67年間、優良ドライバーだった父。今どんな想いでいるのだろう。無口な父は「俺から車とったら何にも残らねぇ」と函館弁でゆっくり喋っていました。
〈お父ちゃんの車〉
父は車に憧れて18才から定年まで某◯産自動車会社で勤めあげ、会社から何度も表彰されて本物の金メダルも2つ授与された。時代は日本の高度成長期。お中元やお歳暮が沢山届いて、私は夏のカルピスに困ることはなかった。お正月には会社のおじさん達が何人も麻雀(ジャラジャラと言っていた)に来て、面白がって何度も部屋に顔をだす私に、お年玉をくれた。
夜景を見たいというと、よく函館山に連れてってくれた。啄木亭辺りの海岸、湯の川温泉花火大会、遠く定山渓温泉や登別、戸井町の海にもいったし、夜中に生酢のイクラに当たって、痛さに転げ回る私を、寒い雪の中、車を出して病院に連れてってくれた。浴衣姿の私と弟を港祭りに連れていってくれた。綿あめやヨーヨーも買ってもらった。ひよ子も。私の白百合高校時代には、晴れた日も雪の日も雨の日も、毎日学校まで車で送ってくれた。その後も私が函館に帰る度々、飛行場まで車で迎えに来てくれました。
いつもピカピカに磨かれた車は、ローレルなんかの大きい車だった。無口だけど人柄が好かれてトップセールスだった父。だから時代の新車をその時々に乗っていたようです。でも残念ながら車やさんの娘は、車の名前を殆ど知らない。いまだにローレルとかヴィラしか出てこない。免許もないのです。車の免許を取らせてやるから、東京には行くなという御達しを聞かずに、私は飛行機に乗ってしまった。
定年後も、以前からお声のあった◯菱自動車会社で働きました。父は一生好きな車の仕事をして、私を育ててくれました。
お父ちゃんの車、無くなったけれど。だけど一緒に洗車したことや、あちこち連れていってくれたこと、ぜんぶ覚えています。そしてお父ちゃんが家でゆっくりしてくれてることが、いま何より嬉しいし、元気でいて欲しい。色んなことを思い出すと、心がすうっと落ち着いて来ます。大切に大切に育ててくれて、ありがとうお父ちゃん。大好きな時代劇チャンネル観ながら静養してね。
きれいな朝焼けの写真は、早朝、お父ちゃんの車で函館駅まで送ってもらった時の、想い出の一枚です。