見出し画像

熊本から気ままに山と自転車のブログ

孝女つやの碑・伊倉木下家

孝女つやの碑・伊倉木下家の墓
2022/7/11(月) 曇

今日の最高気温予報は33°出発時の湿度76%と、前回と同じポタリングには厳しい天候だが、中2日休んだので午前9時前からポタリングに出る。
目的地を北区植木町の「円台寺廃寺跡」と、玉名市横島町の「孝女つやの碑」とする。

円台寺廃寺跡を後にして、県道113に戻り,原倉経由で西方向に道を辿る。途中、少量ではあるが果樹園消毒の噴霧を浴びたので、尾田の丸池(写真4参照)で汗ばんだ顔を洗う。
この季節、湧水の存在は、本当に有難い。


大浜町方向から横島町嶋崎神社裏側の玉名市登録文化財「孝女つやの碑」を探訪する。
横島山の南西崖下に案内標識(写真5参照)があった。その説明文には、「つやは享保の頃農夫孫七に嫁した。夫孫七はまもなく病にかかりつやの手あつい看護の甲斐もなく三十余才で死去した。
親戚知己は再婚をすすめたが老母を養う責任を感じ、之を固辞してひたすら姑につかえ孝養を尽くした。
たまたま享保十七年(1732年)大凶作に見まわれ餓死するもの多く貧乏なつやの家庭はますます苦しくなり草根や木の葉を煮て之を食し飢えをしのいだ。
然し姑には常に穀を混ぜて供し健康を保持させた。時の藩主細川隆徳公はその孝養を聞き元文元年(1736年)米若干を賜り之を賞された。墓はこの坂上にある。」とある。


墓碑(写真6・7参照)は、りっぱに保存されている。


説明文(写真8参照)は、人情話の文章としての味わいがあるが、読めない文字や変換不能文字があり、先の標識の文を参照頂きたい。


帰路の途中、伊倉街中で標識を見て「木下家の墓」(写真9・10参照)に立ち寄る。
夕鶴の作者木下順二の関連施設のようである。順二の祖父の屋敷が道の反対側にある。


15時前に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)28km→孝女つやの碑27km →熊本(自宅)
所要時間6時間(実5時間) 総計55km 走行累計49,635km


伊倉木下家・伊倉鍛冶跡
2021/4/10(土) 晴

今日は、10時出発、気温17°最高気温22°今日も最良の自転車日和に、目的地を大牟田市に設定しポタリングに出る。が、向かい風が強く長洲町に変更する。
ルートは、熊鹿ロード→県道31→国道208→国道501とする。玉名市高瀬大橋を渡り、国道501に出るため繁根木川堤防道路を西進し、長洲町梅田神社到着する。
長洲町梅田菅原神社を後にして、山北八幡宮に移動の途中、伊倉町中を通過途中に、伊倉まちづくり委員会の看板(写真8参照)が見えた。


説明板(写真9参照)は、木下順二の父祖の地であると言う。


次に目に留まった看板(写真10参照)は、「伊倉鍛冶跡」。


説明板(写真11参照)には、近世肥後の同田貫の系譜の説明がされている。
「・・・菊池延寿の流れを汲んだ刀鍛冶に二人の名工がでた。一人は高瀬亀甲の小山上野介正國と伊倉鍛冶屋町木下左馬之助清國である・・・」とある。


自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

コメント一覧

asotakadakedake1592
Re:賀茂 左近さんへ コメント有難うございます。
「孝女つや」の人情話、いかがお受け取りいただけましたでしょうか。
現代の世相に於いて、嫁にだけ犠牲を強いる男社会のエゴだと受け取られる方もいらっしゃるのではなかろうかと、心配半分で紹介いたしました。
今後とも、当ブログを御贔屓頂ければ幸甚です。自転車くま
賀茂 左近
お疲れ様でした。
史跡孝女つやの碑の人情話、
じっくりと読まさせていただきました。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「肥後国の近世史跡・文化財」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事