轟水源
2023/9/7(木)晴
今日は最高気温予報34°最も暑くなる時間帯を避けて帰宅するため、目的地を宇土市の轟水源として午前8時からポタリングに出る。
往路は、新幹線側道を南に辿り川尻町から加瀬川沿いを下り、平木橋を渡るルートを選択する。川尻町では、「国指定史跡川尻御蔵前の船着場」(写真1・2・3参照)に立ち寄る。
説明板には、「川尻は肥後藩の軍港で年貢米の集積、積出港でした。ほとんどの年貢米は、水運を通じて飽田・託麻・益城・宇土の四郡十八手永から二十万俵が川尻御蔵に集められました。その年貢米の荷揚や船積みのために設けられたのが、この船着場です。潮の干満や水量の増減に影響をうけないように長さ百五十メートルにわたって十三段(後に一段積み増す)の石段を設けており、当時は大勢の労働者で賑わっていました。
明治に入り、年貢米が廃止された後、御蔵は米券倉庫として活用されました。しかし、加勢川筋の堀替えによって川筋は浅くなり、また陸上運送の時代を迎えると船着場は衰退の一途を辿りました。」とある。
轟水源入口手前に、令和4年11月10日に国の史跡に指定された「轟貝塚」(写真4参照)がある。
熊本県ホームページには、「・・・「轟貝塚」は、縄文時代早期末(約7500年前)から後期中葉(約3500年前)にかけての集落遺跡で、土器や人骨など多くの遺物が出土しており、当時の人々の暮らしや環境を知るうえで大変重要な史跡です。
また、この貝塚の名を冠した「轟式土器」は、西日本に広く出土する土器型式で、縄文時代早期末から前期の遺跡の年代判定などの指標として使われており、その名は全国的に知られています。・・・」とある。
轟水源駐車場(写真5・6参照)に到着する。説明板には、「轟水源は宇土市の南西に位置し、宇土城跡より西へ約1km。昔から肥後三名泉の一つとして知られ、絶えることなく清水が湧き出しています。
この水源を導水して総延長5kmにわたる水道が轟泉水道で、現在使われている上水道としては日本最古のものです。これは初代宇土藩主細川行孝公によって発案、敷設されたもので、石管を用いた地下水道です。現在も多くの人々の飲料水に利用されています。」とある。
水源地(写真7・8参照)には、涼も求めて人々が来ている。
湧水池(写真9・10参照)からは、水が滝となって流れ出している。
轟水源を後にして、轟泉水道の井戸がある船場橋(写真11・12参照)に移動する。
井戸は馬門石製(写真13・14・15参照)である。ここから出港する船にも、生活用水として積み込まれたものと推測する。
轟泉水道井戸の説明文には、「良好な地下水に恵まれなかった宇土では、早くから上水道の設備が求められていた。宇土支藩の初代藩主細川行孝の命によって、寛文三(1663)年に造られた最初の轟泉水道は陶管製で、後に馬門石製の樋菅へと造り替えられました。
我が国最古の現役上水道である轟泉水道は藩営事業として実施されたため、基本的には士族を対象とした利水事業だったが、町屋への供給や農業用水としても利用された。
士族においては屋敷内まで水道が引かれ、戸別に井戸が設けられたのに対し、本町・新町の商家に対しては、数戸ずつの共同井戸という形で設定されていた。十三か所に及んだこれらの井戸は、樋菅と同じく馬門石によって造られており、現在でも数か所に現存している。」とある。ここを最後にして帰途に就く。
12時に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)26km→轟水源23km→熊本(自宅)
総所要時間4時間(実3.5時間) 総計49km 走行累計55,939km
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
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