赤ん坊を抱いて来たのが誰だったか、覚えていない。それまで宮内庁の薄暗い部屋で監禁されていた私は、食事が終わるたびに、侍女から砒素を舐めさせられて(それで小さな子供が大人しくなると言うのだが)、あとは昼寝用の布団で寝ているだけだったから・・・、「外で遊びたい」と言ったのは確かに私自身だった。そば殻を入れて作った人形を持たされて、宮内庁と皇宮警察庁舎の間に植えられている樹木の一本に寄りかかると、「犬に気をつけなさいね」と女の声がした。
赤ん坊を連れて来たのが誰だったか覚えていないが、その子は白いおくるみに包まれて、静かに寝ていた。樹々は少し長くなった午後の影を地面に落としていたけれども、草が生えていない地面に、白い包みは直に置かれていた。
そこへ、突然、地響きとともに、四、五匹の大型犬が疾走して来た。皇宮警察が数十匹も飼っている番犬の「運動の時間」になったのだ。私は何日か前にその犬に手を噛まれたので、悲鳴を上げて、樹々の間を縫って逃げた。大方の樹には下部に枝が無かったので、よじ登ることはできなかった。以前、護衛官が「両手を着物の袖の中へ隠すのだ」と教えてくれたが、三歳ではそれも素早くできなかったから、両手を頭上へ挙げてみた。足はどうすればいいのか分からなかった。
しかし、犬の群れは、私ではなく、地面に転がっている白い包みを目がけて走って来た。そして、何匹かが一斉に噛みつくと、そのまま四方へ引っ張った。私は恐怖のあまり唇を引きつらせ、何か叫んだ。宮内庁の玄関のガラス・ドアに人影が見えたので、それへ向かってまっしぐらに走って行くと、女が一人出て来て、「何があったの?」と訊いた。その時、遠い林の向うから「そいつを中へ入れるな!」と護衛官が怒鳴る声が聞こえた。
女は、自分だけ建物の中へ入って、鍵をかけてしまった。護衛官が私に向かって「お前、こっちへ来い。戻れ。元の位置に戻れ」と言っていたが、私は玄関前の階段を降りなかった。不意に犬笛が鳴り、犬らは引き返して行った。一匹だけがいつまでも赤ん坊に喰いついていたが、護衛官が走って来て首輪を掴んで引きずって行った。
犬はいなくなったが、赤ん坊はまだ地面に放置されたままだった。泣き声は聞こえなかった。
この後の事態の展開を、私はどう説明すれば良いのか、わからない・・・ 私が幼かったが故に、事の重大さを理解する知能が足らなかった、という言い訳もできるだろう。
すぐに、「第二の群れ」が現れた。皇宮警察は数十匹の大型犬を飼っていたが、全部を一つの檻に入れると喧嘩をするので、五、六匹ずつを幾つかの檻に分けていた。新たに疾走して来た群れの一匹が、赤ん坊の片腕を噛んで、引っ張った。ガリっと犬の歯が何かを砕く音がした。別の一匹は赤ん坊の顔に喰いついていた。白い小さな顔にぽっかり真っ赤な穴が開いた。
赤ん坊が誰の子供なのか、知らない・・・ 皇宮護衛官が宮内庁の侍女に産ませた子供かも知れない。それとも、宮内庁の侍従が産ませた子供かも知れない。彼らは避妊具を一切使わなかった。きっと、あの赤ん坊は、遊んだ男にとっても産んだ女にとっても「要らない子供」だったのだろう。
護衛官らは、犬笛を吹いても戻って来ない犬を連れ戻しに来た時、おくるみから引き摺り出されて、土埃の中に転がっている赤ん坊を見たに違いない。それなのに、第二の檻を開けたのだ。・・・何かの手違いだったのだろうか? しかし、あの護衛官は、宮内庁の玄関前にいた女へ向かって、私を中に入れるなと言ったではないか・・・
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<数年後>
皇宮護衛官が「猫が死んだぞ」と言った。猫なんて、皇居で何年も見たことが無かったが、私はもう何も質問しない子供になっていた。「可哀そうだから、埋めてやってくれ」そう言って、護衛官は私に真新しいスコップと猫が入っているというバスケットを持たせた。
土が柔らかそうな場所を探して掘ろうとしたが、樹の根が張っていて、スコップの先端はほとんど地面に入って行かなかった。そうしているうちに、またよだれを垂らした警察犬が走って来たのだ。私は無性に腹が立って、スコップで犬を殴った。しかし、犬は怯みもせず、厚地の布ナプキンがかけてあるバスケットの中へ鼻先を突っ込んで、何かを引っ張り出した。黒く変色した一本の棒だった。赤ん坊の腕なのか、足なのか・・・ 私がなおもスコップで犬を殴っていると、二匹目、三匹目が現れて、今度は、バスケットの中から真黒い頭蓋骨が転がり出た。猫ではなく、幼い子供の頭だった。護衛官らが食堂の裏にある焼却炉で焼いたのだ。私はスコップを放って、逃げ出した。