イスタンブール総集編

2023-07-22 18:02:34 | 古代遺跡巡り1イスタンブル

 

イスタンブールの風景は私のつたない風景描写よりも、ここは五木寛之の文で代用していただく。

=======イスタンブール小景=======

「地上から投射される照明のなかに、くっきりと浮かび上がっている緑色の屋根の建物。

あれはトプカプ宮殿だ。

さらに右手にそびえるのがイスラム風モスクとミナレットのシルエットは、例のあまりにも有名なアヤ ソフイア寺院だろうか。

そうだとすると、その隣のモスクはブルーモスクに違いない。

いずれも照明の中に夢のように浮かび上がってみえる。

さらに真正面に まばゆい光の中に輝いている巨大な建物はシュレイマニュエ寺院とおもわれる。

ガイドブックの略図をたよりに ガラタ橋を探す。あった。

その手前 こちらの岸に異様な塔がそびえている。あれがガラタタワーだ。

その付近にはイスタンブール唯一の人肉市場、赤線の街がヘイに囲まれてあるという。

金色に輝く大きな川は 実は入り江であって、実はゴールデンホーンとよばれている。

その晩のホテルの窓からの情景、ここで文章にするのは不可能だ。

百万ドルの夜景というものを、僕は何度も目にしてきた。

六甲山から見下ろす神戸の夜景。

北海道は函館山からのマリリンモンローの肢体と似ていると称される夜景。

ニューヨークのホテルのペントハウスから眺めたマンハッタンの夜景。

ちょうど初秋の空気の澄んだ季節、九竜サイドから眺める香港島の夜景。

イスタンブールの夜景は そのどれとも比較しようがない。

それは別の次元の戦慄さえ感じさせる壮大な夜景だ。

 

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その当時1992年の当時の「走り書き」にはこうある。

 9月10日木曜日

  • モスクワ径由・・45分もモスクワ空港で駐機。外に出られず。外は霧でよく見えず

 イスタンブールに18時40分着、約9時間。タクシードライバー 日本人とわかると、よくしゃべる。あのボポラス大橋は日本人が作った。

ハポンはすごい、尊敬する。と。

ホテル・エタップ・プルマンは新市街にあり、ビジネスタイプの19階建ホテルだ。

マルマラ・エタップ・ホテルと間違いやすい。アガサ・クリステイ定宿で有名なパラホテルの真向かいにある。

部屋はスイートルーム(コネクチングルームといって、隣の部屋と内部で行き来できる)。

すぐ屋上に上る。プールがあり、空は満天の星がきらめき、下はボスポラス海峡が黒々とひろがり、船の灯りが、もう少し向こうには煌くばかりの灯り。

 

詩人として1924年初のノベル文学賞を受賞したアイルランドの詩人イエーツはビザンチューム(今のイスタンブール)を『永遠の都市』と評した。

以降 イスタンブールは『永遠の都』として、ローマの『永遠の都』とともに、世界中の人に親しまれてきた。

イスタンブールに魅せられて 

私が始めてイスタンブールの街を見たのは1992年の9月であった。

シルクロードの終点、東西文明の十字路、人種のルツボ、様々の形容詞で語られるトルコ・イスタンブール。NHKのスペシアル番組に恐らく一番登場する都市の名前がイスタンブール。

 その都に魅せられて足を運ぶこと6回。ボスポラス海峡をはさんで南はエーゲ海、そして地中海、北は黒海、その黒海の向こう側にはウクライナがあるが、この海はロシア艦隊がうようよいるのでヤバイ。さすがに行けなかったが陸路でブルガリアまでは行く事ができた。

 

 最初訪れた時の、お上りさん用のオリエンタル・ダンス・レストラン<ベリーダンス>でのこと<写真はその時のダンサー>。

日本人はみな金持ちだと思っているらしく、チップ1000000トルコ・リラ。下4つの0を取れば、日本円になる。今はデノミで下4つが取れた。このときの印象が強烈だった。

