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韓国の信仰の友より 2025年1月28日・29日・30日・31日・2月1日・3日有難う御座います。 2025年1月28日 神の沈黙、摂理の待ち 「わたしは静まって、わたしの所からながめよう」(イザヤ書18:4)クシュとエジプトはアッシリアの覇権に対抗するためにユダを引き込んで同盟を図り、権力を巡って争っています。しかし、静かに天からそれを見下ろしておられる方がいます。「静かに」(ヘブライ語のシャカット[שָׁקַט])は、単なる傍観や受動的な待機ではなく、明確な目的を持った聖なる沈黙を意味します。神の沈黙には、クシュが万軍の主への贈り物を携えて来るという救いの預言が込められています(7節)。神の沈黙は諸国の民を救いへと導く摂理の待ちです。それぞれが自らの正義を叫び、互いに刃を向け合う険しく厳しい現実です。混沌の渦の前で、すべてが崩れ落ちるような絶望感を覚えます。それでもなお、救いの神を信じています。「主よ、私たちをお助けください。この混乱の中にあっても、あなたの摂理を信頼させてください。」 2025年1月29日 逆転のナラティブ 「主は必ずエジプト(ミツライム)を撃たれる。しかしまたいやされる。彼らは主に立ち帰る」(イザヤ19:22)。'苦難'と'抑圧'を意味する語根から派生したヘブライ語の'ミツライム'は、単なる地名以上の意味を持っています。イスラエルの民にとって、エジプトは奴隷としての記憶が刻まれた地であり、世俗的な権力と偶像崇拝の象徴でした。彼らの集団的記憶の中で、エジプトは抑圧と束縛の別名でした。しかし、イザヤ書19章で神は驚くべき逆転のナラティブを展開されます。'撃つこと'と'癒すこと'という神の救いの御業は、単なる時間的な順序ではありません。これはむしろ、生まれ変わりの神秘を表す霊的弁証法です。新しい命が産みの苦しみを通るように、撃つ過程そのものが、すでに癒しの恵みの始まりなのです。このような深い霊的原理の中で、神は抑圧の地エジプトを「わが民」と呼び、救いの懐に招かれるのです(25節)。今日を生きる私たちもまた、権力や成功、富への渇望による霊的なミツライムを経験します。世俗的な価値と欲望の束縛に陥ることもあります。しかし、撃ち、そして癒す神の摂理は、今なお有効です。この苦痛に満ちた懲らしめの過程こそが、新しい創造のための神の恵みの始まりであることを悟る者に、真の自由と回復が訪れるでしょう。 2025年1月30日 「預言者のしぐさ - 裸の身体が語るメッセージ」 「イザヤは三年の間、裸になって、はだしで歩きまわった」(イザヤ書20:3)。イザヤは衝撃的な神の命令を受けます。3年という長い期間、裸の身体と素足で歩き回れというのです。ここで「裸」を意味するヘブライ語「アロム」(עָרֹום)は、完全な裸体ではありません。これは外衣を奪われた捕虜の悲惨な状況を再現するものでした。当時のアッシリア帝国は、征服した国々の捕虜たちを意図的にこのような恥辱的な姿で行進させていたのです。この象徴的行為には二つのメッセージが込められています。第一に、エジプトとクシュがアッシリアに敗れ、その民が裸にされて捕虜として連れて行かれるという預言です。第二に、これらの国々を頼りにしようとするイスラエルの愚かさへの警告です。「われわれが助けを求めて走って行った国がこのようになった。われわれは今、どうすればよいのか」(6節)という嘆きは、大国を頼りにして引きずられて行った者たちの絶望的な未来と虚しさの嘆きを表しています。この預言的行為は今日の私たちにも問いかけます。真の信頼と安全はどこにあるのでしょうか。それは唯一、神様にのみあることを、私たちは改めて深く心に刻むのです。 2025年1月31日 見張り人のまなざし 「主は私に言われた。『行って、見張り人を立て、その見るところを告げさせよ』」(イザヤ書21:6)ヘブライ語の「ツァファー(צָפָה)」には、「前に身を乗り出して遠くを見つめる」という独特な意味があります。これは単に「見守る」や「観察する」を超えて、積極的な期待と切望が込められた動作なのです。イザヤが受けた命令は、単なる見張り番ではなく、全存在を傾けて神の御心を待ち望む霊的な見張り人を立てることでした。「見張り人よ、夜はどうなったか」(11節)という問いかけには、闇の中で光を求める人類の切実な願いが込められています。見張り人は「朝が来ます。しかし夜も来ます」と答えます。これは単なる時の流れを超えた預言的な宣言です。見張り人の宣言には二つの現実が含まれています。神に立ち返る者には救いの朝が、神を背く者には裁きの夜が訪れるのです。しかし、この宣言にはまだ恵みの時が残されているということも含まれています。朝が先に語られているように、神の慈しみは裁きに先立つからです。今、私たちの時代には、目覚めている見張り人が必要とされています。 2025年2月1日 「揺れる杭:人間的確信の虚像」 「その日には、確かなところに打ち込まれていたかなめは抜け落ちる」(イザヤ書22:25)。この力強いイメージは、私たちが確かだと信じている安全と確信がいかに空しいものであるかを示しています。ヒゼキヤ王の時代の宮内大臣シェブナは、自分の権力が永遠に続くと信じていました。彼は豪華な墓を用意し、アッシリアとの同盟を通じて自らの地位を確固たるものにしようとしました。これは、現代の私たちが現実の安定を絶対的な真理のように信じている姿と重なります。しかし、神様はその杭が「抜け落ちる」(גָּדַע、ガーダ)と宣言されます。このヘブライ語は、突然の断絶、予期せぬ崩壊を意味します。人間の傲慢な確信が、神様の前でいかに虚しいものであるかを表す強い比喩です。 2025年2月3日 「傲慢なる栄光の穢れ」 「それを定められたのは万軍の主である。ティルスの誇る美しさをことごとく汚し、世界に重んじられて者をすべて辱めることを」(イザ23:9)。「汚す」と訳されたヘブライ語の「ハラル」(חלל)は、独特な意味のスペクトルを持つ言葉です。「汚す」「冒涜する」という一次的な意味を超えて、「貫く」「刺し通す」という物理的な意味も含んでいます。これは表面的な損傷ではなく、存在の核心を貫く根本的な変化を意味するのです。この力強い動詞の主体は「万軍の主」です。世のいかなる権力もなし得なかったこと、すなわちツロの完璧に見える栄光の裏に潜む傲慢を見抜く業を、神様が直接行われるのです。精巧な陶器の亀裂がその致命的な欠陥を露わにするように、神の「ハラル」はツロの華やかな栄光の裏に隠された致命的な傲慢を赤裸々に露わにします。今日、私たちが誇りとしているものは、果たしてどうでしょうか。神の「ハラル」の前に立つとき、私たちの栄光は真の栄光として残り得るでしょうか。自らを省み、顧みる時となりますように。 謝謝
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(韓国) 2024/012/22オリュン教会日本語礼拝「神は愛なり」能瀬熙至伝道師(音声プログ(日本語/韓国語)
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