黒糖モドキの小説倉庫

ヘタレ文芸部員もとい黒糖風味の小説庫です。
なお、理不尽な鬱表現・スプラッター・クトゥルフ神話等の要素を含みます

ボクよりボクらしいキミへ・第3話

2011-11-21 22:10:40 | ボクよりボクらしいキミへ
 目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋だった。

 ……そんなベタな展開が、まさか自分の身に起こるとは予想だにしなかったのだが、起きてしまったものは仕方が無い。彼はゆっくりと固いマットのベッドから身を起こし辺りを見渡した。
 コンクリート打ちっぱなしの正方形の部屋で、ドアが一つと家具は今まで寝ていたベッドのみだ。恐ろしいまでに殺風景で殺伐とした寒々しい部屋に彼は少し身震いをした。
 とにかくここから出よう。そう結論づけるとベッドから下り、唯一の重そうな鉄製のドアに近づいた。
 内側に鍵穴は無く、どうやら引き戸のようだ。祈るような気持ちで取っ手を両手で掴みゆっくりと力を込めると、ガラリ、と言うやや重い手応えと共に、ドアが開いた。

 ドアが開いた先は、薄暗く湿ったやはりコンクリートの廊下が延々と続いていた。しばらく部屋の中から頭だけを覗かせて廊下を見渡していたが、恐る恐る外に出ると、ゆっくりと歩き出す。
 ペタペタと裸足の足がコンクリートを踏む音と自らの呼吸音だけがただ廊下に反響し、異質な沈黙を掻き乱す。その明らかに作られた静けさの中に響き渡る、普段ならば気にも止め無いような些細な音が今では自分を脅かしていた。
 暗い廊下を唯一照らす光は、部屋の扉の横に付いた数字の書かれたプレートを浮かび上がらせる無機質な白色灯のみ。その明かりに照らされるプレートには、機械的な四桁の数字のみが書かれていた。

 数回十字路に突き当たり勘のみに頼って曲がっていると、不意に明かりの漏れている部屋に辿り付いた。何故か扉は無く、眩しい程の光が暗闇に新たなる影を落としている。

「…………だ。おそらく……だろう」

 中から響く男の声に、思わず背中を壁に押し付けて息を殺す。

「いや…………は上がっているはずだ。………しかし………」

 心音や呼吸音すら、聞こえるはずが無いのに聞こえてしまいそうな気がしてどうしようもなく足が震える。聞こえないと頭では分かっていても恐怖を拭い去ることが出来ない。そんな震える足で、一歩ずつ部屋に近づく。
 一歩。また、一歩。
 そして部屋を覗き込めるくらいに近づきゆっくりと覗き込もうとした、瞬間

「……ふん。自我の精度は上がっているようだな」

 押し殺された低い女性の声と共にドン、と背中に衝撃が走った。
 背中を殴られたような、そんな感覚。何故か違和感を感じて胸元に視線を落とすと、
 真っ白なシャツをテントのように持ち上げて、僅かに破れた先端から鈍色に輝く刃の切っ先が胸から飛び出していた。

「え……ぁ……」

 目の前がすぅっと白くなるような光景を前に本能が理性と思考を手放し、呆然とする。
 が、次の瞬間には悪寒が電撃のごとく全身を駆け抜け痛みより熱が胸元を灼き体内の異物感とともに鮮血がジワリと染みを作った。

「全く……帰って早々ガラクタの始末か」

 そんな淡々とした言葉と共に、貫通するほど深々と突き刺された刃が正しくない角度で無理矢理に引かれ、ゴリッ、と言う明らかに骨を削る音と共に引き抜かた。

「……ぁ……ッ!!」

 その体内から異物を引き抜かれる異様な感触に体が一度大きく痙攣し、コンクリートの床と壁に鮮血を撒き散らしながら倒れ込む。
 弱くなる鼓動にあわせて生命が流れ出していく虚脱感とわけの分からない恐怖に視界が霞んでぼやけた。
 そして、霞む視界の中その蒼い瞳が最後に捉えたモノは、
 まるでゴミクズを見るような目で、血に汚れた刃を無慈悲に振り上げる黒い少女の姿だった



「……ろ……、カイム、起きろ!」
 聞き慣れた少女の声に、それも久しく聞いていない怒鳴り声に慌てて跳ね起きるとそこは見知らぬ部屋だった。

「……ったく。やーっと起きたか」

 呆れ半分皮肉半分と言った雰囲気のよく見知った少女の、ルイの声に思わず苦笑を漏らすと部屋を見渡した。
 余り広くは無い古いログハウス風の部屋にはベッドが五つ並んでいて、部屋の角のベッドにアッシュが腰を掛け何かを黙考していた。
 ……何故か、ラウレルとノエルの姿が無い。

「あれ? ラウレルとノエルさんは?」
「……二人が帰ってきてから説明するよ」

 何か含みのあるルイの言い方にひっかかる物があったものの、特に問い詰める必要性も無かったので、そっか、と流した。
 そこでふと、一つの疑問が浮上する。何故、ラウレルとノエルなのか。
 僕が気絶していたから、ルイは離れるに離れられなかったのだろう。しかし、ノエルとラウレルは初対面だ。行動にも何かしらの支障をきたすだろう。
 ……策士であるルイが考えそうなこととは……?

