「沖縄戦」から未来に向かって 第1回と第2回
「曽野組と沖タイ連合の仁義なき戦い 前編」では太田氏の反論(沖縄戦に「神話」はない)について考察してきましたが、今回(中編)からは曽野氏の反論である「「沖縄戦」から未来に向かって」についての考察を始めていきたいと思います。
ちなみにこの反論は沖縄タイムス紙上にて、1985年の5月1日から6日まで掲載されたものです。
まずは第1回についてですが、結論を先に言えば渡嘉敷島の集団自決とは直接関係がない内容となっています。
エチオピアに渡航したとかなど、反論を開始するためのエピローグ的な意味合いがあるのか、前置き的なスタンスかもしれませんが、この回では太田氏の反論には全く答えておりません。
曽野綾子氏は著名な作家・小説家であることには間違いありません。
しかしここでは作家論や作品論、あるいは文芸論について考察する気は一切ございません。したがって、集団自決に関することや太田氏への反論がない以上、この第1回は省略させていただきます。
あくまでも個人的な意見ですが、自由な論争とはいえ紙面数や字数の制約があるはずですから、できれば直接的な反論をしていただきたかったです。と同時に、だからといって曽野氏や文章を批判する気もないことを明記します。
さて、第2回からは直接的な曽野氏の反論が掲載されておりますので、まずはその要点を書きだしてみたいと思います。
- 「私が「ある神話の背景」を書いたのは、(中略)赤松氏が沖縄戦の極悪人、それもその罪科が明白な血も涙もない神話的な極悪人として描かれていたことに触発されたから」
- 「神話でないというのなら、講談である」
- 当時の渡嘉敷村長は赤松大尉から命令を受ける立場ではなく、当の本人も「自決命令」を聞いていない。
- 「太田氏は、「私は赤松の言葉を信用しない」というような言い方をするが、そもそも歴史を扱う者は、だれかの言葉は信用し、だれかの言葉は信用しない、などということを大見え切って言うことではない」
- 赤松氏を「悪人とは思えない」と太田氏が指摘しているが、そのようなことは書いたことがない。
1.は第2回から引用させていただきました。特に説明するほど難解ではありません。
2.についても引用させていただきました。
赤松大尉が行った極悪の所業は事実でなく、かといって「神話でない」ということになるのであるならば、それは「講談」である、ということになるでしょうか。
ただ「講談」という意味合いに関しては、少々古風な言い回しになるかもしれません。従ってあまり実感がわかない、あるいはピンとこないという方もおられるかと思いますが、「講談」を「よくできた作り話」と言い換えれば、曽野氏の主張が理解できるかと思われます。
3.については最初に引用文を掲示いたします。
「今にして思うと、私はその時、事件をだれから取材したか記憶がない、と言った太田氏の言葉をもっと善意に解釈していた。つまりそれまで一面識もない村人に、当時太田氏が会って話を聞いたというのなら、確かにその名前をいちいち覚えていないということもあろう、と思ったのだ。しかし今度その取材先が古波蔵村長だったと知って、私は逆に信じがたい思いである。当時、村の三役というのは、村長と校長と駐在巡査だということを、都会生活しか知らない私は沖縄で教えられたのだが、あれほどの事件の直接体験者であり、しかも村については絶対の責任のある、ナンバー・ワンの村長から聞いておきながら、だれから聞いたか思い出せなかったということがあろうか」
集団自決の中心人物ともいえるべき元渡嘉敷村長を、なぜか思い出すことができなかった太田氏に疑念があるといった曽野氏の主張です。
こういった疑問を前提にしてから、元渡嘉敷村長と「村の三役」の一人である元駐在巡査の存在を主軸として、さらなる疑問、もっと正確にいえば矛盾点を提示しています。
「ある神話の背景」、厳密にいえば元渡嘉敷村長と元駐在巡査の証言によると、軍からの命令ないし要請・指示は元駐在巡査を通じて渡嘉敷村に伝わるそうです。
その流れを単純化させますと、軍の指揮官→駐在巡査→村長→住民ということになります。
しかし「赤松大尉の自決命令」に関しては元渡嘉敷村長と元駐在巡査ともども「聞いていない」、つまり受領はしていないということです。
転じて、太田氏の主張を信用するのであれば、「赤松大尉の自決命令」を聞いていないと証言した元渡嘉敷村長が、「赤松大尉の自決命令」を明記した「鉄の暴風」の取材時でも、何らかの証言をした可能性が非常に高いのです。
渡嘉敷村の中心的な存在であり、しかも集団自決においても中心的な役割を担った可能性が高い渡嘉敷村長ですが、同じ人物を取材しながら全く違う結果が出ているという矛盾点が、ここではハッキリとした形で浮かんでくるのです。
従って「どちらかが間違っている」可能性が非常に高いという現象があるということも、紛れのない事実だということにもなるのです。
4.については詳細に説明するまでもありません。特定の人物だけを信用し、特定の人物を信用しないのはおかしいことだと主張しています。
5.については、当人同士が「言った」「言わない」「書いた」「書いていない」といった、第三者からすれば単純な応酬ですので省略いたします。
次回以降に続きます。