熊本から気ままに山と自転車のブログ

石工仁平墓碑・あんずの丘

石工仁平墓碑
2020/7/1(水) 曇/晴

天候は曇り/晴れ、最高気温28°と夏日だが蒸し暑い。午前11時過ぎから山鹿市菊鹿町の山鹿市指定文化財「石工仁平墓碑」探訪ポタリングに出る。
往路はペダルが軽くトップギアで走る。今日は体調が良いのかと嬉しくなったが、もしかして追い風のせいか?案の定、帰路は向かい風でペダルが重い復路だった。

目的地を決めて出発すると迷わなくてよいので時間が短く感じる。往路は熊鹿ロードを走り、植木温泉辺りから合志川堤防道路を走る。中川橋で菊池川を渡り菊池川右岸堤防道路を走ると、道の駅「水辺プラザ」に到着する。
「水辺プラザ」で昼食とし、水辺プラザから先は上内田川沿いを北進する。

先日の洞口橋を渡り、「あんずの丘」に上がる。先ず市民センター北側を探すが、ない。次に市営住宅北側を探すが、ない。公民館裏と云う情報もあったので公民館西側に進むと菊鹿町多目的施設という大きな建物があり、公民館とその建物の間を北側に進む。
その奥に一段高くなっている所に墓所(写真1参照)がある。


墓所右端に石工仁平の墓石(写真2参照)がある。


正面に「南無阿弥陀仏」、左側面に「釈道西墓」(写真3参照)とある。


石工・仁平の墓の標柱の説明文(写真4参照)
「仁平(江戸時代1737~1790)肥後の眼鏡橋の開祖といわれる仁平は、肥前(長崎)に赴き石橋の知識と技術を習得し、今から約230年前の安永三年に、菊鹿町の太田川の流れに、試作の洞口橋を試みました。これが「熊本県最古の眼鏡橋」です。」とある。


標柱北側の説明文(写真5参照)
「その後、天明二年(1782)に、阿蘇黒川にスカル橋を架橋しました。また、神社鳥居・地蔵菩薩・六地蔵石憧・宝篋印塔・仁王像などの石造物造っております。安永年間・・・(読めませんでした)・・・石橋の架橋を指導し活躍したその人物が石工棟梁の仁平です。」とある。


墓石裏正面は「俗名石工仁平」「(享年)五十三才」(写真6参照)とある。



あんずの丘
2015/4/13(月) 曇
今日の天候は曇、午後2時出発、熊鹿ロードを北へ走る。
菊池川手前の山鹿市分田休憩所付近で、行き先をあんずの丘と決める。

熊鹿ロードを反れ、来民(くたみ)商店街を走る。
商店街を後にして、御宇田井手の分水辺りから北へ目をやれば丘の上に緑色の屋根の「あんずの丘」建物群が見える。
坂を登り「あんずの丘」広場に到着(写真4参照)、ここまで2時間。
広場の奥に、肥後国衆一揆で有名な中世の武将「隈部親永」の像が見える。
像の右手にはアスレチック施設も見える。


隈部親永と肥後国衆一揆の説明板(写真5参照)がある。
「この一揆を知った豊臣秀吉は北野の大茶会を一日で中止し、九州の大名たちに一揆鎮圧の派兵を命じた。
一揆終了後、全国へ刀狩令が発せられ兵農分離が進み、時代は中世から近世へと移った」とある。物産館に立ち寄り、帰途に就く。


帰路の途中、来民(くたみ)商店街を走る。渋うちわ(団扇)の看板を見る(写真1参照)。
柿渋を塗った丈夫な手作りの団扇を今でも作っているということをテレビが放送していた。
正月のカレンダー、お盆のうちわが、挨拶代わりの贈答品だった昔を思い出す。


二丁目の街角に地蔵様が鎮座してござる。来民町民の総意により、第11代将軍家斉の時代に建立とある。
時代の流れかシャッターを閉じた店舗が続く。道路舗装もタイルからアスファルトに変わっている。
今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)30km→山鹿市「あんずの丘」30km→熊本(自宅)
所要時間5時間(実4時間) 総計60km 走行累計11,010km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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