「……狼と羊のゲーム、か」

 不意に、どこか達観を含んだ声色でアッシュがボソリと呟いた。それに苦笑いするルイを見てようやくその意味を理解する。
 狼と羊のゲームとは子供向けのパズルゲームだ。三匹の狼と三匹の羊を一隻のボートを使って川の対岸に渡すと言うとてもシンプルなもの。
 ただし、どちらの岸でも狼の数が羊より一頭でも多くなると狼が羊を食い殺してしまう。だから常に羊が狼より多いか同数になるようにしなければならないのがこのゲームのルールだ。
 今の状況を当て嵌めるならば、アッシュとノエルが狼……と、言うことだ。

「バレたか。正直、オマエらとの交渉は破局状態だから信用しがたいな。しかも、ワザワザ軽い脅しまでして同伴しようとする辺り何考えてんのか不思議で不思議でたまらないんだがねぇ?」

 ルイは明らかに挑発するような言葉を選んで言い放ち、そっと後ろ手に剣の柄に触れた。
 騎士団内でも性別差など関係なく張り合える技量だからこそ出来る駆け引き。それにアッシュは気づいているのかいないのか相変わらず何を考えているのか分からない表情で、静かに言った。

「……言ったろ? レム高原の軍事衝突の真相を追っていると。……俺が用があったのは、むしろアンタだ」
「はぁ? 何を言うかと思えば」
「本当の事を教えてほしい。レム高原で……一体何があった?」

 僅かに身を乗り出し、真剣そのものの表情でアッシュはルイに言った。その表情や語調は、アッシュ嘘をついているとはカイムには到底思えなかった。
 しばらく身構えたままルイは黙考し、やがてカイムと同じ結論に至ったのかゆっくりと口を開いた。

「……漆黒のドラゴンが、レム高原の近辺で目撃された。地上に残された痕跡からおそらく……生存者は……いや、生存者の情報は……無い」

 ルイがあえて伏せた沈黙が、彼女の気遣いが、静かに言葉の端々に影を落としていた。
 おそらく、こうだろう。ドラゴンからの軍事介入。そして、生存者は……ゼロ。

「……そうか……」

 数秒の後にようやく現実を受け入れたのか、アッシュはゆっくりとその場に座り込んだ。
 ……ルイが口にした漆黒に、カイムは心当たりがあった。
「ねぇ、ルイ……漆黒のドラゴンって……」
「……ああ。おそらく、お前の憶測は当たりだよ」
「……だよ、ね……」

 予想通りの返答に言及するかしまいか迷ったが、このままうやむやにするのも嫌だったので再び口を開きかけたその時、ドアが二回ノックされた。どうぞ、とルイが呼び掛けると、どこか複雑そうな表情をしたラウレルとノエルが姿を現す。

「あ、カイム……おはよう」
「無事だったんでスね」
「あはは……」

 今更ながらにどれだけ長い間眠っていたんだと思わざるを得ない二人の発言にカイムは苦笑を浮かべる。
 そしてラウレルは近くの椅子に座り、ノエルがアッシュのそばに座ったところでルイは口を開いた。

「……二人が帰ってきたら説明するって言ったよな?」
「うん……まぁ」
「こっちに来い」

 そう言うとルイは立ち上がり、カイムの腕を掴んで窓辺へ連れていった。

 煤けて汚れた汚らしいガラスの向こうに広がっているのは、やや閑散とした村の風景だった。だが、何かがおかしい。何がおかしいかと聞かれれば分からないと答えるしか無いが、明らかにおかしい。
 何がおかしいのかとガラスに目一杯近付きよく見ようと目を細め、気づいた。

 影が、無い。
 明らかに廃墟然とした街で暮らす人々の足元には、影が無かった。建物も、人も、木にも何にも影が無い。あるべき物が無い違和感。無ければならないものが抜け落ちている悪寒。
 その薄気味悪い光景を前にカイムは思わず身震いをした。

「……もう分かったな? この街は異常だよ……」
「で、俺とノエルさんで調べに行ってたんだ」

 僕はルイとラウレルの言葉に無言で頷くと、元のベッドに腰を下ろした。まだ、悪寒は止まない。

「……どうやら〝街の人々〟に俺らの姿は見えていないらしい。俺らは彼らの姿を見ることが出来るが、お互いの声は聞こえないみたいだ」
「この街には音がありませン風も声も水も、何もかも……まるで廃墟みたいで気味が悪いでス」

 感情があるのか無いのか、ノエルは両手で肘を抱えて身震いをするという動作をしてみせる。
 ……何と無く、カイムには機械人が破壊された理由が分かった気がした。あまりにも人間にそっくりすぎる。
 人間に似ることが高い技術力の証明なのに、行き過ぎてしまった失敗作の人間らしすぎる恐怖は誰でも気持ちが悪いだろう。

「……とにかく、この部屋を拠点に二、三日かけて街を調べよう。水や食糧は地下にあったから拝借させていただこうか」

 やはりルイが場を取り仕切り、そう言うと全員が頷いた。

「明日はオレが行こう。……アッシュ、ついて来てもらえるか?」





 次の日、ルイとアッシュは日の出と同時に部屋を出て行った。

「……ルイさん、きっと素晴らしい策士なんでスね」

 二人が部屋を出てから約一時間が経った時、唐突にノエルがそんなことを言った。
「私とアッシュは……確かに、信用されなくて当然かもしれません」
「……そんなこと、ないです」
「優しいんですね」

