【阿多羅しい古事記/熊棲む地なり】

皇居の奥の、一般には知らされていない真実のあれこれ・・・/荒木田神家に祀られし姫神尊の祭祀継承者

本当のあらすじ

2025年01月05日 | 歴史

 ※ この話は子供には不適切かも知れません。

 

二歳の時> 

1)自宅前で遊んでいたところ、宮内庁男性職員二名に、睡眠薬を嗅がされて車に押し込められ、皇居へ拉致された。

 

 

2)宮内庁舎の一室で一ヶ月ほど監禁されていた間に、皇宮警察護衛官に青酸カリを塗った針で刺された。

(後で、護衛官に私を襲った理由を訊いたところ、「私が誰か知らない、つまり、皇居の中で不審者を発見したのだから、お前を殺してもいいのだ」と答えた)

 

 

3)同じ頃、私の世話をしていた侍女ら(宮内庁職員)に、砒素の粉を舐めさせられたり、砒素の粉を米飯に振りかけて食べさせられた、砒素の粉を着物にまぶして着せられた、砒素の粉を撒いた布団に寝かされた。(殺人未遂)

(実行した女の一人に理由を訊くと、「砒素は使ってもいいのよ。昔から宮内庁の慣習で、子供には皆やることになっているの」と答えた。たぶん小さな子供がしじゅう興奮してはしゃいだり泣いたり走り出したりするのを、大人しくさせておく為なのだろう。当時の子供は犬猫と同等だった)

給仕係の侍女は、私を斜めに抱きかかえて、スプーンで食べ物を口へ入れるのだが、私が飲み込まないうちに次の一杯を押し込むので、私がむせて吐き出すと、「嘔吐した」と言って、最初は何かの丸薬を飲ませられたが、私が再び吐くと、ついに私は「胃弱」と言われて食事を制限された。

その他、侍女らには、剃刀で顔や手の甲を切られた、裁ちばさみで髪を切られた、着ていた衣服を切られた、耳を切られた。

 

 

4)朝から水の一杯もくれないので、とうとう侍女に「おぶう」と言ったら、背丈より深く水が張られた風呂に漬けられて、肺に水が入り、溺死しそうになった。(殺人未遂)

 

 

5)午睡の時間に添い寝をしていた侍女に、短刀で臀部上部を刺された。傷口は医者が縫合したが、後でその外科手術の「縫い跡」を隠すために再び手術が施され、皮膚を八方から引っ張り合わせた中心に、大きな黒いホクロを作られた。(殺人未遂)

 

 

6)自宅で、私が皇宮警察護衛官に拉致されそうになった時、祖母が家から走り出て来て、「自分が何でもするから、この子を助けてくれ」と懇願した。すると、護衛官は青酸カリの丸薬を取り出して、「それなら、これを飲んでみろ」と言い、祖母はその丸薬を唇に擦り付けられて、吐いて倒れた。(殺人未遂)

 

 

 

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三歳の頃> 

1)皇宮警察護衛官が、連日、私の家を襲撃してきた。家の中へサリン弾を投げ込み、青酸カリの注射器で私や母を刺した。また、液体サリンを、私が寝ている布団の上からかけた。砒素を、食物や粉ミルクに混入させた。実弾銃で、家の外から撃ったので、壁に大きな穴が開いた、また、家の中で天井へ向けて撃ったので、瓦が割れて、雨漏りするようになった。

安全ピンを抜いた手榴弾を持たされた。私が畑へ向けて投げたので、畑の中で爆発した。(殺人未遂)

 

 

2)結核を患っていた皇太子明仁に、うつされそうになった。皇居で食事を伴にした時、明仁が生の貝を無理やり私の口に入れたので、私が吐き出すと、怒った明仁は武官に命じ、武官は私の喉に麻酔薬の注射器を突き刺した。そして、弛緩した私の細い食道にゴム・ホースを挿入し、その管の先端から胃の中へ、さらに麻酔薬を垂らし込んだ。

 

 

3)皇居で、皇宮警察護衛官に、護身用小型銃で頭を撃たれた。宮内庁病院の天井からロープで俯せ状態に吊られて、どうにか治癒したが、退院後、護衛官らが私の頭を強く撫でると、てんかんのように泡を吹いて卒倒するのが面白いと言って、何度も失神させられた。(殺人未遂)

 

 

4)振袖を着せられて、昭和天皇裕仁の元へ挨拶に連れて行かれた時、裕仁と徳川義寛侍従に、護身用ペン型銃で標的にされた。袂が丸く焦げて、使い物にならなくなった。そこへ、銃声を聞いた皇宮警察護衛官一名が走り込んで来た。裕仁と徳川侍従はこの目撃者を撃ち殺した。それから、私の口を封じるために、何らかの薬剤を注射したのだが、裕仁が打った薬剤は私の胸に3cm程の白痣を作り、徳川侍従が打った薬剤は私の腹の半分に大きな焦げ茶色の痣を作った。

(その後、自宅で、生まれたばかりの弟が襲われ、何かの薬剤を注射されて、腹に赤痣を作られた。また、その後に生まれた妹は、顔に青痣を作られた。これによって、痣は、私の胸に作られた白色、弟の赤色、妹の青色、と三色が揃ったわけだ。)

 

 

5)自宅へ帰る車が用意されるのを待っている間、私が鉛筆を使って絵を描いていたところ、宮内庁の男性職員がその鉛筆を指して、「それはあなたに上げますよ」と言ったので、鉛筆を持ったまま部屋を出ようとしたら、背後から「泥棒!」と言われた。鉛筆は机の上に返したが、男は私が窃盗を働いた、と文書に記録した。

 

 