 

その当時1992年の当時の「走り書き」にはこうある。

 9月10日木曜日

  • モスクワ径由・・45分もモスクワ空港で駐機。外に出られず。外は霧でよく見えず

 イスタンブールに18時40分着、約9時間のフライト。

空港に娘が出迎える。乗ったタクシードライバー 日本人とわかると、よくしゃべる。

あのボポラス大橋は日本人が作った。ハポンはすごい、尊敬する。と。

ホテル・エタップ・プルマンは新市街にあり、ビジネスタイプの19階建ホテルだ。

マルマラ・エタップ・ホテルと間違いやすい。アガサ・クリステイ定宿で有名なパラホテルの真向かいにある。部屋はスイートルーム(コネクチングルームといって、隣の部屋と内部で行き来できる)。すぐ屋上に上る。プールがあり、空は満天の星がきらめき、下はボスポラス海峡が黒々とひろがり、船の灯りが、もう少し向こうには煌くばかりの灯り。

詩人として1924年初のノーベル文学賞を受賞したアイルランドの詩人イエーツはビザンチューム(今のイスタンブール)を『永遠の都市』と評した。

以降 イスタンブールは『永遠の都』として、ローマの『永遠の都』とともに、世界中の人に親しまれてきた。

世界で一番親日的なトルコ その原因。

トルコの小学校の教科書に出てくる日本

 教育の力は恐ろしいものでトルコでは小学5年生の教科書で日本のエルトゥールル号事件を扱っている。

  • フリゲート艦エルトゥールル号は、1890年日本からの帰路暴風に遭い紀州・串本沖で沈没。乗組員581名が死亡したが69名が救出され、日本側官民あげての手厚い救護の後、日本の巡洋艦(金剛、比叡)によりトルコに送還された。

これが今日の日本びいきの重要な原因と思える。

  • トルコ航空 日本人を救出

イラク戦争の時日本人の救援を拒否した日航の代わりにトルコが救援機を出し240名の邦人を助けた。。

  • 成27年11月13日安倍総理は、イスタンブールの地下鉄開通を祝ってトルコを訪問。 

アジアと欧州を分断する同海峡の地下約60メートルを通る地下鉄の開通は、トルコにとっては歴史に残る大事業だった。フェリーで30分近くかかっていた海峡間の移動が、4分へと大幅に短縮される。日本側の援助金銭の援助と日本企業の建設で完成した。

  • ボスホラス大橋 第二ボスポラス大橋。日本のODAのもと、全長1,510メートル、幅39メートルの、車両専用(8車線)の吊り橋です。イスタンブルの町の人々には、「日本とトルコの友好のシンボル」として知られています。
  • イズッミールで吊橋完成。IHIが世界4位の長さでトルコ最長の吊橋 オスマン・ガーズィー橋(イズミット湾横断橋)建設。フェリーで計1時間のところ6分に短縮。周辺にはトヨタ自動車などの工場が集積しており、道路渋滞解消される。

地政学上 重要な位置にあるイスタンブール

地中海を支配するのにこれほど地の利を得た土地は。他にない。

黒海から地中海へ抜けるのにすべて狭いボスポラス 海峡を通らねばならない。

軍事上これほど有利な土地はなかった。その利点は今日も変わらない。

また農産物の集荷 運び出し拠点としても重要だった。

  • 紀元前658年、ギリシャの都市国家メガラのビザス王が一族を率いてこの地にやって来て、都を建設したのが起源といわれる。ビザス王の名を取って「ビザンチウム」、ギリシャ語の「ビザンチオン」と名付けられた。 当時のギリシャは<BC8世紀~6世紀>ギリシャ文明の全盛期の入り口のあたり、エフエソス ミレトス トロイなどの植民都市国家の全盛期にあったころである。