 悲しげに眉を下げて言うノエルに、カイムは複雑げな表情で俯いた。……ルイだけではなく、カイム自身もあまり二人のことを信用していない。明らかに不自然な理由に、タイミングの良すぎるレベルと名乗った彼女の襲来。全てにおいて信用しがたい。

「……に、信用…きないかもしれないけれど……はどう、」

 不意に、ラウレルの言葉がぶつ切りに聞こえた。
 ノイズ混じりの言葉と意識。何故かぐにゃりと視界が歪んで掠れ、徐々に音が遠くなる。
 ……、まだ、寝ぼけてる、の、か……な。

 瞬間、ドサリと言う音とともにカイムはその場に崩れ落ちた。



「倒れたぁ!?」
「あはは……ゴメン、もう大丈夫」

 大丈夫ってオマエなぁ、と驚きと心配と怒りをないまぜにしたような表情で言うルイに、カイムは苦笑を漏らす。

「大丈夫大丈夫言うヤツが一番危ないんだっての。迷惑とかそんなのどうでもいいから辛いなら俺らを頼れ」

 明らかに怒っている口調でそう言うと、ルイは乱暴にカイムの背中を叩いた。
 さらに数発、先程よりは加減されている代わりにカイムを拳で殴るルイにラウレルは苦笑を浮かべる。

「まぁまぁ……ところで、何か見つかった?」
「あぁ。この街がペルデルスィの森の中にあることが分かったんだ」
「……ペルデルスィの森?」

 ペルデルスィの森。別名、迷いの森。迷い込んだものは二度と生きて戻れないと言われている魔の森だ。中は常に霧が立ち込めており地下に埋まった旧文明の遺産の影響かどのような手段を用いようと方角がわからない。
 カイムの心の中に、諦めがジワリと滲んだ。

「とにかく、下手に動くと危険だ。森を調べるのは街を探索してからにしよう」
「……残念だが、もう遅い」

 その声が響いた瞬間、空間が変質した。
 ドロドロと埃を纏って滞留していた空気が一瞬にして流れ、純然たる肌を突き刺すほどに冷え切った空気があたりを包み込む。
 いや、違う。余りに純粋過ぎる空気が激しく肺を毒していた。人の体は毒を含まない空気に耐えられない。

 そして、いつの間にか、部屋の中央には一人の黒い青年が立っていた。体は病的なまでに細く白いが、漆黒の髪に瞳、そして司祭を思わせる漆黒の服が青年の出で立ちを異形のモノへと変えていた。

「……全く、ヒトには過ぎたシロモノはいつも予言を狂わせる」

 くっく、と暗鬱に笑う青年の暗い瞳を見た瞬間、カイムは金縛りにかかったようにその場から動けなくなる。
 暗い、余りにも暗い人のものではない狂気の瞳はただ虚ろに、ノエルを見つめていた。

「……ヒトの知恵とやらの寄せ集めなど、君達には必要無いだろう?」

 口元を三日月に歪め、青年は白く細い手をノエルに向けて伸ばす。

「〝回収〟させてもらうよ」
「あ、」

 そして、その手がノエルの華奢な首を掴んだ瞬間、バヅン! という何とも形容しがたい音とともにノエルの体がその場に崩れ落ちた。
 誰もがその光景を声一つあげられずに、指一本動かせずにただ呆然と見ていた。ただ、見ていることしか出来なかった。
 ……そう本物の〝神〟を前にヒトは何も出来ない。出来るわけが無い。

「……被検体までご一緒とは……皆さん仲良く招待致しましょう」

 何の無駄も無い動作でノエルをいとも簡単に持ち上げた青年がそういって笑うと、視界が不気味に波打った。
 またこれか、と思う間もなく意識がゆっくりと遠退いていく。

「神の国へようこそ、愚かなる人間の諸君」





 本日二度目の失神から目が覚めた時、カイム以外の二人は既に意識を取り戻していた。やっぱりか、と言う苦笑混じりに立ち上がろうとした時、目眩に襲われて再び膝をつく。

「オイオイ……最近多いよな、オマエ……どこか悪いとこでもあるのか?」
「大、丈夫……ゴメン……」

 ラウレルの手を借りてようやく立ち上がると、そこは一面の花畑だった。お約束の天国かと一瞬疑ってしまったが、どうやら違うようだ。

「……アッシュは?」
「さぁ? オレらが目を覚ました時にはもういなかった。始めから怪しいと思ってたんだよ、クソッ!」

 ……予想通りの展開に、カイムは内心ため息をついた。
 むしろ、最悪の展開だ。
「……とにかく、ここがどこであろうと先に進もう。歩ける?」

 一方ラウレルはルイとカイムの両方に気を使うようにそういった。
 しばらく黙っていたルイだったが、小さく頷くとゆっくりと歩きはじめた。

「……神の国、ってあいつ、言ったよな?」
「ああ。つまり……ここは……エルディア?」

 ルイがそう呟くと、ラウレルは静かに辺りを見渡した。カイムもそれに倣って辺りを見渡す。
 ただひたすらに花畑が広がっている、ように見えたがどうやら地平線らしきものの向こうは崖になっているらしい。ただひたすらに、雲すらない空が延々と広がっている。

