文豪とスポーツ ―ハットトリック太宰治―

太宰はハットトリックを経験。バスケ部織田作は他校バスケ部の少女を恋した。文豪とスポーツの関係を楽しく紹介します。

水泳好きな芥川龍之介は「神伝流」で見事に泳いだ!

2024-06-29 19:54:39 | 日記

 

左の写真 幼少期の芥川龍之介 〈出典 『日本文学アルバム 第6』 亀井勝一郎その他編 筑摩書房 1954〉

右のイラスト 古式泳法 神伝流 〈出典 『中途学校水泳教範』佐藤三郎著 一成社 昭和8〉

 

 芥川龍之介は水泳が好きだった。24歳のときに千葉県一宮海岸に出かけ、夏目漱石に若者らしいはつらつとしたこんな書き出しの手紙を送った。

「先生 また 手紙を書きます。嘸(さぞ) この頃の暑さに 我々の長い手紙をお読みになるのは 御迷惑だろうと思いますが これも我々のような門下生(もんかせい)を持った因果(いんが)と御(お)あきらめ下さい」

 芥川龍之介は夏休みに勉強と避暑、海水浴をかねて一宮海岸を訪れていた。

 そもそも芥川龍之介と水泳とのかかわりは、小学生、12歳の頃に始まったようだ。彼は水泳を習い始めたときの思い出を、このように記している。

「僕の水泳を習ひに行つた『日本游泳協会』は丁度(ちょうど)この河岸(かし)にあつたものである。僕はいつか何かの本に三代将軍家光は水泳を習ひに日本橋へ出かけたと言ふことを発見し、滑稽(こっけい)に近い今昔(こんじゃく)の感を催さない訣(わけ)には行かなかつた。しかし僕等の大川(おおかわ=浅草雷門の近くの吾妻橋より下流の墨田川の呼び名)へ水泳を習ひに行つたと言ふことも後世(こうせい)には不可解に感じられるであらう。現に今でもO君などは『この川でも泳いだりしたものですかね』と少からず驚嘆してゐた。」(「文芸的な余りに文芸的な」芥川龍之介 著 岩波書店 昭和6)

 家光が日本橋あたりで水泳の練習をしたというエピソードも新鮮だが、書斎で難しい顔で写真に写っている、あの芥川龍之介が、墨田川で楽しく水泳の練習にいそしんでいたとは、なかなか想像しにくく愉快だ。

 では、芥川龍之介が、なぜ水泳を始めたかというと、『芥川龍之介伝記論考』(森本修 著 明治書院 1964)にその理由が次のように詳しく書かれている。

「身体の弱かった龍之介は、小学校在学中水泳を習いに行っていた。龍之介が水泳を習ったのは『日本水泳協会』(『本所両国』では日本遊泳協会)である。この協会へは、永井荷風や谷崎潤一郎も通っていたという。はじめ蘆(あし)の茂った中州にあった水泳協会は、芥川龍之介が通っていたころは、安田の屋敷前に移っていた。…明治三十七年(1904)八月十三日、龍之介〈12歳〉は吉田某と水泳協会の四級生試験を受けて及第(きゅうだい=合格)している。試験に及第した徹之介は、吉田と「協会をとび出して柳橋(やなぎばし)に級章を買い」に行っている。続いて二十一日には三級生の試験を受けているが、この時は自信がなかったのか。『十中九箇九分の八(=十中八九)は落第です』と当時の日記に書いている。この年から十四年後の大正七年(1918)八月、龍之介は、菊池・久米・江口らと由比ケ浜へ泳ぎに行っているが、この時の龍之介の泳ぎぶりについて、江口は「芥川の神伝流は免許とりだというだけあつて、形もきれいだし、波をきつてすすむときは、やせた長身が見事な曲線をえがいてのびやかにしなった。ただ、水をかいた手を大きくぬくとき、それと一しょにふり向ける首のふり向け方には、独特のポーズがあったと書いているが、龍之介が神伝流の免許を何時とったのか明らかではない。」

 芥川龍之介はなかなか水泳がうまかったようだ。

 ところで、彼の泳法「神伝流」とは、いったいどんな泳ぎ方なのか。調べてみたら、こんな泳ぎ方〈上図イラスト〉だった。立ち泳ぎをしながら前進している。笑ってはいけない。なかなか堂々とした上品な泳法である。

《文責 中川 越(手紙文化研究家・コラムニスト 東京新聞連載中 NHKラジオ深夜便・文豪通信にレギュラー出演中)》

 


ロンドン留学中にスケートの秘密練習をしていた夏目漱石

2024-06-29 12:16:14 | 日記

出典 『漱石の思ひ出』夏目鏡子述 松岡譲筆記 改造社 昭和13

 

 夏目漱石は、文部省給費留学生として、明治33(1900)年33歳のときから明治35(1902)年までロンドンに滞在し、いろいろな珍しい事物に触れ、その新鮮な体験を新妻鏡子や知人らに伝えている。

 明治35(1902)年3月10日、35歳の漱石は、妻鏡子に、こんな手紙を送った。

「霧は有名なるものにて之(これ)を角切りにして缶詰にして日本へ持帰度位(もちかえりたいぐらい)に候(そうろう=です、という意味) 当地〈=ロンドン〉にて始めて氷すべり〈=スケート〉なるものを見物致候 甚(はなは)だ面白相(おもそろそう)なるが険呑(けんのん=あぶない)故(ゆえ)未(いまだ)だ試(こころ)みず」

 以前、富士山山頂の空気の缶詰が売り出され話題になったが、その発想は、漱石が100年前に考えついていたようだ。ともあれ、漱石はスケートを見て興味を覚え、やってみたくなったが、スッテンコロリン転ぶのが怖く、公費留学の責務を果たすことが優先されたから、安全のため挑戦しなかった。

 と思いきや、事実は異なっていたかもしれない。妻鏡子への手紙の約1か月前、明治35(1902)年2月16日 付の友人への次の手紙により、妻への報告が虚偽であったことが疑われる。

「其後(そのご)は御無沙汰(ごぶさた)をして済みません 不相変(あいかわらず)頑健(がんけん)には候(そうら)へども 近頃の寒気には閉口(へいこう=気がめいること)水道の鉄管が氷つて破裂し 瓦斯(ガス)がつけられぬ始末 厄介(やっかい)に候  氷すべり〈=スケート〉を始めて見て経験を増した位(くらい)の事に候 漸々(ぜんぜん=だんだん)留学期もせまり学問も根つからはかどらず頗る(すこぶる=とても)不景気なり(ふけいき=おもしくない)」

 「氷すべりを見て経験」を、どう解釈すべきだろうか。見たという経験を増したのか、見てから実際に体験したのか、どちらともとれる文章だ。漱石はロンドンで自転車乗りにも初めて挑戦しているから、面白そうなスケートにも挑戦したと想像することに無理はない。漱石は好奇心旺盛だ。もしスケートに挑戦していたとしたら、妻に「未だ試みず」と伝えたのは、上達しなかったせいか、あるいは心配をかけないようにしたのか、いずれかの理由だろう。

《文責 中川 越(手紙文化研究家・コラムニスト 東京新聞連載中 NHKラジオ深夜便・文豪通信・レギュラーとして出演中)》