、庭で実弾銃を撃ち、家の中へサリン弾を投げて行った。
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四十代の時>
1)皇太子妃雅子と東宮職大夫に、皇太子妃が祭祀をするので私の「宝物」を貸して欲しいと言われたが、私が断ると、宮内庁男性職員にサリンを噴きかけられた。後日、私は東宮職員にサリンで盲目にされ、祭祀の場に立ち会った。祭祀に使った「宝物」は、無断で東京国立博物館から持ち出されていた。
2)皇室典範改正に私が反対したことにより、怒った皇太子妃雅子が宮内庁の記者会見場で、私へ向けて実弾を発砲した。その後、私は東宮職侍従二名に撃針銃で撃たれて、東宮御所に監禁された。東宮御所では、雅子に、実弾銃および薬剤銃でそれぞれ数十発撃たれた。雅子は私が逃げられないように、主に脚を集中的に撃った。
雅子の妹池田礼子にも実弾銃と薬剤銃で、弾が切れるまで撃たれた。池田が撃った最後は実弾だったので、あわや殺されるところだった。
礼子が消えた後、高円宮妃久子が部屋に入って来た。久子は「私にまかせて」と安請け合いし、私を都内の飲食店へ連れ出したが、そこでサリン弾を私の足下に放った。警視庁のパトカーが出動して来て、久子と宮内庁職員は車で逃走した。しかし、私を残したまま去るわけにも行かず、結局、私はまた車に押し込められて、東宮御所へ戻された。
雅子は私を東宮御所から帰宅させるのはマズイと考えたのだろう、私が乗った車を秋篠宮へ廻した。私は秋篠宮妃に宮内庁へ戻して欲しいと頼み、その通りになった。宮内庁で私が雅子や久子に麻薬やサリンを使われたと訴えていると、案の定、久子が私の後を追って来て、庁舎内で実弾を発砲し、再び私を高円宮邸へ連行した。高円宮邸の一室に監禁されて、久子に薬剤銃で数発撃たれた。半裸にされて、同じく半裸の男(皇宮警察護衛官か?)が私の上に被さって来たところを写真に撮られた。青酸カリを塗った針で刺され、サリン弾のことは口外するな、と脅迫された。
3)雅子は、私を監禁していた部屋へ様々な種類の麻薬を持って来て、片端から試した。そして、自ら覚醒剤に火を点けた時、とうとう貧血でも起こしたように卒倒したが、私のほうは女性職員にサリンで盲目にされた上、紙巻大麻を咥えさせられて、写真を撮られた。
4)雅子は、私の承諾無く、東京国立博物館から「宝物」を持ち出して、東宮御所に並べて見せた。挙句の果て、「親魏倭王印」をボールのように投げて、床に落とした。宮内庁男性職員も、故意に銅剣を落して、真二つに折った。
5)私はまだ目がよく見えなかったのだが、雅子と皇宮警察護衛官に、在日米軍基地のマリファナ・パーティへ連れて行かれた。雅子は上機嫌ではしゃいでいたが、麻薬をやらない私は別室で待っていた。
続いて、長野県白馬へスキーに連れて行かれた。皇宮警察護衛官に無理やりスキー板を穿かされて、雪の傾斜に押し出されたが、私が案外、上手く滑って行くのを見ると、護衛官が撃針銃で私の足を撃った。
6)雅子は、自分の親衛隊のうち最も背が高い一人と抱き合っていた。別の護衛官が私に抱きついて来た。
7)自宅へ帰されてから数日後、改めて皇宮警察護衛官に皇居へ連行されて、今度は小和田恒に、東宮御所で何があったかと詰問された。私は雅子が実弾も含めて数十発を発砲したことを話し、「自分で東宮御所へ行って、壁に開いた弾痕を数えたら良いだろう」と言ってやった。その後、小和田と一緒に東宮御所へ連れて行かれ、皇宮警察護衛官が私を監禁されていた部屋とは別の部屋の前に立たせたが、私は次々に部屋のドアを開けて走り、とうとう蜂の巣様になった壁を発見した。しかし、私がその壁に到達した直後、小和田恒にサリンを噴きかけられた。
8)宮内庁職員の女に、大型の撃針銃で顔面を撃たれて、傷痕が大きな黒いホクロになった。
9)宮内庁からの電話で、「大事な話があるので来て欲しい」という言葉に騙されて、迎えの車に乗ったところ、宮内庁に着くと車を乗り換えさせられて、高円宮憲仁にカナダ大使館のスカッシュ場へ連れて行かれた。そこで、憲仁が筋肉増強剤を使用し、それを嫌がった私へ向けて護身用銃を発砲した。憲仁と男性職員は逃げて行ったが、私は大使館側から調査を受けた。宮内庁へ戻ってから、再び私は尋問され、自己弁明したが、結局、注射器は私が最初から所持していた、との供述書に署名せよ、と脅された。
10)数日後、皇宮警察護衛官に、憲仁の別宅へ拉致された。一週間くらい監禁されていた間に、憲仁に覚醒剤を打たれながら、強姦された。一旦、自宅へ帰されたが、再び皇宮警察護衛官によって拉致され、意識が無い間に丸裸にされた上にエプロンだけをつけた格好で、写真を撮られた。その後、数日間にわたって、皇宮警察護衛官に神経薬の注射器で刺されながら、憲仁の妾として連れ廻された。
11)宮内庁へ戻されると、三笠宮寛仁に抱きつかれ、口を舐められて、HIVを感染させられそうになった。
12)桂宮宜仁の部屋へ連行され、皇宮警察護衛官に神経薬を打たれて立てなくなった私は、車椅子に座った宜仁の上に横座りの状態で置かれ、宜仁に猥褻行為をされた。抵抗すると、宜仁に青酸カリの針で刺された。また、皇宮警察護衛官に、さらに強い神経薬を打たれて、床を這わされた。
13)宮内庁で監禁されていた間に、皇宮警察護衛官にサリンをズボンの尻に付けられて、衣服を脱がされた上、青酸カリを塗った針で刺された。その他、皇宮警察護衛官に薬剤銃で、主に利き腕や、肩や膝の関節を撃たれた。万歳をさせられた格好で腋に神経薬を注射されて、そのまま硬直させられた。両腕を前方へ差し出した格好で神経薬を注射されて、「L」字に硬直した両腕の上に猫を載せられた。
14)宮内庁に監禁されている間に、皇宮警察護衛官に、ズボンのポケットに入っていた自宅玄関の鍵を盗まれた。この鍵を使って、三笠宮寛仁が私宅へ侵入して来た。私は皇宮警察護衛官に神経薬を注射されて、HIV感染者の寛仁にコンドームを使って強姦された。
15)寛仁妃信子と麻生太郎の命令で、皇居へ拉致された。二人は私が寛仁にHIVを感染させたと勘ぐって、撃針銃で私を撃った。
16)高円宮妃久子に拉致されて、サリンで盲目にされた上、青酸カリの針で刺された。また、覚醒剤を注射された。意識が失せている間に衣服を脱がされて、半裸の男(宮内庁職員?)が私の上に載って来たところを写真に撮られた。
17)東宮職員の木幡清子に監禁されて、そこへ次々に入って来た男性職員による強姦未遂にあった。また、木幡自身が私に抱きついてきて、HIVを感染させようとした。その後、私は木幡と性関係があったHIV感染者の男性職員に撃針銃で撃たれて、コンドームを使って強姦された。
18)東日本大震災が起きた。
皇太子妃雅子が、侍女の軍団とともに大型SUV車に乗って来て、丁度、そこへ小型車を運転して帰宅した私へ向けて、薬剤銃を発砲した。