 不意に景色が春を連想させる花畑から、蒸し暑い鬱蒼とした森へ切り替わる。

「うわっ、暑っ!」
「何これ……」

 その瞬間夏特有の蒸し暑い湿った空気が三人を包み、真っ先にラウレルが音を上げた。
 確かにこの暑さが続くのは身体的にも精神的にも辛い。

「あー、ヤダヤダ。さっさと抜けるよ」
「え、抜けるって?」
「春が夏になったんだから秋もあるだろ。はいチャカチャカ歩いた歩いた」


 ルイの言った通り、やがて季節は夏から紅葉の美しい秋へと切り替わる。
 そして、短い秋から雪の舞う冬へ。
 余りにも激しい気候の変化に体がついて行けずに再び歩みを速めたルイに引きずられるようにして歩き続ける内に、不意に三人の足が止まった。

 白銀の世界の中に、黒い少女がいた。
「レベル……」
「生命のリングは季節を用いて生と死の円環を表す。その道理を理解せずに短き生を駆け抜けるか、人間よ」

 どこか達観した、疲れ果てた少女の姿をした小さな神は静かに言った。
 そう、彼女は小さくとも神だった。あの恐怖を覚えざるをえない青年に一度会ったからこそ分かる。彼女も、神なのだ。

「……扉の内に求めるものはある。再び失われぬようその手に抱くがいい」

 そう言って、レベルは銀世界の先を指差した。
 その指差す先には、朧げながらも鉄製の分厚い扉が見えた。

「……何故、それを……?」
「……反逆とは、革命である。革命は時に愚であり、真であり、そして正義である。そなた達の行動に後悔が無いと言うのであれば先へ進むがいい、己が革命を見届ける子羊らよ。革命家レベルの名の元に……」



ボクよりボクらしいキミへ・第2話

2011-11-16 23:22:41 | ボクよりボクらしいキミへ



 翌朝、荷物を纏めてルイの部屋に向かうと既に準備を終えたルイが剣を手に待っていた。

「カイム……覚悟は出来たな?」

 穏やかだが何処か鋭い声で問うルイに力強く頷いて答える。
 ルイはそんな僕をしばらく見ていたが、ゆっくりと握り締めていた剣の柄を僕に差し出した。

「……お前の“元”世話係からの餞別だ。無事に帰って来い」

 そっと差し出された剣を受け取り、その鞘を見つめた。
 銀色に輝く真新しい剣は握り締めると昔から使い込んでいる剣の様にしっくりと腕に馴染んだ。

「ホラ、さっさと行くぞ」

 ルイはいつもより荒っぽく僕の背中を叩くと乱暴にリュックを背負い、部屋を出て行った。
 怒っているかのような挙動にしばらく戸惑っていたが、やがてそれらが彼女なりの感情表現だとようやく気づく。それならば元世話係からの餞別、と言う発言も頷けた。
 ややこしい拗れた感情でも何でもない、ただ単に、上手い表現の仕方が分からなかった。たったそれだけだった。
 不意に口元が緩むのを感じ、備え付けの鏡を見ると、その中に佇む癖のある黒髪に青い瞳の青年は穏やかな笑顔を浮かべていた。

 数秒の後に剣をベルトに手挟んで荷物を背負うと彼女の後を追った。





 やや顔を赤らめたルイに遅いと怒鳴られたが、流石に今この場で怒れないのと照れ隠しが混じっているからかすぐに彼女の意識は他にそれた。
 ルイの隣に所在なさ気に立っている青年を見る。癖の無い赤髪に青い瞳が印象的で、身長はやや高めで体格は僕と似たようなものだ。どちらかと言えば大人しそうな顔立ちをしている。
 ふと青年は僕の視線に気が付いたのか、静かに笑って言った。

「初めまして、かな。俺の名前はラウレル」
「あ、こちらこそ初めまして……カイムといいます」

 意外と気の強そうな口調の青年、ラウレルに慌てて頭を下げるとルイはおかしそうに少し笑い声を漏らした。

「それじゃあまずはノイエストに向かう予定……で、あってるよな?」
「ああ」

 ようやく落ち着いた頃合いにルイがそう切り出すとラウレルは特に迷う様子も無く即答した。
 余り地理には詳しくない、むしろ苦手なのだが確かノイエストはかなり規模の大きな港町だったはずだ。

「……海を渡るの?」
「いや、情報屋のところに行く。イザベルって言う売買人と話はつけてある」

 全く知らない土地に行くのかと不安を隠しきれずにそう言うと、ルイは不思議な名前を言った。
 イザベル。余り語彙は詳しく知らないが、確か聖書に出て来る男をたぶらかす女……とか。あまり良くない意味だった気がする。
 まさか、とは思いつつ振り切れない疑念が付き纏う。
「アッハッハ……まさかとは思うが誤解してらっしゃらないか?」

