2023/4/16(日) 晴/曇
今日は最高気温予報21°午後から雨模様の予報に、午前10時半からポタリングに出る。
黄砂は今日も舞ってはいるが、立田山が辛うじて見える程度。阿蘇の山並みは、曇り空と一体となり判然としない。
目的地は、今日(16日)で熊本地震本震から7年経った益城町に町指定文化財の「福田寺の五輪塔」と国登録文化財の「林家住宅」とする。
明午橋を渡り、健軍自衛隊の東側から旧道と思われる東南方向に通る道を走るのは先日と同じ。第二空港線を越えて、途中から道を違えたらしくる猫伏石の所は通らなかった。
目的の「福田寺の五輪塔」(写真1参照)は、益城町総合体育館の東側の交流情報センター駐車場、調整池東南の角に移設されている。
五輪塔は2躯あって、向かって左側に永仁五年五輪塔(写真2・3参照)がある。
説明板には、「この石塔は、益城町の東南に位置する朝来山中腹にかつて修験道場として栄えた中世山岳寺院「尾峰山福田寺」に奉納されていたものです。「火輪」と「水輪」の間に四方仏が刻まれた宝塔の塔身が重ねてあります。
「地輪」の銘文には、永仁五年(1297)に六ヶ庄上安永の地頭である沙弥是円が、毎日「阿弥陀如来」、「薬師如来」、「観音菩薩」を摺り写して、その数が一万二千九百九十五体になったことから、それを祈願してこの五輪塔を奉納したと刻まれています。」とある。
向かって右側に「福田寺五輪塔」(写真4・5参照)がある。
説明文には、「通称「虎ヶ塔」とよばれ、益城町大字福原の松窪井手の付近に置かれていたと伝えられる五輪塔です。
昭和30年頃、西原村宮山に移設され、所有者により大切に管理されていましたが、平成28年の熊本地震の際に倒壊し、火輪の軒部分が欠失してしまいました。その後、所有者の御理解と御協力により益城町に寄贈されました。
地輪に刻まれた文永8年(1271)の銘文から、鎌倉時代につくられた極めて古い五輪塔であることがわかります。
また、総高248.5cmを測ることから九州最大級で、九州を代表する五輪塔の一つであるといえます。
五輪塔地輪の南側(修行門)にある梵字種子は、丸い月をあらわす月輪のなかに納められており、南側を正面にしています。この両側に銘文がみられますが、その多くが風化で見えなくなっています。読める文字をたどると、「白衣弟子」とは、「黒衣」(墨染めの衣)を着ている僧に対して、一般人の門人を意味するものです。また、「奉造立石五輪率都婆」は五輪塔を造立したことを表現しています。
さらに、「出離生死」は、悟りをひらいて、生死の苦しみから逃れることをあらわし、「衆生平等利益」はこの世に生きりものすべてが幸せでありますようにと願う内容です。」とある。
国登録有形文化財「林家住宅」(写真6・7参照)は、津森郵便局の先の県道28が木山川を渡る手前の左側にある。
熊本県ホームページには、「建設年代等:万延元年(1861年)頃/昭和中期改修、平成元年移築。
特徴等:木造平屋建て、屋根は東を入母屋造り、西を寄棟造りとする。正面側 中央の玄関に式台の痕跡を残し、西上手に上質な床構え付座敷を配し ている。在宅侍衆と呼ばれた武士の住宅として貴重。
登録基準:国土の歴史的景観に寄与しているもの」とある。この為か、googleマップのストリートビューでは建屋が樹木で見えていないが、現場は写真の通り迫力ある大きな建屋が見えている。ここを折り返し点として帰途に就く。
帰途の途中の津森神宮で楼門(写真8参照)を観る。説明板では、「明治14年の建立、神仏習合の建築様式で、熊本県内で最大」と記してある。
境内でサンドイッチの昼食をとりながら熊本市街地方向を見ると、雨脚が見えた。と同時に風も強くなってきた。風が弱まるのを待って、雨宿りも覚悟で帰路に就く。
帰路の途中、大江辺りで小雨になったが、本格的な降雨にはならずに15時半に帰宅する。
今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)24km→林家住宅23km→熊本(自宅)
総所要時間5時間(実4時間) 総計47km 走行累計53,561km
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
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