6)一度だけ、宮内庁男性職員から茶封筒に入れた現金を渡されたことがあるが、帰路の車内で、運転手と助手席の男二名に封筒ごと金を盗まれた。次回、そのことを職員に告げると、横から、(車馬課の?)運転手が「預かってあげよう」と申し出て、以後、封筒は運転手に渡され、自宅に着いても私や家族に渡されなかった。また、運転手が別の男性職員に、数枚の札を渡すのを見た。また、金を受け取った職員が私のポケットに札を押し込み、私がそれを引っ張り出しているところを、写真に撮られた。
(現在でも、時々、宮内庁や皇宮護衛官が万引きで逮捕されたという記事を見るが、公務員の本性なのか他人の金を使うことしか考えていないからだろう。)

 

 

7)侍女らに何度も殺されかかったので、宮内庁の年増女に「女は怖いから嫌だ」と言うと、「男ならいいのですね」と言い返され、皇宮警察へ移動させられた。しかし、皇宮警察の待遇はもっと酷く、昼夜、窓も無い暗い部屋で監禁されたので、今度は「外で遊びたい」と言うと、炎天下の屋外に放置され、熱射病になった。

或る日、宮内庁庁舎と皇宮警察庁舎の間にある林で、私が所在無げにしていると、護衛官が「これで遊べ」と言って、猫の足をくれた。切り口はすでに乾いていて、血は出ていなかった。

 

 

8)皇宮警察護衛官に、上方を向いて口を開けさせられ、短刀を喉に差し込まれた。短刀を引き抜く時、喉と口の端が切れて、血が顎をつたって落ちた。(殺人未遂)

その他、ナイフで耳を切られた、顔を切られた、着物を切られた。(ピアノを習い始めた直後に)右手の小指を掴まれて、捻られ、骨折させられた。銃撃で腕の皮膚を焼かれた。麻酔薬を尻に注射されて、失禁させられ、下着を脱がされた後、そのまま屋外を連れ回された。青酸カリを塗った針で、性器を刺された。

 

 

9)宮内庁の玄関へ助けを求めて逃げたが、受付の女性職員にサリン弾を投げつけられ、撃針銃で撃たれた。三度目くらいの時、自動ドアの電源を切られて、玄関の外に締め出され、(スプリンクラーの様に)頭上からサリンを噴射された。(殺人未遂)

 

 

10)宮内庁の医務官に、膣を開けられて、小さな綿タンポンのような物を入れられた。下着を穿かされないまま屋外に放置されたが、麻酔が切れてくると、自分の股から10cmくらいの紐が出ているのに気づき、引っ張ってみたが抜けず、発狂しそうになって失禁した後、多少の出血をしたが引き抜いた。

それを見ていた皇宮警察護衛官が、「メンスがあるから、できるのか?」と言って、私の膣に指を入れようとした。激痛で悲鳴を挙げると、護衛官は手を引っ込めたが、膣の入口を爪で引っ掻れたため出血がひどくなって、しばらく排尿時に血が混じった。

 

 

11)屋外に放置されている間に、皇宮警察護衛官が宮内庁大膳課の女性職員を捉えて、皇宮警察庁舎へ拉致して行くのを目撃した。二度目に目撃した時、私も一緒に監禁されて、女性が強姦されるところを見せられた。

 

 

12)私が屋外の木陰にいると、誰かがおくるみに包んだ赤ん坊を連れて来て、地面に置き去りにした。そこへ皇宮警察が飼っている犬数匹が走って来て、赤ん坊を包んでいる布を噛んで引っ張った。私は悲鳴を上げながら、樹の間を縫って四本か五本分逃げたが、犬は私を追って来なかった、赤ん坊に喰いついているのだ。声をからして呼ぶと、護衛官二名が走って来て、犬を赤ん坊から引き離して、引き摺って行った。しかし、肝心の赤ん坊はまだ地面に転がっていた。そして、第二の大型犬の群れが疾走して来た。(皇宮警察は、数十匹の犬を一つの檻に入れると喧嘩をするので、幾つかの檻に分けて飼っているのだ。) 一匹が赤ん坊の片方の腕を噛みちぎり、もう一匹が顔に喰いついた。私は宮内庁の玄関へ走った。女が一人、ガラス・ドアの外へ出て来て、どうしたの?と訊いたが、赤ん坊を助けには行かなかった。離れた所から、男の声が飛んだ。「そいつを中へ入れるな!」 女は私を置いて、自分だけ玄関へ入ると、鍵を閉めてしまった。かなり時間が経ってから、犬笛が鳴った。(殺人)

 

赤ん坊が犬に噛まれるのは、二回見た。二回目の時は、皇宮警察護衛官が赤ん坊を抱いて来た。男は麻酔薬か何かの注射を赤ん坊に打ってから、走り去った。

 

翌年、皇宮警察庁舎の仮眠室で、二歳くらいの女児が護衛官に虐待されるのを見た。私は逃げようとしたが、別の護衛官に捉えられ、最初の男が子供の膣に指を入れているのを見せられた。出血をしているのか、「もうアレがある」と主犯の男が振り向いて言い、従犯の男が「もうじき、子供ができるぞ」と応じた。その時、女児の悲鳴が上がった。すると、男が麻酔薬か何かを注射した。しかし、しばらく経つと、また鋭い悲鳴があがり、再び男が注射をした。三本か四本打たれた女児は、死んでしまったようだった。私を掴んでいた男の手が緩んだので、私は部屋から飛び出して、叫んだ。その後で、そこに大勢の護衛官がいるのに気がついた。子供が虐待されている部屋の隣室は、護衛官らが日常勤務している大部屋だったのだ。実行した二人の男は屋外へ逃げて行ったが、誰も追わなかった。子供の様子も見に行かなかった。(殺人)

 