 え、とルイの言葉にその場に固まる。

「偽名だよギ・メ・イ。情報屋は恨みを買いやすいからそうやって正体を隠すんだ。ま、変わり者らしいしワザとそんな名前使ってるんじゃないか?」

 成る程、確かにルイの言うことは一理ある。しかしルイの言う通りいくら変わり者とはいえ目立つ名前を使うのはいかなるものか。
 まあ、それは本人にしか知りえない何かがあるのだろう。おそらく。





「……と、言うわけで、記憶喪失なんだ。コイツ」
「へぇ……」

 ガタンゴトンと大きな音をたてて揺れる乗り物の中で、ルイはラウレルにそんなことを話していた。
 機関車、と言うらしいこの乗り物はラウレル曰く石炭を燃料に線路の上を走るとかなんとか。今までに一応飛行船にも乗ったが、それとはまた別の感覚だ。
 揺れるとは言え飛行船ほど上下動が無いので酔うことも無いだろう。

 小さな小部屋のような座席を三人で占領し、過去の経験からか僕を窓際に押し込んでルイとラウレルは向かい合ってそんな話をしていた。

「……最近、多いらしいな。記憶喪失」
「まぁな……」

 小さな、本当に小さなラウレルの呟きがチクリと心に刺さった。
 顔も名前も知らない赤の他人と自分を繋ぐ、奇妙な共通点。それが今までずっと心に引っ掛かっていた。偶然かもしれない。はたまた、何処かの誰かの陰謀かもしれない。
 なんにせよ今記憶が無い事は変わり無い事実だ。

「記憶、戻ったら、何したい?」

 不意にラウレルは穏やかな笑みを浮かべてそう言った。

「……家族に、会ってみたい、かな。故郷とか、少し憧れるんだ」

 しばらく悩んだ後にそう答えるとルイは複雑そうな表情で唇を噛んで視線を逸らした。
 ……分かっている。家族とか、故郷とか、極アタリマエだって。今の自分の望みは極普通に生きてきた人々には全く分からない望みだって。
 ルイやラウレルや、普通のヒトにはアタリマエにあるのに僕には無いもの。
 普通のヒトは望まなくても手に入るのに、僕には手に入らないもの。
 それは何より僕がアタリマエじゃないという事実に他ならない。それが悲しくて、何処か虚しかった。
 そんな心境を知ってか知らずかラウレルは穏やかに笑ったまま、言った。

「記憶……戻るといいな」

 その言葉に、何も返せない。
 ……何故だろう。何故か思い出してはいけない気がする。
 早く記憶を取り戻したい。どうして? ……よく、分からない。

「……お、見えてきたぞ」

 複雑そうな表情で頬杖をついていたルイが身を起こし、窓の外を指差して言った。
 ラウレルと二人で窓の外を見ると、その先には赤レンガの壁に囲まれた街があった。やや城塞じみてはいるが、余り閉鎖的な雰囲気を感じないのはやはり港町だからなのだろう。ガタンゴトンとやかましい音の中に一つ、汽笛が鳴り響いた。





 駅、と言うらしいそこそこに大きな建物を出ると、其処には美しい町並みが広がっていた。格調高い赤レンガの建物が規則正しく並び、舗装された道を大勢の人が行き交う様子はまるで大規模な都市国家の城下街のようだ。
 物珍しげにキョロキョロと辺りを見回すカイムを余所に、ルイとラウレルは待ち合わせ人を探して辺りを見渡していた。

「スミマセン、連絡をくださったルイさんですよね」

 しばらく時間が経った後、不意に不思議なヒトがルイに声をかけてきた。
 クセのないサラサラのショートの茶髪に灰色の瞳の妙に中性的な顔立ちの青年(?)だった。年齢は十六、七前後で身長はやや底の高い靴を加味してもかなり高い部類に入り、体つきは細い。だがただ細いだけでなくその長身がその細さを鋭さへと変えている。
 ざっと特徴を羅列すればおおよそこんなものだが、あえて挙げるならばあともう一つある。
 全く性別が分からないのだ。
 中性的な顔、中性的な声、中性的な髪型、高めの身長に華奢な体、丁寧ながらも荒い口調。服装は今時なかなか見かけない立て襟の黒いロングコートの下に古風な黒のズボンにカッターシャツだ。
 誰にでもある性別を判断できるハッキリとした特徴が彼女(彼?)には無い。女性が見れば男性に、男性が見たら女性に見えてしまいそうな程に、人としての輪郭が掴めない。そんな不思議で、余りにも不自然な人だった。

「初めまして、僕はこの街で情報屋を営んでいるイザベルです」

 はにかむような物静かな笑みと共にルイに差し出された彼(彼女?)の右手はピアニストの様に華奢だが、明らかな剣技や荒事の痕跡が残っている。
 更には一人称までも中性的で、ますます彼女(彼?)の性別を曖昧にしてしまう。

