文豪とスポーツ ―ハットトリック太宰治―

太宰はハットトリックを経験。バスケ部織田作は他校バスケ部の少女を恋した。文豪とスポーツの関係を楽しく紹介します。

自転車狂志賀直哉少年とデイトンと切支丹坂

2024-06-28 15:54:12 | 日記

 

 明治の後半、今から120年ぐらい前のことになる。東京の往来を行くのは馬車ばかりで、まだ電車も自動車も走っていなかった。自転車は、主に英米からの輸入車が普及し始めていたようだ。

 イギリス製の自転車は作りが親切で頑丈だが野暮ったかった。アメリカ製は泥除けもなく不親切な造りだが、イギリス製よりもカッコよく安価なため、若者に人気があった。

 そこでかの文豪志賀直哉は学習院の中等部に上がった13歳のとき、お祖父さんにせがんでアメリカ製のデイトンを買ってもらった。そしてその後5、6年間、気が狂ったように自転車を乗り回したと本人はいう。

 麻布三河台、現在の六本木交差点近くの雑木林に囲まれた千七百坪になんなんとする広大な屋敷から、目白の学習院までの通学路7、8キロの往復はもとより、買い物や友達の家への訪問にも使い、休日には江の島、千葉への日帰りの自転車旅行も決行した。

 ちょうど同時期、夏目漱石も留学先のロンドンで自転車を習いはじめたが、直哉少年のような具合にはいかなかった。漱石の随筆「自転車日記」によれば、大きな落車5回、小さな落車は数知れず、「或る時は石垣にぶつかって向脛(むこう)を擦りむき、或る時は立ち木に当って生爪を剥が」し、「ついに物にならざるなり」とある。

 

 直哉少年をどこへでも連れて行ってくれた高性能車デイトンには、一つ大きな欠点があった。今の一般的な自転車とは異なり、ハンドル部分で操作するブレーキがない。デイトンはいわゆるピストバイクで、ペダルをこぐのを止めると後輪も一緒に止まるので、走行中に止まりたいときは、ペダルを逆に踏み込んでブレーキをかけた。

 慣れない者には危険極まりない制動システムにもかかわらず、彼が好んだのは坂道の走破だった。「登山家が何山何嶽を征服したというように、私は東京中の急な坂を自転車で登ったり降りたりする事に興味を持った」と彼は小文「自転車」に記す。

 しかし、目白にある日無坂とその隣りの富士見坂などは、見ただけで自転車で踏破しようと思う戦意は誰でも喪失するに違いない。

 学習院はこられの坂の近くだから、直哉少年がこの二本の坂について「自転車」の中で触れてもいいはずなのに、その記載がないところを見ると、ここだけは二の足を踏んだのかもしれない。

 直哉少年は富士見坂よりさらに東に2キロほど行った所にある、今の丸ノ内線茗荷谷駅あたりの切支丹坂に、果敢にチャレンジしたようだ。まるで崖のような急峻な坂を、ハンドブレーキのないデイトンで下ったときの模様を次のように記している。

「私は或る日、坂(=切支丹坂)の上の牧野という家にテニスをしに行った帰途、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬようにして置いて、上から下までズルズル滑り降りたのである。…中心を余程うまくとっていないと車を倒して了(しま)う。坂の登り口と降り口には立札があって、車の通行を禁じてあった。然し私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは自分だけだろうという満足を感じた」

 

 それから遠乗りや坂道の遊びだけでなく、直哉少年が自転車で楽しんだもう一つのことことがある。それは、競走だ。

 志賀直哉は「自転車」で、こう述べる。

「私達は往来で自転車に乗った人に行きあうと、わざわざ車を返し並んで走り、無言で競走を挑むような事をした。時にはむこうから、そういう風にして、挑まれる場合もある」

 さらに直哉少年は自分の自転車の競走性能が相手に劣ると見るや、卑怯な手段を使って対抗した。それは上野の広小路を走っていて、背後から来た二人連れの自転車に挟まれ、競走を挑まれたときのことだった。

「その車ではもう競走は出来ないので、不意に一人の車の前を斜めに突っ切って、對手の前輪のリムに自分の後輪のステップを引っ掛け、力一杯ペダルを踏むと、前輪が浮いて、その男は見事に車と共に横倒しに落ちた。二人とも私よりは年上らしく、一人と二人では敵わないから、一生懸命逃げた」

