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熊本から気ままに山と自転車のブログ

横島城跡・横島の経塚記念碑・高道城跡

横島城跡・横島の経塚記念碑・高道城跡
2022/7/13(水) 薄曇り

今日の最高気温予報も33°前回と同じポタリングには厳しい天候だが、明日から3日間傘マークが続くので午前9時前からポタリングに出る。
目的地は、先日に続き玉名市横島町とする。

熊鹿ロードを北進し、県道31、国道208を稲佐から左折して伊倉経由で横島に向かう。
最初の探訪は、横島山展望所登り坂の途中にある大園の「三仏合祀堂(大園谷地蔵堂)」(写真1参照)とする。


説明文(写真2参照)には、「文政六年(1823年)の社寺改帳によると、地蔵堂、薬師如来堂、阿弥陀堂はそれぞれ別の場所にあったが、明治二十二年三月に有志が協議し三堂合併することになった。
本村坂(昔の山越え坂)沿いにあった萱葺きの地蔵堂の場所に瓦葺きの建物を建てて合祀した。本村坂は現在の山越え道の西方約五十メートルにあった。
薬師如来堂の前身は覚苑寺(坂本鶴雄氏の旧住居跡の上段にあった)であり、本尊は薬師如来であった。
覚苑寺は天正十二年(1584年)三月の島津、竜造寺軍の決戦の時焼失した。阿弥陀堂は、加藤島之介の墓の上段にあったと思われる。
しかし、三仏堂があった本村坂一帯は、昭和十七・八年頃、大浜飛行場建設の土砂入用地に供したため削り取られてしまった。
そこで、山越え道は造り替えられ、三仏堂も現在地に移転した。」とある。


三仏堂を後にして展望所に向かうが、途中で加藤島之介の墓を探訪する。
Web上の情報(玉名市 横島町・森山さんのユリ畑)では、「加藤島之介は天正年間地頭として横島に在住した人物である・・・寛政5年に子孫の加藤軍次正秀が碑を再建し・・・」とあり、五輪塔の写真がある。
展望所手前に加藤家の墓所があるが、五輪塔がないので加藤島之介の墓がこの墓所の中には無いようだ。但し、「寛政」や「軍次正秀」の文字は見たような気もする。

加藤家墓所から少し上ると展望所(写真4・5参照)がある。説明文には「史跡展望台
中世の山城跡であり海上交通の目標となる重要な所であった。ここは御坊ヶ塚といわれ、五輪の塔あり、住民の信仰の場所であったと思われる。
又すばらしい展望所であったので明治になり遥拝所に定められ大正四年天皇即位大典を祈念して遥拝之碑が建てられた。このほど公園整備ともない碑を修復した。」とある。
展望所は、横島城跡でもある。


展望所から海が見える目線の手前に「横島干拓史」のプレート(写真6参照)が設置してある。


駐車場には、「よこしま史跡めぐりウォーキングコース」の看板(写真7参照)もある。


更に道を東南に辿ると、「経塚史跡公園」(写真8・9参照)がある。


説明盤(写真10参照)には、「石塘はもと丹倍津(にべのつ)といって潮流急激の瀬戸であった。加藤清正公はここをせき止めて小田牟田の良田を得るため工事に着手されたが、其の工事は困難を極め、遂に人柱の犠牲と読経の功力によって成功したと伝えられている。
時は慶長十年十一月 今から四百年前のことである。
石塘築堤四百年に当り経塚史跡公園整備は五千九百有余全町民の願いであり、これを記念して八百二十五字の経文を一人一石に書写埋経し、町民各位の繁栄と子孫長久を祈願して経塚を永年に亘り維持保存し、清正公と先人の遺徳を偲び、その業績を讃え顕彰する。」とある。


当初はここを引き返し点とする予定であったが、「加藤島之介の墓」が確認取れなかったのでもう一か所、どこか探訪することとする。それで「竹崎順子屋敷跡」に向かったが分からず、岱明町「心字池」(写真11参照)に向かう。
菖蒲の花はすっかり終わり、緑の草だった。


正面に浜田「和多津海神社」(写真12・13参照)が見えたので立ち寄る。境内には蘇鉄が元気に緑の葉を広げている。玉名地方といえば「蘇鉄」が良く見られる。
和多津海神社を折り返し点として帰路に就く。


途中、高道城跡の説明板(写真14参照)を見て立ち寄る。
「高道城跡は高道台地の東北端、字城内にある。東と南は道路、西は空堀、北は水濠を以って限る。東西112m、南北162mの区域で、東・南・西の三方に大手口を設け、北東の一段高い本丸跡に通する。
鎌倉時代の初め建久四年(1193)紀国隆は大野別府の地頭に任じられる。三男秀隆は惣領職を継ぎ大野氏を称す。後に子孫は大字開田の日嶽に城を築いて一族の本城とする。
国隆の次男築地次郎国親の曽孫高路諸太郎幸経は高道方面を分領し、右の要害を利用して居館を営み戦時には城としたものと思われる。
南北朝期では、大野一族は菊池氏と共に南朝(後醍醐天皇方)として戦い、高満城(高路)は幾度となく北朝(足利方)今川軍の侵略を受けて落城、降って戦国末期には肥前龍造寺氏が肥後に進出、天正十年頃その麾下荒尾の小代氏と戦って大野一族は敗退、主水貞胤が守る高道城は落城して一族は退散す。」とある。


高道城本丸跡は、「天満宮」(写真15・16参照)になっている。


木葉交差点の温度表示は、往路が10時過ぎで33°、復路が14時前で34°だった。
15時過ぎに帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)36km→岱明町鍋和多津海神社30km →熊本(自宅)
所要時間6.5時間(実5.5時間) 総計66km 走行累計49,701km


自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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