「あ……初めまして、ルイ……ルイ=アリナウスです」

 どうやら連絡を取ったり噂を耳にすることはあっても会うのは初めてだったようで、ルイも困惑の色を隠し切れていない。

「みんな僕に会うとそんな顔をしますよ。慣れてるんでお気になさらず」

 怖ず怖ずと差し出された手を握り握手をするルイの心境を汲んだのか、イザベルは少し悪戯っぽく笑った。
 ……正直、イザベルと言う名前から女性を想像していたのだがまさかこんな人物が現れるだなんて予想だにしなかった。
 しかし性別が分からないと言う点をどう差し引きしようが、誰が見ても間違いなく彼(彼女?)は美形だった。色白の肌に切れ長の瞳、やや厚みは薄めながらも健康的な色合いの唇は、十人とすれ違って半数以上は振り返る程に涼やかな美貌だった。
 ……あえて付け加えるなら残り半数はまったく別の意味で振り返るだろうが。

「ああ、性別に関してはお任せします。僕は黙秘の方向で」

 そう言ってイザベルはウインクをした。男がやってもキザなだけだが、女にも見える彼女(彼?)のその動作は小悪魔のような不思議な印象を与える。
 そんなイザベルに対し、ルイ以上に困惑を隠せずやや引き気味のラウレルと目が合い、二人で複雑な表情を浮かべた。
 何となくラウレルの考えている事が分かる気がした。何も分からないのだ。
 彼(彼女?)の外見以外のステータスが、恐ろしいまでに分からない。性別はもちろん本名も何もかも、年齢ですら憶測でしかなくあやふやだ。しかし人としてあるべきものが無いと言う事は、それだけで十二分に立派なステータスでもある。
 匿名であり誰でもない事を大前提にした、ステータス。それが“イザベル”を構築する唯一のステータスのようにすら思えた。

「まぁ立ち話もアレなんで。案内します」

 そんな思考が渦巻くカイムの心境を知ってか知らずか、イザベルはそう言うとゆっくりと先導を始める。そしてやはり複雑げな表情のルイがまず後を追い、それを見たカイムとラウレルも二人の後を追う。

「あの……イザベル殿?」
「何か? あぁ、ちなみに決まった仕事場は持ち合わせていないので部屋を借りましたよ」
 サラリとしたイザベルの返答に、ルイの表情に動揺が走った。
 無理も無いだろう。本当に、彼女(彼?)を特定するものが本当に何も無いのだ。

「……そうですか……」

 いつもよりわずかに上擦った声でルイがそう言うと、イザベルは微かに笑って建物を指差した。

「ほら、そこですよ」

 普段なら気付くこともなく通り過ぎそうな、看板も何も無い自己主張の無い建物がそこにあった。
 イザベルは影が薄い、と言うよりはこの街の活気に気圧されて縮こまってるような印象を受ける二階建ての建物のドアに手をかけると、丁寧な動作で開けて中に僕らを招き入れる。

 チリン、と言うか細いベルに迎えられた建物の中は寂れた喫茶店のようだ。否、一応喫茶店ではあるが日当たりのせいもあってかかなり暗く、怪しい闇取引の会場のように思えてしまう。そんな風に考えてみればカウンターの向こうに立っているマスターらしき人物の陰気臭い顔も裏業界の人に見えてしまうものだから人の先入観とは末恐ろしい。

「マスター、予約してた者だけど」

 そしてイザベルはカウンター越しに渡された鍵を一瞥し、手招きをする。

「こっちだよ。05号室だ」





 案内された05号室には、客をもてなす為の気配りという物が何一つされていなかった。
 日当たりの悪い所か窓一つ無い部屋に椅子が4つと机が一つ、それから天井からぶら下がる埃まみれのランタンしかない。もはや部屋ではなく、箱だ。
 そんな『箱』の中、扉と反対側の壁を背にして椅子に座ったイザベルと向き合うようにカイム達3人が椅子を並べて座ったところで、静かに口を開いた。

「……すみませんね、話が話なので盗み聞きされない場所を選ばせてもらいました。まぁ信用するに足る場所なのでご勘弁を。あ、鍵をかけてもらえますか?」

 やはりそういう後ろ暗い用途で使われる場所だったらしい。
 とりあえず指示通りにカイムが無骨な閂《かんぬき》をかけると、イザベルは正していた姿勢を崩して話し始めた。

「それにしても、貴方達も随分と変わってらっしゃる。エルディアは今頃どこの情報屋も口が重いですよ。何せ……まぁ、この話はよしましょうか」

 相変わらず性別と本心の分からない口調でイザベルはそう言い、肩をすくめる。

「一つ目。まずはエルディアについてですかね……。
 空中浮遊都市エルディア。どうやらその名の通り、空高くを飛んでいる都市のようですね。都市、と言うよりは浮島に近い感じです。目撃者はほぼゼロですが、たまに記録として残っています。……まぁ、大まかにはこれくらい、ですね。此処からが本題です。
 最近多発している失踪事件に関してですが、実は百年ほど前にも記述があるんですよ」

 あらかじめ用意されていた物だったのか、イザベルは足元から羊皮紙の束を机に置いた。

「こちらは百十二年前の記録です。エルディアを目撃した集落で、同じ日同じ時間に少女が行方不明になっています。それから十二年間のうちに行方不明者は四十八人に上りました。それから百年間……今年に入るまで、エルディアに関する失踪者は一人もいませんでした」
「……それが今年になって、再び……と言うわけか」

 簡潔に言葉を引き継いだルイに、イザベルはご名答と言って笑い、続けた。

「そしてもう一つ……記憶喪失、ですね」

 その瞬間、頭から冷水を浴びせられたように意識が凍りつく。

「これはここ数年でかなり増加していますね。しかも奇妙なことに、全員最後には行方不明になっています。もしかしたらこれもエルディアに関係があるのかもしれませんね……」





