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父、天国への旅立ち

僕の父が、10月13日に亡くなった。享年85歳。来月86歳目前でついに力尽きてしまった。

父は腎臓を悪くしてから、7年前くらいから透析を行ってきた。そして、心臓のバイパス手術なども行ってきたので、肉体としてはかなり厳しい状態にはあったが、それでも今年の2月くらいまでは、週3日の透析で病院に通いながら、普通に自宅である程度元気に生活していた。

しかし、2月頃から歩くことが困難になり、手も痺れが酷くなったことで自分で上手く食事がとれなくなった。その原因は頚椎症。首をかなり傷めていたようで、その結果手足の機能に大きな支障をきたし始めていたのだ。恐らく、かなり前から首が悪かったのだと思うが、痛みに対して鈍感ときているから、頚椎症がこんなに酷くなるまで気が付かなかったのが悔やまれる。そして3月、自宅前の22段の階段下で一歩も動けなくなってしまい、そのまま救急車で運ばれて藤が丘の昭和医大病院に入院することとなった。以前、心臓バイパス手術を受けている病院である。

入院中、頚椎症治療の為、首の手術をするという選択肢も先生から提示されたが、高齢や、過去に心臓の手術や透析などもしていることから、危険を伴う首の手術はかなりのリスクとなるとのことで、しかも手術が仮に上手く行っても頚椎症が治ることはなく、多少症状を軽くすることしか期待できないという。また首なので、逆に状態が今よりも悪くなったり、再起不能になるリスクもあるということで、総合的に判断して首の手術は見送ることにした。

その後、一旦昭和医大病院を退院して、シニアホーム(介護付き老人ホーム)に移動させることになった為、1ヶ月半くらいをかけて多くのシニアホームを周って見学した結果、江田にあるベネッセのシニアホームに入居出来ることが決まった。透析の為、週3回病院送り迎えが必要な患者の受け入れ対応が可能なホームを探す必要があった為、なかなか大変であったが、何とかベネッセのホームに無事決まり、希望の光が微かに見えたかに思えた。コロナの影響で、病院では入院患者との面会が出来ないが、ベネッセのシニアホームなら、家族に限って事前申請すれば部屋で比較的自由に面会出来る為、何とか父にとっても明るい未来を期待してシニアホームへの入居を決めたのだった。

しかし、残酷にも期待はすぐに裏切られてしまう。ホームでは途中で食事が全くとれなくなり、医療行為が出来ないホームでは食事の取れない住人は滞在出来ないこととなってしまい、今度はたちばな台病院にまた入院を余儀なくされた。2度目の入院生活である。しかも、今回は退院出来る見込みの無い入院となることは予想がついた。食べることが出来なくなった父は、もはや点滴や栄養剤にのみ頼る生活となり、見る見るうちに痩せ細っていった。そして、会話もやや困難となり、完全に寝たきりの生活になってしまった。それでも透析を続けながら、何とか安定した状態になってはいたので、今度は長期滞在型の病院に転院すべく準備をしていた。そんな矢先に、父はついに力尽きてしまった。

最初に手足、そして食事をとることや、体の自由を全て奪われていく中で、意識はしっかりしていたので、ある意味本当に酷だったと思う。そんな辛い父に対して、”もう辛い入院や透析も辞めて、家に帰る?”と聞いたことがある。しかし、父は透析が出来る間は続けたいとはっきり言ったのだ。透析を辞めて家に帰るというのは、尊厳死を意味する。恐らく、生きるモチベーションがどんどん失われて行く中で、父は本当に辛かったと思う。なので、父を何とか楽にしてあげたい、家に帰してあげたいという気持ちが強かった。しかし、父は生きることを決してあきらめなかった。そこまで我慢強く、最後まで頑張った父を本当に誇らしく思うのと同時に、父の当時の立場を考えると何ともやるせない気持ちになってしまう。

もっとやってあげられることがあったのではないかと悔やまない日は無い。今振り返れば、もっと早く頚椎症に気が付いていればとか、リスクを冒してでも首の手術をしていれば良かったとか、無理言ってでも病院でもっと面会をしていれば良かったとか・・・。自由に面会が出来ない環境の中、もっと最後の時間を父と一緒に過ごすことが出来なかったことが、今となっては一番悔やまれてならない。

どちらかと言えば寡黙な父だった。毎晩帰りが遅く、仕事がとても忙しい商社マンであった為、幼い頃そんなにたくさん遊んで貰った記憶は無い。常に海外出張でいないことも多かった。それでも海外転勤して、旅行で色々なところに連れて行ってくれたし、父の影響で僕もジャイアンツファンになって、父とはいつもテレビでジャイアンツ戦を見ながら、ジャイアンツ選手の愚痴を言いながら観戦するのが楽しみで、2人で共有出来ていた貴重な時間でもあった。寡黙で多くを語らない父だったが、家では良くくだらないジョークなども言う人で、とてもお茶目な一面もあった。

しかし、そんな父を長年そばで見ていて、結局僕も父と同じ商社の道に進む結果となったし、父のことはいつもどこかで尊敬していた。それは仕事人としても、人間的にも、真面目で実直な性格の父は、本当に尊敬出来る存在だったのだと思うし、とても家族思いだった。

ホームを引き払い、2度目の入院をした時、弱気になった父から僕の携帯に電話があった(まだ自分で何とか電話が出来る時期だった)。その時父が僕に言った言葉は、”もう長くないかもしれない。おかあさんのことは大切にせえよ”と。その時はまだ亡くなることが現実的ではない時期だったので、また縁起でもない冗談を言って、と思いながら聞いていたが、今となっては僕への遺言でもあったのだと思う。

10月22日にささやかな家族葬で父を天国に見送った。そして父は骨となって、実家に戻ってきた。入院生活が長くなっていた父も、きっとようやく自宅に戻ることが出来て喜んでくれたことだろう。そして天国ではまた好きなものを食べて、好きな本を読んで、好きな旅行をして、楽しく過ごしていることだろう。

肉体が限界に来てしまった父だったが、父の魂は、最後まで決して死ぬことがなかった。

最近は、僕も父に似てきたと色々な人に言われるし、自分でも気持ちが悪いくらい、父に似ていると思う瞬間がしばしばある。決して死ぬことのなかった父の魂を受け継ぎ、僕も父に恥じることの無い残りの人生を送りたい。そして、いつかまたあの世で父に再会した時、色々と父に胸を張って自慢出来るよう、これからもしっかりと自分らしい人生を生きて行きたいと強く誓った。

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