 なかなかやるじゃないかと親しみが湧いてくる。

 ちなみに、彼の自転車の製造元と価格について触れておく。彼のデイトンは、ラインと兄弟が作った自転車会社の製品で、イギリス製よりも安く160円。今なら約160万円から320万円相当で、一部の富裕層しか所有できなかった。

 

 ついては、筆者も志賀直哉少年が挑んだ切支丹坂に出かけてみた。彼と同じように、ブレーキをかけてズリ落ちながら、切支丹坂を降りてみた。

 しかし現地に着くと疑問が湧いてきた。現在の切支丹坂は、直哉少年の降りた切支丹坂ではなさそうだった。「坂の登り口と降り口には立札があって、車の通行を禁じてあった」というほど急ではなかったからだ。

 では、目指すそれはどこにあるのか。切支丹坂の坂下から、逆方向の小石川台地へと登る坂、庚申坂(こうしんざか)が怪しい。なぜなら、庚申坂は極めて急峻で狭く、直哉少年が苦労して降りた坂のイメージにピッタリ重なるからだ。庚申坂を登り切ったところに、坂の由来を示す立札があり、次のように書かれていた。「この坂を切支丹坂というは誤りなり。本名は“庚申坂”昔坂下に庚申の碑あり」。この一文は、明治の中ごろ、ちょうど彼が坂を下ったときより、少し前に出版された東京の名所ガイド『東京名所図絵』からの引用である。すなわち、庚申坂は当時切支丹坂と通称されていたことがわかった。

 まあ、どうでもいいことだけれど、なるほどこの坂を300万円のピスト自転車で降りてきたのかと思うと、さらにその馬鹿さ加減に呆れ、なるほど世紀を代表する文豪の根性は見上げたものだと、今ではコンクリートで固められ、階段と手すりがつけられたその坂を、感慨深く見上げる私、筆者だった。

《文責 中川 越(手紙文化研究家・コラムニスト 東京新聞連載中 NHKラジオ深夜便・文豪通信・レギュラーとして出演中)》

 


テニスと川端康成と青春の刑罰

2024-06-28 12:29:17 | 日記

川端康成の短編「父母」の中に、テニスにかかわる美しい表現がある。

「父母」は、軽井沢に滞在中の中年の小説家が、ある夏の日に、雷雨の直後のさわやかな落葉松(からまつ)の林道で、テニス帰りの年頃の少女と出会うところから始まる。その少女は、小説家の若い頃の恋人ゆき子の青春の姿にそっくりだった。

 当時ゆき子は小説家とではなく、他の男性と婚約中だった。しかしゆき子は、小説家と恋に落ちた。二人の関係を知った婚約者は婚約を破棄。その後ゆき子に女の子が生まれ、慶子と名付けられ里子に出され、小説家もゆき子と別れた。慶子は婚約者との子だった。そこで小説家は、結局自分を見限り、慶子までも捨てたゆき子と、ゆき子と慶子を捨てた婚約者への憎しみ、嫌悪、そしてゆき子への未練を捨てきれずにいた。そんな小説家の前に、かつてのゆき子の姿にそっくりな慶子が現れたので、小説家はゆき子に次の手紙を書送った。

「あなたの慶子さんは、今どこにどうしているのか、あなたに分かっているのですか。実にそっくりでしたよ。自転車のうしろにラケットがついていたから、テニスの帰りなんでしょう。追い越されるとたんに、あっと思うと、それはもう乱暴な速さで、風を切って行きました。一直線に落葉松(からまつ)の広い道です。…早口で英語の歌を歌って行きます。…雷雨の晴れた直後です。なんとも爽(さわや)かなものでした。日灼(ひや)けして、むろん思いきり短いスカートで、軽井沢避暑令嬢の眺(なが)めですが、…その少女があなたのあの頃にそっくりであろうとは。」

 小説家はまだ少女を慶子とは断定せず、ゆき子の不安感をあおり、手紙でさらにゆき子をこう責めた。

「慶子の亡霊め。まったく亡霊だったとお思いになりませんか。この自転車の少女が慶子さんだとすれば、十幾年も私たちの心に陰(かげ)をつくっていた慶子さんはです。あなたはあなたの棄(す)てた子供が、可哀想(かわいそう)だ、不(ふ)しあわせだと思っておいでですか。」