 ノイエストの夜は、昼間の活気とは真逆に恐ろしいほど静かだった。
 その耳が痛いほどの静寂に耐えられず、ベッドから身を起こしていたのはどうやらカイムだけではなかったようだ。
「……ラウレル、起きてたんだ」
「まぁな。ルイさんは熟睡してらっしゃるが……」
「ちなみに下手に起こすとこっちが永眠するハメになるからね」

 苦笑いを浮かべて頭をかくラウレルに冗談混じりにカイムはそう言った。
 まぁ、事実ではあるが。低血圧で寝ぼけた頭のルイに迂闊に近づくと三途の川を渡り切ることになる。普段冷静な人ほど理性のタガが外れた時が恐ろしいのだ。

「分かった、注意することにするよ」
「あはは……。……ラウレル、聞いてもいいかな?」

 二人揃ってベランダの壁に背を預け、地面に座る。

「ラウレルは……さ。誰を探してるの?」
「……妹だよ。たった一人の家族なんだ」

 そっか、と返すと壁に頭を預けて空を見上げる。
 ……一方、寝付けなかった人はまだもう一人いた。

「……若いねぇ」

 彼等より年下なはずのルイはベッドから身を起こし、妙に年寄り臭いことをぼやいていた。





 結局その後中々寝付けないまま一晩が過ぎ、カイム達はノイエストを後にした。
 街を一歩出た時、目の前に広がるのは広大な森だった。日の光は鬱蒼と生い茂る木々に阻まれ、どこか薄暗く肌寒い。

「で……次はどこに行くの?」
「ナコタスと言う古代遺跡だ。どうやらそこにエルディアの手がかりがあるらしい」

 昨日までは持っていなかったかなり大きめの地図を難しそうに覗き込んだ仏頂面のまま、ルイはそう言って再び地図に目を戻す。確か彼女、道を覚えるのは大の得意だが地図を読み取るのは大の苦手だったはずだ。

「ナコタスって、アレだろ? その、中に入るには古代文字が読めなきゃ無理だったはずだが……」
「オレだってカジる程度には読めるさ」

 ラウレルの遠慮がちな発言をあっさりと切って捨てるルイにカイムは思わず苦笑を漏らす。
 確かにルイは読めないことはない、が、少しカジった程度の素人だ。恐らく自分に言い聞かせる意味合いもあるのだろう。

「しっかしまた遠いな……」
「……あの、すみません」

 しばらくぶつくさ言っていたルイだったが、背後から聞こえたその音に素早く振り返った。
 音? そう、音だ。声じゃない、音だ。

 そこに立っていたのは一人の男と、先程の声の主と思われる機械だった。
 いや、機械と言うにはあまりに人間じみている。無機質だが健康的な肌色の皮膚に赤い唇、真っ白の髪に赤い瞳を持った女性を模した機械だった。
 機械人、と言う言葉が不意に脳裏を過ぎる。

「……何ですか?」
「アナタ達も、ナコタスに向かうのですか?」

 ややズレたイントネーションで首を傾げて問い掛ける彼女に、ラウレルは困惑気味にルイを見、次にカイムを見る。
 ラウレルが戸惑うのも無理はない。見知らぬ土地での道中にいきなり機械人に話し掛けられれば誰でも戸惑うだろう。

「確かにそうですが……貴方達は?」
「申し遅れましタ。彼はアッシュ。ワタシはノエルと申します。皆さんの想像どおり、ワタシは機械人です」

 丁寧な動作で一礼するノエルに対し、背後の青年は軽く黙礼のみをした。背後に立つ青年は彼女と対照的な短髪の黒髪に、緑の瞳をしていた。
 やはり想像通り、彼女は機械人だった。
 ……機械人は遥か昔に量産され、そして葬られた古の技術の結晶だ。人と酷似した外見と心を持つその機械達はその完璧過ぎる性能故に恐れられ、やがて破壊されたのだ。

「初めまして、ルイ=アリナウスです……して、何かご用でしょうか?」
「はい。ワタシ達もナコタスに向かうのですが……アナタ達もエルディアに関する情報を集めているのでスよね。ワタシ達もご一緒させて頂けませんか?」

 流石にこれには驚いたのか、ルイは眉を跳ね上げて無意識の内に二人を睨みつける。
「……友人が、帰ってこないんだ」
「アッシュ……」

 不意に、覚悟を決めたような表情でノエルの後ろに立つ青年が、アッシュがため息と共にそう言った。
 それを聞くなり、ノエルはアッシュに目配せをして複雑そうな表情を作る。そう、作る。人間でない彼女には表情は作られるものなのだ。
 アッシュの発言に、無表情のルイとは対照的にラウレルはやるせない表情を浮かべる。同じ大切な者がいなくなった者同士、何か通ずる物があるのかもしれない。

「……アッシュのご友人は、戦場に出たきり戻って来なかったそうでス……エルディアが関与しているといわれてイる、レム高原での反乱軍と帝国軍の軍事衝突はご存知でしょう?」
「…………」