何日か経った次の時、同じ主犯の男は(子供が丸まっているらしい)布団の中へ手を入れていた。子供は最初から死んだように動かなかった。男は子供に何かの注射をして、部屋を出て行った。隣室には、四人ほど護衛官がいたが、私は机の下へ潜って、赤い緊急ボタンを探し当て、それを押した。ベルが鳴り響いた。(その後は、まるで道化の猿芝居を見るようだったが)大勢の護衛官が火事の時に使う消火用ホースを担いで走って来た。(殺人)


いつも和服を着ている宮内庁の年増女が言った。「ああいう親の無い子は、可哀想なの。・・・死んだほうが幸せなのよ」 
 

 

・・・こういった「親がいない子供」のうち、女児の多くは護衛官らに性虐待された末に殺されてしまったが、男児らは「死にたくなかったら、何でも言われたとおりにやれ」と脅されたので、毎日、「女児」を一人か二人捕獲して、護衛官らに差し出した。或る時、男児の一人が興奮した面持ちで言った、「自分が女ではなかったことを、心底、幸運に思う」と。

一方、皇族の相手をしたと言う十代の女もいた。彼女は或る時を堺に、突然、豪奢な打掛を着せられ、護身用の銃を持たされた。そして、後宮の女らの前で、「私、きっと子供を産むわ」と宣言した。しかし、その女がいなくなると、年上の女が言った、「あの子、知らないのよ。・・・妊娠したら殺されちゃうのに」 

数年後、皇宮護衛官が私に、「とうとう新しい焼却炉を買ったんだ、凄く高温なんだ。これで何でも燃やせる、骨も残らないんだ」と言った。
昭和の終わり頃には、皇族の妾も子供も、嘱託で使っていたのも、全部、処分した。と皇宮護衛官が言った・・・

 

 

 

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四歳の頃>

1)世話係の侍女の策略で、(皇室関係者の子供だったと思う)同年代の男児と一つの布団に寝かされて、男児に猥褻行為をされた。女らはそれを「同衾した」と言いふらした。一方、年寄りの宮内庁男性職員に、娼婦が寝床でするような仕草を教えられ、男児の前でそうするよう強要された。また、その男は護衛官らにも私の性器や尻を触るよう指示した。(それで、私は四十代になるまで、宮内庁職員や皇宮警察護衛官らにやたら尻や性器を触られる、という猥褻行為をされた。それは私が「親魏倭王印」を東京国立博物館に委託した後、勲章授与されても、同様だった。)

 

 

2)御用牧場へ連れて行かれて、馬の出産を見せられた。まだ胞衣に包まれたままの仔馬を、宮内庁男性職員が私に抱かせて、「お前もこうして生まれたのだ」と言いながら、それを破り、その生臭い塊を私の顔にくっつけた。私を連れて来た職員は「汚いから、お前は車に乗せられない」と言って、私を置き去りにした。

 

 

3)宮内庁男性職員に上野動物園へ連れて行かれて、にしき蛇舎の中に閉じ込められた。檻は他の動物のものだったのか柵の隙間が広かったので、蛇は悠々檻から出て来た。

 

 

4)昭和天皇裕仁は、吉武高木遺跡の発掘現場で護衛官にサリンを撒かせて、出土した副葬品(古代中国の斉王の宝物)を略奪した。あとに残った人骨には硫酸らしいものが撒かれて、遺跡は埋め戻された。この成功によって、裕仁は皇居へ戻った後、護衛官らに「サリンを使っても良い」と宣下した。以後、私は拉致される度に、サリンを浴びせられる羽目になった。(そのうち二回は、ガス室に閉じ込められて、痙攣を起こして卒倒した。)(殺人未遂)

 

 

5)東久邇盛厚と稔彦の親子が、小銃を持った皇宮警察護衛官二十名くらいを連れて、私宅を襲って来た。「秦の宝物」と「後醍醐天皇の直筆書」など数点を盗まれ、最も古い竹簡が皇居の庭で燃やされた。私が「誰か、火を消して」と叫ぶと、護衛官の一人がそれへ小便をかけた。

 

 

6)皇宮警察護衛官四名が、曾祖父宅をサリンで襲撃して、親族の大人全員が倒された。倉庫の裏にいて助かった私は、近くの駐在所へ走ったが、そこの警察官も屋外に倒れていた。別の交番へ知らせ、警察官と一緒にパトカーで自宅のほうへ戻って来ると、途中で駐在員に成りすました護衛官に車は止められて、サリン弾を車内に投げ入れられた。

 

 

7)皇宮警察護衛官に、山へ連れて行かれて、背負わされたリュックサックに、口を開けたサリン弾を入れられた。別の時、山道でサリン弾を投げつけられ、盲目で遺棄されて、一夜、山中で過ごした。また別の時、手や顔に蜂蜜のようなものを塗られ、熊蜂に体中を刺された。

 

 

8)皇宮警察護衛官に、破損した小型船の客室に乗せられた。水が入って来たのでデッキへ出て、浮き輪を探したが、全部、穴が開けられていた。決死の覚悟で海へ飛び込むと、別の船に乗り換えた護衛官らが実弾で撃って来たので、溺死しそうになった。(殺人未遂)

 

 

9)外国へは、最初の二回くらいは宮内庁男性職員に連れて行かれたが、職員が暴漢にナイフで刺されたので、以後は皇宮警察護衛官だけが付いて、米国、英国、フランス、イタリア、エジプト、アフリカなどへ旅行した。護衛官らは旅行費用が公費で賄われるので歓喜したが、どこへ行っても、窃盗をしたり、物を壊したり、むやみに発砲したりサリン弾を投げたりしたので、多くが現地の警察官に射殺された。私も取り調べを受け、警棒で殴られた。(殺人未遂)

 

 

10)元宮家の子供らが、自分たちも外国へ行きたいと言い出し、私を毒針で脅迫して同行させ、専用機で英国へ飛んだ。外遊の興奮が高じた男児の一人が、英国人に向って発砲した。男児は、謝罪の品として、私を置き去りにした。

