荘林隼人の墓・三宅角左衛門の墓・廻江公民館の清正公神像
2024/10/30(水)晴
最高気温26°の夏日となったが思ったほどには暑くない。午後13時からポタリングに出る。目的地は、熊本市南区富合町廻江(まいのえ)公民館の加藤清正公像とする。
熊鹿ロードを南進し、横手の旧井芹川河道沿いに禅定寺がある。その本堂西側の墓地内に加藤家三傑の一人荘林隼人の墓(写真1参照)がある。
標柱説明文(写真2参照)には、「加藤清正が賤ヶ岳の七本槍で手柄をたてた後に家臣となり、天草志岐城攻めでは旗本として奮戦し、豊臣秀吉から飯田覚兵衛、森本義太夫と並んで加藤家三傑として褒美の槍をもらいました。朝鮮出兵の際には勇将として各地で奮戦し、清正○○○○蔚山の籠城を耐え抜きました。寛永八年(1631年)没」とある。
荘林隼人の墓の左側に三宅角左衛門の墓(写真3参照)がある。
標柱説明文(写真4参照)には、「加藤家の先手三組の大将として活躍したほか普請奉行としても活躍し築城工事では飯田覚兵衛とともに両かくといわれ、石垣つみの名人でありました。文禄・慶長の役のおりに鉄砲頭として豊後杵築城救援を命じられましたが、清正と朝鮮への同行を望み出兵を渋ったため清正の怒りをかって知行を召し上げられました。しかし、宇土の戦いで南条元宅と一騎打ちの功により再び知行を与えられました。寛永八年(1631)六月二十八日没」とある。
17時半に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)20km→富合中学校18km→熊本(自宅)
総所要時間4.5時間(実2.5時間) 総計38km 走行累計60,448km
飯田覚兵衛の墓
2021/10/23(土) 晴
夏の暑い間ほっておいた家周りの手入れもしなければならないが、明日は自転車に乗れないので、最高気温予報22°の秋日和に今日も午後13時半からポタリングに出る。
目的地を細工町阿弥陀寺の「飯田覚兵衛の墓」、崇禅寺の放牛石仏16体目、春日3丁目の放牛石仏9・13・29・無番号3体、護藤町の放牛石仏24体目とする。
本堂裏手に格式の高そうな石塔がある。その内一際大きい石塔が「飯田覚兵衛の墓」(写真7参照)との標柱がある。
説明文(写真8参照)には、「幼少の頃より加藤清正の竹馬の友として育ち、天草志岐氏の攻略や朝鮮の役にて活躍し、加藤家三傑の一人といわれています。また、土木普請事業においても才腕を振るっており、熊本城の飯田丸(写真=熊本地震以前)は覚兵衛が築いたものといわれています。清正の死後、加藤家を退身して黒田家に仕え、後に京都に移り住んで寛永九年(1632)九月十八日に亡くなりました。この墓は供養塔です。」とある。