 言葉の信憑性を吟味しているのか、ルイは目を閉じ腕を組んで唇に指先で触れながらそれを聞いていた。
 考え事をするときに、腕を組んで唇に触れるのはルイの癖だ。本人に自覚はないらしいが。

「向かう場所が同じなら、ワタシ達が争う理由はありませン」
「……嫌だと言ったら?」

 まるで挑発するかのようにルイがそう言い放つと、ノエルは機械そのものの不気味にひび割れた声で言った。

「ナコタスの扉を開く鍵をアナタ達に教えないまでです」

 その発言にルイはため息を漏らした。……機械人は古代の技術の結晶だ。だからこそ、古代文字だって読める。ナコタスの扉を開く鍵と引き替えに旅の連れが増える。それは大人数で行動するリスクを背負うということだ。

 数秒間考えていたルイだったが、とうとう折れたのか降参といわんばかりに両手を上げた。
「分かった、オレの負けだよ。……余計なことはするなよ? こっちだってのっぴきならない事情抱えてんだから」
「感謝しまス」

 機械らしからぬ笑顔を作り嬉しそうに語調を上げるノエルに、ラウレルは最初から最後まで何も言えずにいた。ただ、複雑そうな表情でルイと僕をチラチラと見ている。
 ルイの言うのっぴきならない事情。僕の記憶とか、ラウレルの妹さんの事とか。しかしルイ本人には戦う理由が無い。
 ……ルイは、何故戦えるのだろうか……。





 そして、始めから定められたその場所に彼らはいた。
 一人の少女と、風を纏う一匹の黒龍。そう、レベルとベーゼだ。

「全く……あぁ、面倒だ」
「しかし驚いたな。プロトタイプが異常を来たすとは」
「比較的精度が上がったとは言え誤作動は仕方ないが……全て始めから定められているのであれば防げるだろうに……いや、定め故に何人にも変えられぬか」

 はぁ、とため息を吐き、レベルは空を見上げた。
 ため息の似合う、女である。
 そんな彼女を見下ろし、ベーゼは静かに笑って見せた。

「運命に抗うは愚かよ。如何なる水もいずれは海へ流れ着く。無数の星の輝きは誰にも得られぬ……己のみが報われぬと嘆く盲目の子羊は永遠に解き放たれることはあるまい」

 彼女と同等、いや、彼女よりも遥かに長く生き続けたベーゼの言葉は古き時代の残滓の中へと溶け込み、やがて消えていく。
 しばらく目を閉じてその声を聞いていたレベルだがゆっくりと目を開けると、静かに遺跡へと通ずる道を見てポツリと呟いた。

「……来たぞ」

 が、そこには誰もいない。いや、今まさに訪れようとしている。
 それは運命なのだから。





 ようやく鬱蒼とした森を抜け、視界が開けたその先にはゾッとするほど凄惨な光景があった。

 古び、停滞した時と静謐な荒廃を雄弁に物語る半ば崩れかかった神殿を背景に、漆黒の黒龍と黒い少女が立っていた。
 闇色をした立て襟のコートを纏い下に黒い布製の半ズボンと古いデザインのカッターシャツを着た彼女は静かに何をするでも無くそこに“い”た。
 何の歪みも無い冷淡な美貌に如何なる表情も浮かべずに、ただ無感情な藍色の瞳でこちらをじっと見ている。そしてその背後に立つ龍は、彼女と対照的な深紅の瞳で静かに空を仰いでいた。

 一瞬にして真っ白に漂白された思考を取り戻すまでの数秒間、カイムは息の仕方すらも忘れて立ち尽くしていたが、ルイの言葉と共に正気に戻る。

「誰だ」
「……まったく、人とはいつの世も愚かよの」

 それに答えたのは少女ではなく、あろうことか彼女の背後に立つ黒龍だった。

「長き時の内に古の記憶すらも忘れ去ったか……愚者は賢人を理解し得ない、いや、理解しようともしない……己の愚かさと醜さの露呈を恥ずるか」
「……その辺にしておけ」

 淡々と、哀れむようで嘲るような口調で流暢に話していた黒龍を黒い少女は制止した。
 そして何も宿さない瞳で静かにこちらを見据え、

 嗤った。

「始めてお会いになりますね。私はエルディア天空議員のレベル=ユースティティアと申します。以後、お見知りおきを」

 狂気すら感じさせる歪んだ笑みを浮かべ王族を連想させる優雅な動作で一礼するレベルに、カイムは形容しがたい恐怖を覚えて後ずさった。

「……議員? エルディアとは一体何なんだ?」

 カイムとは対照的にラウレルは厳しい表情でレベルに詰め寄り、食ってかかった。
 そんなラウレルをも嘲るように、レベルは静かに言葉を紡ぐ。

「語る必要は無いな。神への反乱は世界への冒涜であり、重罪である。貴様達が古代の聖域に足を踏み入れることは未来永劫無い」

 そう言ってレベルは口の端を持ち上げただけの酷薄な笑みを浮かべると右手をゆっくりと空に向けて振り上げた。
 その瞬間、ぐにゃりと世界が歪む。

「さようなら、汚らわしき罪人の諸君。アザトース様の慈悲があらんことを……」

 それが、意識が断絶する前に聞こえた最後の言葉だった。