 

 

 

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五歳の頃>

1)宮内庁の男性職員二名に九州の弥生遺跡へ連れて行かれ、職員が耕運機を使って耕した後、さらにスコップで穴を掘って、弥生土器の欠片と摩耗石器を埋める、という歴史捏造に協力させられた。職員らは私に土器を持たせて写真を撮った後、一人が私の服にサリンを拭って付着させた。すると、我々の後を追って来た皇宮護衛官が「そんなのでは駄目だ」と言って、草むらへ逃げた私の背中へサリン弾を投げつけた。近くの住人が警察を呼んだらしく、巡査のような成りの男が走って来て、倒れている私の腕を取って立たせようとしたが、その後方から、皇宮護衛官が銃撃した。男は私に覆いかぶさるように崩れた。

 

 

2)東久邇盛厚の子、信彦に、針で目を刺された。「目が痛い」と泣いていると、護衛官に麻酔薬を目にかけられた。また、信彦に、ライターで衣服を燃やされた、髪を燃やされた、灯油を頭にかけられて、火を点けられそうになった。重油を手の甲に塗られて、火を点けられた。

 

 

3)私の命が危ないと知った曾祖父が、祭祀用の青銅製冠を持たせてくれたが、宮内庁に着いたら、男性職員にひったくられた。後で、その冠を紀宮清子が被っていた。

 

 

4)天皇裕仁の会食に招待された。私が食べずにいると、武官(皇宮警察護衛官)が私の口を無理やり開けて、青酸カリを包んだ団子を飲み込ませた。さらに、武官は私の喉に麻酔薬を注射して、弛緩した喉に水道のゴム・ホースを挿入し、蛇口をひねった。胃はすぐに満杯になって、鼻から、耳から、尻の穴から、水が流れ出た。(殺人未遂)

皇太子明仁とその武官にも、同様の虐待をされた。口から十センチほどのホースが出ている図を、写真に撮られた。

 

 

 

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六歳の頃>

1)自宅前で遊んでいたところ、皇宮警察護衛官に捉えられて、青酸カリの丸薬を飲まされそうになった。父は青酸カリの丸薬を口につけられて、吐いて倒れた。(殺人未遂)

 

 

2)皇居で、護衛官らに、歩けなくなるまで撃針銃で脚を撃たれた。帰宅後に大怪我をして、1ヶ月入院した。半年ほど松葉杖を使っていたが、女性護衛官が看護婦と偽って小学校へ来て、私を追い回したあげくに、手術をした脚をひねって捻挫させた。

 

 

3)皇居で正装して宮殿へ行く時、皇宮護衛官に、宝石が埋め込まれた古代の冠二点を銃で撃たれた。破損して取れた宝石を、護衛官らが盗んで行った。同じくダイヤモンドを埋め込んだプラチナ製の冠も護衛官に銃撃され、一人が取れたダイヤモンドを飲み込んだ。

 

 

4)宮内庁男性職員が、(東京国立博物館へ委託したはずなのに、皇居に隠してあった)「秦の青銅製鼎」を外へ持ち出して破壊した。気が短そうな男だったが、理由は知らない。

 

 

5)東久邇盛厚に自衛隊基地へ連行され、砒素を注射されて殺されそうになった。私は注射器を引き抜いてあばれたので命は助かったが、両腕に五センチくらいの真っ黒い痣ができて、成人になるまで消えなかった。(殺人未遂)

 

 

 

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七歳の頃> 

1)勲章授与の時、私がお辞儀をした頭上に、液体サリンを落とされた。その後、勲章は硫酸か何かをかけられてボロボロにされて、自宅の玄関前に捨ててあった。(殺人未遂)

 

 

2)米国政府による調査のため、米国本土へ連れて行かれた。体中が針痕と痣だらけの私に、女性調査官は同情してくれたが、付き添って来た護衛官が(私の命令だと言って)サリン弾を噴射したために、私が米兵に殴られた。

 

 

3)皇宮警察護衛官に、調理室に似た多数の作業台が置かれた部屋に、ガスコンロのガスが出たまま、閉じ込められた。ドアの鍵が開かなかったので、窓ガラスを素手で割った。次の時も同じ部屋で、護衛官が作業台の上に少量の油をこぼして、それに火を点けて逃げた。ドアが開かなかったので、水道水を両手ですくってかけて消した。三度目は、数人の子供だけで部屋に入れられたが、護衛官に命令された男児が油を床に撒いて、火を点け、もう一人がガス栓を開けて、逃げた。ドアは開けられたままだったので、残った女児らは皆、廊下へ逃げた。私が階段を駆け下り、一階の窓から外へ出ると、間もなく爆発音が聞こえた。(殺人未遂)

 

 

 

 

 

 

 


本当のあらすじ/続き

2025年01月05日 | 歴史

※ この話は子供には不適切かも知れません。

 

本当のあらすじ/続き
 
 

八歳の頃>

1)皇居(後宮)で侍女らと一緒に宿直をさせられて、そこへ現れた三笠宮寛仁に着物を捲り上げられて猥褻行為をされた。その後、宮内庁男性職員に、下着姿の猥褻写真を撮られた。若い侍女が寛仁に捉まって、強姦された。

 

 

 

2)皇宮警察護衛官に東京国立博物館・宮内庁宝物館へ連れて行かれ、奥の暗がりで麻酔薬を注射されて、宝物館職員に猥褻行為をされた。

 

 

 

3)皇宮警察護衛官に、宮内庁の食堂で出たゴミ・バケツを持たされて、屋外の焼却炉に捨てるように言いつけられた。別の護衛官が重油のようなものを炉の中へ撒いて、火をつけた。(バケツの中身は野菜くずだった) 後日、また護衛官が「犬が死んだから、火葬しろ」と言って、ぼろ布を巻きつけた包みを私に持たせた。が、私がそれを放って逃げたので、護衛官自身が焼却炉の中へ投げ入れた。