 小説家は、露骨にゆき子を責(せ)めが、慶子が里子に出された不幸の責任の一端は、小説家自身にもあると思っていた。小説家は軽井沢でよく見かける西洋の中年女性を見て、次の感想をもらし、過去に起こした自分の罪の反省のきっかけにした。

「西洋の女なんて、年の取り方も知らん人種だ。青春の刑罰の顔、まことに青春の刑罰を背負って歩いてるとしか見えんね。青春の刑罰とは、ただ、今ふと浮かんだ言葉だが、僕らはこれについて一度話し合おうじゃないか。」

 小説家は、慶子に似た少女の姿を、自分たちの青春の刑罰の印として、共有しなければならないと思った。そして、そう思ったときに、ゆき子への愛情が再び燃え上がり、ゆき子への憎しみを上回った。小説家は次の手紙でゆき子にこう書いた。

「あのお嬢さんはテニスがたいへん下手ですよ。可愛(かわい)くて微笑(ほほえ)ませるほど。…ああ、二十年近く以前のあなたにそっくりの少女が、目の前に生きて動いているとは。少女には知らせず、あなたにこれを見せたい。…あなたは感動して、涙を流すでしょう。けれども、その涙は、母が棄(す)てた娘にめぐりあうという哀(あわ)れっぽい人情の涙ではないでしょう。道徳の匂いもないでしょう。なにかたいへん純粋な喜びじゃないかしらん」

 さらに小説家は、刑罰の共有という意識から離れて、見事な一個の少女の輝く命を、二人で鑑賞してみたいという気持ちが大きくなっていく。しかし、小説家は一方で、ゆき子の婚約者だった男に対する憎しみや嫌悪は増していき、こんな手紙を、ゆき子の元婚約者に送りつけた。

「僕を若いと言うのは、君の皮肉だろうか。種々の意味を含めての非難だろうか。君の言う通り若いならば、僕は君の棄(す)てた娘と恋をしても、よろしいか。無頼(ぶらい)の脅迫じみた言い草だね。…僕は慶子とテニスをしたんだ。…無頼(ぶらい)の徒(と)は君の娘を愛せるのが、楽しいだけだ。僕は君に復讐(ふくしゅう)したいつもりは、微塵(みじん)もないのだよ。君は君の血が僕に愛されることを、喜びたまえ。それが父なるものの、哀(あわ)れな運命である。…慶子さんは十八歳だ」

 まさにこれは、元婚約者への脅迫状だった。

そして小説家は、青春のゆき子と慶子を重ねながら、ますます慶子にめりこんでいく。二人は一緒にテニスを楽しみ、親密さをましていった。小説家はゆき子への次の手紙に、こう書いた。

「あなたの慶子さんの魂は、あの、テニスの硬球のように、私の掌(てのひら)をとんとん打って来る、そういう感覚が、今これを書く私に感じられる。…少女の打つボールも、私めがけて飛んで来る青春。それはあなたから、あなたの娘の慶子さんから、私の裡(うち)から、そうして遠い過去から、真新しい矢のように

 慶子という存在そのものが、遠い過去から矢のように飛んできた脅迫状だった。その美しい矢のような脅迫状に、ゆき子も元婚約者も、ひいては小説家自身も、射貫かれても仕方がない、むしろ射貫かれることが、せめてもの贖罪(しょくざい)だと思った。

結局小説家と慶子は別れることになる。小説家は慶子からメモ書きを、ゆき子宛ての最後の手紙にこう書いた。

「少女は賢(かしこ)い伝言を残して行った、東京へ帰ったら、たぶんもうご交際できませんから、よろしく、と。…東京から洋菓子を送ってくれて、そのなかの紙片(しへん)に、少女のテニスのように下手な字で、私は忘れますけど、あなたは覚えていてください、と、ただこれだけ書いてあった」

 「テニスのように下手な字」の永遠の脅迫を、小説家とゆき子は、哀しく嬉しく受け止めたのだった。

《文責 中川 越(手紙文化研究家・コラムニスト 東京新聞連載中 NHKラジオ深夜便・文豪通信・レギュラーとして出演中)》