backroad man 2

庄内の細道トコトコ

写真撮影についての個人的な備忘録とボヤキ。。。

叔母と本田宗一郎、我慢して買い物。。

2013-08-10 | 日常
今朝も愚図ついた空模様でスタート。

昨夜は珍しく夜遅めに親戚からのTEL.二本(?)。
一人は愛知方面からで、兎に角暑い!!と。
お盆に帰省するのでお供え用の荷物先に送りました的な話。
用件を言えば1分で済むのに、油断するとたっぷり1時間以上になってしまう。
好意を持ってない人とは10分以上の長電話は辛さが勝ってしまう。
しかし、暑中見舞いの月山の写真を褒めてくれたので気分はやや持ち直し。

もう一本は東京の叔母から。
両親の親戚の中で唯一戦前からの事を知る貴重な存在となった。
言葉の一つ一つが凄く興味深いのと、80代後半になったにもかかわらず声が若々しく、子供の頃から叔母に「brmちゃん」とスッキリした声の優しい呼び方で、ウチの母親のしかり付ける様な呼び方とは対照的だった。

20年ほど前は中国などをあちこち見て回ったそうだが、暑中見舞いの弥陀ヶ原の写真には「素敵」を連発していた。
地元の風景なので特に感動もされなかったが、都会に住む人には見え方が違うようだ。

若い頃の母親の話から女学校を卒業した後の事になり、S17年に日赤を受け合格戦時中は看護士(当時は看護婦)の見習いとして大変な状況を体験したそうだ。
特に東京大空襲は筆舌しがたいほどの惨状だったようだが、国(軍?)の医療関係者から「ずいぶん助かった」と言われた時は嬉しかったと話した。

そして二十歳ごろに終戦。
その後3~4年ほどで結婚したのを機に、不規則な日赤勤務は止めて管理衛生士(衛生管理士?)という免許を取りある企業に就職した。
その会社がかの本田技研だった。
自分は叔母が看護婦さんだと言うのは知っていて、定年までずっと病院勤めだとばかり思っていたので意外だった。
本田技研は当時まだ800名くらいの会社だったが、本田宗一郎の名はすでに一般にも有名だったそうだ。
で、その本田宗一郎さん、叔母に言わせると「とっても愉快な人」だったそうで、医務室に栄養剤(?)注射などで良く来ていたそうだが、まともな話は殆んどしないで冗談ばっかり言っていたらしい。
さしずめ息抜きに来ていたのだろうか。
でも社長自ら製作現場に来ては細かい作業の仕方、それこそ「ここをこう削った方が良い」などと注意されるので、若い社員は緊張すると言っていたそうだ。
やはり工員からの叩き上げだから黙って見ていられないんだろう。
叔母はその後ずっと本田技研で働いたそうだが、当時本田に居た人なら分かるかも知れないなぁ。

*****

あぁ、不愉快!本と情け無い。。
少しでも地元の企業にプラスになるようにと、食料品や日常の買い物は殆んどスーパー“T屋”で買っているが、店員の応対などで時々ガッカリさせられたり頭に来る事がある。

今日のは透明プラスチックの回収での事。
何時もの様にビニール袋にまとめて持ってきた。
するとそこにいた回収係のおばさん、こちらがまだ捨ててもいないのに「袋から出して捨てて」とまるで何時も袋ごと捨てるような決め付け口調。
「袋ごと捨てたことなんかないですよ」と言うとその非礼を謝りもせず(ここが最重要)、むしろ勝ち誇ったように「袋に入れたまま捨てる人がいるんだ」と。
それじゃぁ、そういう事をする人間に見えたって言ってるのと同じじゃないか!このばかやろうがぁ!!(心の声)

年間50~60万円の食費をこのスーパーで購入し、なるべくここで買い物して10年以上になる人間にこんな不愉快な思いさせる“T屋”。
地元意識から、店員が客と馴れ合いになり”お客様”という意識が薄れてやしないか!?
以前レジの接客が「あんたまた来たのか」と言わんばかりの表情であまりに不愉快なので行かなくなった店も有る。
あぁー、、少しでも地元の利益になればの一心で“我慢してT屋で買い物を続けている”自分はお人好しなんだろうか。。




最新の画像もっと見る