 

半年くらい経った頃、今度は「猫が死んだ。可哀そうだから、埋めてやってくれ」と護衛官は言い、厚地の布をかぶせたバスケットと小型のスコップを私に持たせた。皇宮警察庁舎裏の林で樹の根元あたりを掘っていると、また警察犬が二匹現れて、一匹がバスケットの中から二十センチくらいの黒い棒のような物を引っ張り出した。もう一匹がバスケットの縁に足をかけたので、籠が傾き、真っ黒く変色した頭蓋骨が転がり出た。猫ではなく、人間の子供の頭骨だった。後で、護衛官が私の顔を見ながら言った、「赤ん坊はいいが、あのくらいになると犬が食わねえ、残すんだ。犬もあんな物、残すんだよ」

 

「闇の子供」のうち、女の子は大抵、護衛官らに性虐待されたあげく殺されたので、中学生になるまで生きたのはみんな男だった。彼らは皇宮警察から銃とサリン弾と青酸カリを貰って、皇宮警察のアルバイトとして働いていると私に話した。彼らは五、六人が一組になって活動していたが、その集団の中に彼らより二回りも小柄な女の子が一人、いつも同行していた。年長の男子がその子を指して言った、「こいつは、俺らにくれたんだ」 彼らは密偵である皇宮護衛官らと一緒に私が通っていた中学校へも来たが、その教室内で性行為をしようとした。

 

彼らは中学を卒業する頃に「処分」された。幾らかの金を付けて、誰かの「養子」にして、出来がいいのは警察学校へ、防衛学校へ、残りは住込みで働ける民間企業へと振り分けられた。その時、皇宮護衛官が「餞別」として渡したのがサリン弾だった。そうしてサリン弾と青酸カリを持って日本中へばら撒かれた子供らは、一般社会でも女を拉致し、強姦した。彼らは本来は被害者である女たちに、「俺たちは、天皇陛下を守る皇宮護衛官の子供なのだ。腹の子供もそうだ、大事にしろ」と、自分の父親が言ったとおりを繰り返した。

 


 

 4)私は自宅近くで皇宮護衛官三名に捉まって、皇居外に建てられた皇宮警察別館の三階か四階の部屋に入れられた。そこには医療用ベッドが一つ置かれ、その上で顔色の悪い女が股を広げた格好でぐったりしていた。股の間からは、小さな手が出ていた。護衛官の一人が「逆子」だと言ったので、私はその後、高校生になる頃までそう信じていたが、よく考えてみれば胎児の手が出ていたのだから「逆子」ではない。それに、手は洗ったように綺麗だった。つまり、誰かがまだ子供が生まれる前に、「胞衣」を破って、片手を引っ張り出したのではないか? それとも、すでに誕生して産湯で洗った後に、赤ん坊を再び子宮に入れたのか?

護衛官らは小学生の私に「産むのを手伝ってやれ。お前、できるだろう?」と言って、部屋から出て行った。私は彼らとは反対方向へ廊下を逃げ出し、(後で給湯室と分かったのだが)暗く狭い部屋に飛び込んで、鍵をかけた。
そこには運よく「直通ボタン」がある電話が置かれてあったので、私はまず、警察庁へかけてみた。「護衛官らが女に赤ちゃんを産ませては、殺している」 しかし、相手は「ああ・・・そういう事はよくあるんだ。こちらでも時々、利用させてもらっているよ」と返した。私はすぐさま電話を切って、今度は内閣府へかけた。「お腹に赤ちゃんがいる女が死にそうになっている」と私は説明したが、これもまた煩そうに「そんな事はよくあるんだ。お前も死ねばいい」と吐き捨てた。
その時、廊下の向うから、女の力無い悲鳴が聞こえた・・・

 


私は、「国会」だったのか、「総理官邸」だったのか忘れたが、まだ押していないボタンを押して、「女が死にそうなのだ。紫色の顔をしている。あんたたちの誰かが父親なのだ」と怒鳴った。相手は「俺は違う」と言い、「おちつけ。今から言う番号へかけろ。119だ。分かるか?」
・・・ああ、この猿の国にも、ましな人間がいないわけじゃあないのだ、と思ったら、涙が出そうになった。私は119番へかけた。それから110番へもかけた。救急車は表玄関の外の道路で停まった、が、一階にいた皇宮護衛官らに銃撃されて、最初に車から降りた救急隊員が路上に倒れた。他の隊員は仲間を救急車の中へ運び入れ、サイレンを鳴らして走り去った。警視庁のパトカーが来た。護衛官らはまた銃撃した。警官はパトカーをバックさせて、見えなくなった。私がいた給湯室の窓ガラスが銃撃で割られた。皇宮護衛官がそこからサリン弾を投げ入れた。私は盲目で階段を駆け降りようとしたが、護衛官が待ち伏せていて麻酔銃で撃たれた。女は死んだ。宮内庁で葬儀をした時、誰だか知らない中年の男が「彼女は子供を腹に入れたまま死んだので本望だった」と言っていた。

 

 

 

5)宮内庁で振袖を着せられ、皇宮警察護衛官に車に乗せられたが、都内の橋の途中で降ろされて、護衛官に足下を銃撃された。「川へ飛び込め」と言われ、逃げようとしたがすぐに捉えられて、川へ落とされた。運よく川底に足が着いたので、岸へ上がることができた。

再び、別の日、同様に着物を着せられて、川へ投げ込まれた。どうにか仰向けに浮いていたが、着物が重く、体はだんだん沈んで行き、溺死しそうになった。橋の上から、護衛官がバケツで何かの薬剤を私の上に撒いた。 

 

 

 