アテネなどポリスが全盛期になるのはBC5世紀からである。

  • 330年コンスタンティヌス帝は腐敗と衰退の一途にあったローマをすてて黒海と地中海の中継拠点としてビザンチウムをローマ帝国の新しい首都としてキリスト教の中心都市として定めた。都市名を「コンスタンティノープル」として改めた。
  • 395年、ローマ帝国が東西に分裂後は、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都となる。1453年陥落するまで千余年あまりビザンチン帝国は「永遠の都」として 栄光の歴史を刻むのである。敬虔なキリスト教国として繁栄し、キリスト教の公会議がたびたび開かれ、今日のカトリックとギリシャ正教の分離もこの地で決まった。
  • それが奇妙なことに同じキリスト教の第4次十字軍により1203年略奪占領される事態となり 衰退していった。その理由は1071年アナトリア地方に異教徒イスラムが侵入、定着した。それを排除するために十字軍が侵攻して来たのである。
  • 1453年、難攻不落といわれたコンスタンティノープルは、オスマン・トルコ帝国の弱冠23歳のメフメット2世の攻撃を受けて陥落。オスマントルコの首都、イスタンブールと呼ばれるようになった(「町へ向かって」を意味するギリシャ語の「イス・ティン・ポリン」が語源)。メフメット2世はキリスト教国からイスラム教国へ変身させたのである。 以来500年間オスマン帝国は続く。
  • 1923年、トルコ共和国建国、アタテュルク初代大統領誕生。

首都はイスタンブールからアンカラに移転。イスタンブールは経済中心の都市としとしてその重要性はますます増してきた、

Istanbulが「千年の都」「文明の十字路」と言われる理由。

イスタンブールは東西文明の交差する街といわれて久しい。

東はシルクロードにつながり、西はローマ帝国とその源流であるギリシャ文明につながる、その交差するまちだ。ギリシャ語で「あの街へ行こう」という意味だ。

イスタンブールは東から来る人には西洋の玄関であり、西から来る人にはアジアへの玄関であるからだ。つまり東西文明の十字路である。

人々はすべてこの街で合流し、再び散ってゆく。シルクロードの通過点であり。また事実上の終着点でもあった。ヨーロッパを横切るオリエントエキスプレスのターミナル駅でもある。

 ボスポラス海峡を挟んでヨーロッパとアジアの2大陸に跨る人口約1,350万人を超えるトルコ最大の都市。(第2の都市は、首都アンカラ約490万人)

 現代のイスタンブール

 

 

無数にあるこのミナレットは遠い異国にきたというシンボルだ。

中でも6本のミナレットをもつドームがイスタンのシンボルだ。

良くぞ天井が落ちてこないものだと、素人は考える。

 

米国時代の駐在員仲間とボスポラスヘ  2000年

2000年4月はアメリカ駐在員仲間との懇親を兼ねてのイスタンブール カッパドキア、地中海の旅行である。成田君、鈴木君、工藤 私の4人。みな、金のなさそうな粗衣をまとい、ひげを伸ばし、とても日本人にはみえない。じつはこれが、個人旅行するときの掟である。

イスタンブールはアジアとヨーロッパ大陸を結ぶエキゾチックな街。
多くの世界遺産、世界七不思議の三つ(アルテミス神殿、ハリカナソス霊廟、アヤソフィア大聖堂)、深い歴史、世界三大料理の一つと言われているトルコ料理、そして新約聖書旧約聖書の舞台のほとんどはトルコです。
クレオパトラやトロイの木馬に代表されますが、私達の知識の身近な処に、いつもトルコがあったことに驚かれることでしょう。オープンエアミュージアムと言われているイスタンブールでは、地下宮殿(地下貯水池)アヤソフィア大聖堂ブルーモスクトプカプ宮殿ドルマバチ宮殿ピエルロティ丘チャムルジャ丘ガラタ塔タクシモ広場ボスポラス海峡と見どころがいっぱい.彼らは初めてのトルコである。

ボスポラスクルージング

 

 

ボスポラス海峡から出て マルマラ海へ

 その先がエーゲ海。

 

 

 


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