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熊本から気ままに山と自転車のブログ

薩摩渡し・丸林橋・相良堂

薩摩渡し・丸林橋・相良堂
2020/11/01(日) 曇

最高気温23°今日は曇。午前10時前から、目的地を浜戸川上流部としてポタリングに出る。

国道266を南進し城南町から県道32に左折し、浜戸川河岸段丘を東南方向へ走る。
山崎で県道32を左に逸れて旧道を走り、山崎橋の先で国道218を潜り、宇城市豊野支所を目指す。
支所から左折して宇城市立郷土資料館(写真1参照)に寄る。
興味を惹かれるのが多々あるが、浄水寺跡の石塔群(国指定重要文化財)が目を引く。
西南戦争薩軍の軍票(西郷札)が展示してある。薩軍は早くから軍票を使用していたのか?


資料館前の川に沿って遡ると眼鏡橋(写真2参照)が、忽然と現れる。


下流側に廻ると確かに石橋(写真3参照)である。


姿勢を落として石組(写真4参照)を見る。


確かにここは浜戸川(写真5参照)である。


説明板(写真6参照)には、この橋が文政12年(1829年)の架設とある。
薩摩往還が、山間部の娑婆神峠を越えてこの橋を渡り御船方面に通じていたと云う。
熊本平野が縄文海進の頃は海で、その後の海浜後退で現在の形になったのだが、江戸期までは沼沢地が残り安全を考慮してこのルートを選択したものと推測する。
松橋町から宇土市を通る薩摩街道に対して、小川町から豊野町、御船町と通る古代の路が、江戸期まで利用されていたということの証拠となる貴重な石橋であると思う。


薩摩渡しを後にして、丸林橋を目指し移動途中に相良神社(写真7参照)があった。
相良とは相良氏のことと思い、立ち寄る。


境内奥に市指定史跡相良堂(写真8照)がある。


鳥居の横に説明板(写真9参照)がある。「響ヶ原古戦場
天正九年(室町・安土桃山時代、今からおよそ四百年ほど前)十二月二日、相良義陽と甲斐宗運の軍勢がここで戦いました。
阿蘇氏を討とうとする島津義久は、軍の牛頭に相良義陽を命令し、同じ年の十二月一日、義陽は多数の軍勢を率いて八代を出発し御船に向かいました。はじめに娑婆神峠(豊野村と小川町の境)に陣をおき、中央町の赤峯尾城、甲佐町の豊内城を攻め、その翌日は、更に陣を響ヶ原に勧めました。赤峯尾城と豊内城での戦いでは、相良軍が優勢で敵の大将の首をとることが出来ました。一生懸命戦った兵士たちのために響ヶ原では酒盛りが行われました。
甲斐宗運はこの隙をみて勝った喜びでいっぱいの相良軍の大将いる陣地へ攻め込みました。まさか酒を飲んで休憩しているところへ攻め込まれるとは思いもしなかった相良軍はふいをつかれ大将の義陽をはじめ多くの戦死者を出しました。(勇士七十余人雑兵二百余人)
大将がいなくなった相良氏はおさめていた八代地方を島津氏によって奪われ、義陽のこ忠房は球磨一郡の小さな土地を支配する領主へとあともどりしました。
戦場となった響ヶ原には、義陽をはじめ戦いで死んだたくさんの兵の魂を弔うために供養碑が建てられました。
言い伝えによればいくさのあった夜(十二月一日)に響ヶ原を通ると馬のひづめの音や刀の切り合う音にまじって多数の兵士の勇ましい叫び声が聞こえるといわれています。」とある。


道を小熊野川に沿って遡り丸林橋(写真10参照)を見る。


上流側から見る丸林橋(写真11参照)


説明板(写真12参照)
「丸林橋(まるばやし)
架橋 安政4年(1857年)、石工 今村嘉左衛門と推定される。
長さ15.00m 幅2.30m 径間8.60m 拱矢4.30m
「安政4年11月10より丸林鑑橋懸、地橋下郷村大工新十郎参り、同4日大略地橋仕舞、(中略)12月3日当石打、同7日朝迄仕上げ、7日渡初」
着工より一ヶ月弱で完成させている。


現在時刻13時30分、帰途に就く。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)36km→丸林橋32km→熊本(自宅)
所要時間6.5時間(実5.5時間) 総計68km 走行累計36,165km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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