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十歳の時>

1)夜中に、皇宮警察護衛官四名が私の家を襲って来た。物音で私が目を覚ました時、父は板間に正座させられて、毒針で頭を刺されていた。母と弟は土間に倒れていた。私自身は青酸カリを塗った針で脚を刺されて、玄関のたたきへ転げ落ちたが、その叫び声で近所の人が起きて来て、警察を呼んでくれた。

しかし、父は再び帰宅時にサリンで襲われ、しばらくの間、目が見えないと言っていた。

 

 

 

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十一歳の時>

1)父が脳出血で倒れて、殺された。(殺人)

 

 

 

2)葬儀が終わった後、宮内庁の中年女が訪ねて来て、青酸カリの丸薬を一粒、母の前に置いた。自殺しろという意味なのだろう。母が飲まずにいると、女は私を捉え、丸薬を口に入れようとした。

 

 

 

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十二歳の時>

1)皇宮警察護衛官に皇居へ拉致されて、天皇裕仁と侍医の二人に、性器を検査されるなどの虐待を受けた。私はまだ初潮が無かったが、年寄りの医務官は「少しお待ち頂ければ、すぐに女になりましょう」と裕仁に言い、私が服を着た後で、ホルモン剤と思われる錠剤を飲むようにと渡された。

 

 

 

2)皇后良子と和子の命令で、皇宮警察護衛官に皇居へ拉致され、和子を伊勢神宮祭主に推薦せよと脅迫された。二人に銃撃された。

 

 

 

3)宮内庁から、バケツ一杯の水銀に漬られた小魚が届けられた。三歳の妹が素手で魚を掴もうとしたので、水銀が台所の土間に散らばった。

 

 

 

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十三歳の時>

1)十二歳で初潮があってから半年ほど経った頃、皇居に拉致され、下腹部に麻酔薬の注射を二本打たれて、天皇裕仁に強姦された。丸裸で裕仁に抱っこされている図を、写真に撮られた。避妊のためにホルモン剤を注射されたので、その後の五ヶ月間、メンスが無かった。(宮内庁は、この「天皇が処女を強姦する」という行為を宮中祭祀とした。実際、私が強姦されている最中に、正装をした神官が幣を振りながら何か唱えていた)

 

 

 

2)再びメンスが始まった頃、また皇居へ拉致されたが、裕仁はもはやホルモン注射をしても勃起せず、性的不能になっていた。怒った裕仁は、私を護衛官の一人に下賜した。

顔も名前も知らない皇宮警察護衛官に、麻酔を注射され、器具を使って膣を開けられ、強姦された。護衛官はスポイトで膣の中の精液を抜き取り、消毒剤を噴射した。さらに、私が妊娠しないようにホルモン剤を注射したので、急にメンスが始まり、血だらけになった性器を写真に撮られた。下着を穿かないまま自宅へ帰され、護衛官は母の前で私の股を広げて、強姦された性器を見せた。

 

 

 

3)再び皇宮警察護衛官に皇居へ拉致され、(性交の記念品として)真鍮の指輪を指にはめられた。私がそれを抜き捨てると、護衛官にサリンを噴きかけられ、指輪を膣に入れられた。

 

 

 

4)皇宮警察護衛官が私宅へ電話をかけて来て、「指輪はどうしたか?」と訊いたので、「知らない」と答えると、数日後、五、六名が私宅へ土足で押し入って来た。「あれが無いと、売春だぞ」 一人が撃針銃で私を撃ち、別の一人が実弾銃で天井を撃ち、それで興奮した別の一人がズボンの前から勃起した性器を出して、畳の上に精液を飛ばした。最後にサリン弾を投げて、意気揚々と帰って行った。

 

 

 

5)皇宮警察護衛官が、私が通っていた中学校の職員室に、覚醒剤と青酸カリと短銃を置いて行った。数日後、教員の一人が短銃を持って教室へ入って来て、撃った。弾は最前列と二列目に座っていた生徒の体を貫通して、後方の生徒の肩に当たった。

救急車が来るより前に、護衛官が教室に現れて、幾人かの生徒へ順に視線を投げながら「警察が来たら、こいつがやったと言え。そうすれば、アレ(先生)は助かるんだ」と教唆した。しかし、生徒らはさすがに同級生が死んでいるので、県警の警察官へ事実を話したようだったが、一人は卒業するまで、私に「あんたがやった」としつこく言い続けた。

青酸カリは、後で私が校長に飲まされそうになった。「俺とやったら、お前が撃ったことは高校へは言わないでおく」と脅された。

 

 

 

6)皇宮警察護衛官に、中学校の制服(厚地のウール)を着たままプールへ投げ入れられ、サリンを浴びせられて、体近くに銃撃された。(殺人未遂)

 

 

 

 

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十六歳の頃> 

1)高校の制服を着たまま、海上で小型船から落とされた。浜に近かったので海岸へ向かって泳いだが、大型のサメが追って来て、間一髪で浜にたどり着いた。皇宮警察護衛官らは、船上で声高に笑っていた。(殺人未遂)

 

 

 

 

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十七歳の時>

1)皇宮警察護衛官に皇居へ拉致され、売春婦のような卑猥な下着を次々に着せ替えられて、写真を撮られた。性的不能の天皇裕仁と若い護衛官に猥褻行為をされた。

 

 

 

2)皇宮警察護衛官数名が、私が通っていた高等学校へ侵入して、教室にサリン弾を投げ込んだ。私が廊下へ逃げると、屋外にいた護衛官が開いていた窓から、撃針銃で撃ってきた。まるで人間狩りだった。

 

 

 

3)宮内庁へ拉致された後、皇宮護衛官に「芸能人では誰が好きか?」と訊かれた。「誰もいない」と私が答えると、「それなら、こちらで探してやる」と言って部屋を出て行ったが、しばらく経つと、「おい、いたぞ。お前にぴったりなんだ。お前、会いたいだろう?」と言い出した。

翌日、後にオウム真理教教祖となる松本智津夫が連れられて来た。護衛官は松本に「お前、これが作れるか?」と訊きながら、サリン弾一個を渡し、続けてサリンの原料らしい薬品名を二つか三つ教えた。私は叫んだ、「開けちゃ駄目。それは猛毒のガスだから」 松本はもらったガス弾を床へ落として、廊下へ逃げた。護衛官がそれを拾って、追いかけながら、廊下で松本を捉えた仲間の護衛官に、「なあ、早くこれをやって、帰そうぜ」と言っていた。

日本人の誰もが、信じられない!と叫ぶだろうが、「オウム真理教」は皇宮警察が作った!

