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熊本から気ままに山と自転車のブログ

石貫車橋・玉名高校正門

石貫車橋・玉名高校正門
2020/9/22(火) 曇/晴

降水確率午前0%、午後10%の曇り空、最高気温29°予報に、絶好の自転車日和と午前10時半から、石貫車橋・玉名高校を目的地にポタリングに出る。
熊鹿ロード沿線、県道31ともに真紅の彼岸花が彩る中を玉名地方に向かう。
国道208を走り、菊池川を渡り、県道4を繁根木川沿いに南関町方向に走る。

石貫簡易郵便局を過ぎた辺りに、「公認された日本最後の仇討の地(写真1参照)の標柱がある。150m東とあるので、写真左の小路を行ってみたが「ここ」という場所は分からなかった。


「明治4年4月16日の仇討の後、藩は仇討を絶賛して家督相続を許し賞詞の金子を与えている。」(写真2参照)とあるので、廃藩置県の直前か、それとも行政権限が政府に移譲されていなかったのか、調べてみたいと思う。


県道4を繁根木川の西側を眺めながら走ると、田園風景の中にぽっかりと浮かぶように支流の上に石橋(写真3参照)が見える。


左岸下流側(写真4参照)から見る。


右岸上流側(写真5参照)から見る。


左岸上流側(写真6参照)から見る。


橋の向う側に里道(写真7参照)が続いている。人々が毎日の生活のなかでよく利用した痕跡として、橋の中央が窪んでいる。


玉名市H.P.では山口川となっているが、現場では熊本県が「鮎返川」(写真8参照)としている。
車橋は、玉名市指定重要文化財一覧にあるが、現場に説明板等はない。


石貫車橋を後にして玉名高校に向かうが、途中疋野神社(写真9参照)前を通る。


玉名町校区まちづくり委員会の説明板(写真10参照)がある。
「平安時代の続日本後紀には、承和7年(840)肥後国玉名郡疋石神を官社にした・・・」とある。疋石神(ひきいしのかみ)とは、石棺を近畿・瀬戸内地方に運んだ事によるものと推察する。
石棺は当初菊池川流域から、その後氷川流域から、後に宇土馬門のピンク岩の阿蘇溶結凝灰岩製が運ばれたと云われているが、これが「献上品だった」と云う説は大いに疑問に思う。肥後の装飾古墳は、全国の装飾古墳の3割が発見されており、取分け菊池川流域には彩色された古墳文化が栄えた。文化が栄えるには、収奪される地域ではなく、社会資本が集積する地域でなければならない。運ばれた石棺の分布が瀬戸内・近畿地域に広がっていることは、「献上品」ではなく「下賜品」、或いは「威信財」だったかとも考えられる。更に言えば、石棺の製作地と埋設地との間に、地縁、血縁の関係があったのではなかろうかと推論する。敵対関係にならば、敵地の石棺では死後の安寧が得られないだろうと考える。
噺は横に逸れたが、疋野神社は石棺を運んだ日置(へき)氏の氏神と考えられている。


文化遺産オンラインで確認したところ、国登録登録文化財は、玉名高校本館、前庭池、正門(写真11参照)のようだ。建築は1937年、設計担当は名高工出身で熊本県学校営繕技師の近藤良馬氏と云う。


玉名高校を最後にして、帰途に就く。
今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)34km→玉名高校26km→熊本(自宅)
所要時間5.5時間(実5時間) 総計60km 走行累計35,250km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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