 


護衛官らは私の家を襲撃して来た時、学校へ侵入して来た時、また、私を公用車に乗せて帰る途中で私を捨てる時、偶然通り合わせた人間・・・皇宮警察にも私にもまったく無関係な人間に・・・「これはガスが出るだけで、すぐに消えてしまうから、使っても、お前は逮捕されない」と言ってサリン弾を与えた。すると、貰った者の全員が使った。

 

 

 

 


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十九歳の頃>

1)天皇裕仁は、私を皇宮警察護衛官に下賜したことを忘れたのか、明仁、寛仁、宜仁を次々に呼んで、私を下賜するが、いかがか?と尋ねた。明仁と寛仁は辞退したが、宜仁の場合は母親の三笠宮妃百合子が現れて、「それなら、息子の相手をしろ」と私に命令した。結局、私が必死に抵抗したので、未遂に終わったが、宜仁は自分の体が汚されたと騒いだ。

 

 

 

2)宮内庁へ拉致されて、男性職員に眼のすぐ上あたりに何かの注射をされた。翌日、片方のまぶたが「お岩さん」のように腫れた。治癒後にかさぶたができたが、それが取れた後に大きなアバタが残った。

 

 

 

 


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二十二歳の頃>

1)皇宮警察護衛官が私の職場へ来て、サリン弾を投げて逃げた。県警の警察官は空になったサリン弾を確保して行ったが、一週間後、「捜査はやらないから、返すぞ」とまるで拾得物のように返却しに来た。私は、私の所有物ではないので拒否したが、警官は事務机の上に置いて行った。別の部署の男性社員が来て、持ち去ってしまった。

皇宮警察護衛官は、同企業の玄関受付にいる女性社員にもサリン弾と護身用銃を、また同僚の男性社員数名にサリン弾と青酸カリを渡したので、私はそれら全員に襲われた。

 

 

 

2)皇宮警察護衛官に撃針銃で撃たれて、皇居へ拉致された後、東久邇信彦に覚醒剤を注射されて、強姦された。

その後、宮内庁男性職員の「(北朝鮮へ拉致されて)日本へは帰って来るな」と言う声に送られて、私は報道関係者と称する韓国人の男二名に引き渡された。男らはインタビューしたいと言ったが、私は途中で逃げ出して、警視庁に保護された。

 

 

 

 


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二十三歳の頃>

1)(私はすでに結婚が決まっていたが)皇宮警察護衛官に撃針銃で撃たれて皇居へ拉致され、浩宮徳仁に(避妊具を使わずに)強姦された。

発情した犬みたいに、徳仁は私に飛びかかって来て、自分がやりたいようにやった・・・

 

 

 

 


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二十四歳の時>

1)結婚相手の生家から、伊勢神宮の白銅鏡が発見された。
私は東京国立博物館へ委託したい旨を連絡したが、宮内庁男性職員と皇宮警察護衛官が「宝物を全部よこせ。」と脅迫に来て、庭で実弾銃を撃ち、家の中へサリン弾を投げて行った。

 

 

 

 


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四十代の時> 

1)皇太子妃雅子と東宮職大夫に、皇太子妃が祭祀をするので私の「宝物」を貸して欲しいと言われたが、私が断ると、宮内庁男性職員にサリンを噴きかけられた。後日、私は東宮職員にサリンで盲目にされ、祭祀の場に立ち会った。祭祀に使った「宝物」は、無断で東京国立博物館から持ち出されていた。

 

 

 

2)皇室典範改正に私が反対したことにより、怒った皇太子妃雅子が宮内庁の記者会見場で、私へ向けて実弾を発砲した。その後、私は東宮職侍従二名に撃針銃で撃たれて、東宮御所に監禁された。東宮御所では、雅子に、実弾銃および薬剤銃でそれぞれ数十発撃たれた。雅子は私が逃げられないように、主に脚を集中的に撃った。

雅子の妹池田礼子にも実弾銃と薬剤銃で、弾が切れるまで撃たれた。池田が撃った最後は実弾だったので、あわや殺されるところだった。

 

礼子が消えた後、高円宮妃久子が部屋に入って来た。久子は「私にまかせて」と安請け合いし、私を都内の飲食店へ連れ出したが、そこでサリン弾を私の足下に放った。警視庁のパトカーが出動して来て、久子と宮内庁職員は車で逃走した。しかし、私を残したまま去るわけにも行かず、結局、私はまた車に押し込められて、東宮御所へ戻された。

 


雅子は私を東宮御所から帰宅させるのはマズイと考えたのだろう、私が乗った車を秋篠宮へ廻した。私は秋篠宮妃に宮内庁へ戻して欲しいと頼み、その通りになった。宮内庁で私が雅子や久子に麻薬やサリンを使われたと訴えていると、案の定、久子が私の後を追って来て、庁舎内で実弾を発砲し、再び私を高円宮邸へ連行した。高円宮邸の一室に監禁されて、久子に薬剤銃で数発撃たれた。半裸にされて、同じく半裸の男(皇宮警察護衛官か?)が私の上に被さって来たところを写真に撮られた。青酸カリを塗った針で刺され、サリン弾のことは口外するな、と脅迫された。

 

 

 

3)雅子は、私を監禁していた部屋へ様々な種類の麻薬を持って来て、片端から試した。そして、自ら覚醒剤に火を点けた時、とうとう貧血でも起こしたように卒倒したが、私のほうは女性職員にサリンで盲目にされた上、紙巻大麻を咥えさせられて、写真を撮られた。

 

 

 

4)雅子は、私の承諾無く、東京国立博物館から「宝物」を持ち出して、東宮御所に並べて見せた。挙句の果て、「親魏倭王印」をボールのように投げて、床に落とした。宮内庁男性職員も、故意に銅剣を落して、真二つに折った。

 

 

 

5)私はまだ目がよく見えなかったのだが、雅子と皇宮警察護衛官に、在日米軍基地のマリファナ・パーティへ連れて行かれた。雅子は上機嫌ではしゃいでいたが、麻薬をやらない私は別室で待っていた。

続いて、長野県白馬へスキーに連れて行かれた。皇宮警察護衛官に無理やりスキー板を穿かされて、雪の傾斜に押し出されたが、私が案外、上手く滑って行くのを見ると、護衛官が撃針銃で私の足を撃った。

 

 

 

6)雅子は、自分の親衛隊のうち最も背が高い一人と抱き合っていた。別の護衛官が私に抱きついて来た。

 

 

 

7)自宅へ帰されてから数日後、改めて皇宮警察護衛官に皇居へ連行されて、今度は小和田恒に、東宮御所で何があったかと詰問された。私は雅子が実弾も含めて数十発を発砲したことを話し、「自分で東宮御所へ行って、壁に開いた弾痕を数えたら良いだろう」と言ってやった。その後、小和田と一緒に東宮御所へ連れて行かれ、皇宮警察護衛官が私を監禁されていた部屋とは別の部屋の前に立たせたが、私は次々に部屋のドアを開けて走り、とうとう蜂の巣様になった壁を発見した。しかし、私がその壁に到達した直後、小和田恒にサリンを噴きかけられた。

 

 

 

8)宮内庁職員の女に、大型の撃針銃で顔面を撃たれて、傷痕が大きな黒いホクロになった。

 

 

 

9)宮内庁からの電話で、「大事な話があるので来て欲しい」という言葉に騙されて、迎えの車に乗ったところ、宮内庁に着くと車を乗り換えさせられて、高円宮憲仁にカナダ大使館のスカッシュ場へ連れて行かれた。そこで、憲仁が筋肉増強剤を使用し、それを嫌がった私へ向けて護身用銃を発砲した。憲仁と男性職員は逃げて行ったが、私は大使館側から調査を受けた。宮内庁へ戻ってから、再び私は尋問され、自己弁明したが、結局、注射器は私が最初から所持していた、との供述書に署名せよ、と脅された。

 

 

 

10)数日後、皇宮警察護衛官に、憲仁の別宅へ拉致された。一週間くらい監禁されていた間に、憲仁に覚醒剤を打たれながら、強姦された。一旦、自宅へ帰されたが、再び皇宮警察護衛官によって拉致され、意識が無い間に丸裸にされた上にエプロンだけをつけた格好で、写真を撮られた。その後、数日間にわたって、皇宮警察護衛官に神経薬の注射器で刺されながら、憲仁の妾として連れ廻された。

 

 

 

11)宮内庁へ戻されると、三笠宮寛仁に抱きつかれ、口を舐められて、HIVを感染させられそうになった。

 

 

 

12)桂宮宜仁の部屋へ連行され、皇宮警察護衛官に神経薬を打たれて立てなくなった私は、車椅子に座った宜仁の上に横座りの状態で置かれ、宜仁に猥褻行為をされた。抵抗すると、宜仁に青酸カリの針で刺された。また、皇宮警察護衛官に、さらに強い神経薬を打たれて、床を這わされた。

 

 

 

13)宮内庁で監禁されていた間に、皇宮警察護衛官にサリンをズボンの尻に付けられて、衣服を脱がされた上、青酸カリを塗った針で刺された。その他、皇宮警察護衛官に薬剤銃で、主に利き腕や、肩や膝の関節を撃たれた。万歳をさせられた格好で腋に神経薬を注射されて、そのまま硬直させられた。両腕を前方へ差し出した格好で神経薬を注射されて、「L」字に硬直した両腕の上に猫を載せられた。

 

 

 

14)宮内庁に監禁されている間に、皇宮警察護衛官に、ズボンのポケットに入っていた自宅玄関の鍵を盗まれた。この鍵を使って、三笠宮寛仁が私宅へ侵入して来た。私は皇宮警察護衛官に神経薬を注射されて、HIV感染者の寛仁にコンドームを使って強姦された。

 

 

 

15)寛仁妃信子と麻生太郎の命令で、皇居へ拉致された。二人は私が寛仁にHIVを感染させたと勘ぐって、撃針銃で私を撃った。

 

 

 

16)高円宮妃久子に拉致されて、サリンで盲目にされた上、青酸カリの針で刺された。また、覚醒剤を注射された。意識が失せている間に衣服を脱がされて、半裸の男(宮内庁職員?)が私の上に載って来たところを写真に撮られた。

 

 

 

17)東宮職員の木幡清子に監禁されて、そこへ次々に入って来た男性職員による強姦未遂にあった。また、木幡自身が私に抱きついてきて、HIVを感染させようとした。その後、私は木幡と性関係があったHIV感染者の男性職員に撃針銃で撃たれて、コンドームを使って強姦された。

 

 

 

18)東日本大震災が起きた。
皇太子妃雅子が、侍女の軍団とともに大型SUV車に乗って来て、丁度、そこへ小型車を運転して帰宅した私へ向けて、薬剤銃を発砲した。