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テムジン勝利の噂は草原を駆け巡った。 四散した氏族もテムジンの莫地に戻ってきた。 テムジンは彼らから草原の状況を知った。 西方の強力な部族・ナイマン部と父のアンダのトグリル・ケレイト部が覇権を争っている。 タタル・タイチュウト・メルキット等が割拠していて、 草原の部族組織は流動的である事を知った。 指導者として戦いに勝てば、民が集まり 領地が増える事を実感した。 状況は好都合だ。 遊牧戦士として また 指導者として 行動を開始した。 テムジンは父のアンダ・トグリルに同盟を申し仕込んだ。 トグリルはテムジンの豪胆な作戦と戦いの後の処理に満足していた。 同盟を結ぶ利を熟知していた。 さらに テムジンの魅力を知り 古き友の息子に傾斜していった。
テムジンの存在は草原にて一目置かれるようになった。 いまや ケレイト部のカンと呼ばれるに相応しいほど 部下も目に見えて増えていった。 母・ホエルンが敵の幼児を哀れみ育てたボロクルもネルケになっていた。 弟達三名にも所領を与えた。 テムジンの統治能力の非凡さは また 指導者の公平さが 更に磁力を増して 野心的な若き遊牧戦士を糾合していった。 この噂にアンダのジェムカ*幼馴染のアンダ 名門家の嗣子 後年テムジンと袂を分かち、テムジン草原支配の最大の敵・弊害となる 一匹の狼として テムジン陣営を錯乱し 敵陣営の謀略家として立ちはだかる*は ますます テムジンから離れていった。
金朝政府は 彼らの庇護かにあるタタルが横暴と 力をつけ過ぎた と 感じ始めた。 慣例による手段を模索した。 力の拮抗する部族をタタルに向わせるのです。 トグリルに目を付け、使者を送った。 トグリルはテムジンの能力を頼って出陣した。 テムジンは怨念の敵・タタルを撃破し 凱旋した。 1185年頃である。 テムジン25歳前後か 勝利したトグリルは金王朝から“オン・ハーン(王の王)”の冠位を受拝した。 テムジンはその下位の“ジャウト・カリ”を授かった。 しかし テムジンの権力への道程は、この後も激しく揺れ 浮き沈みする。
ある夜半 ジャムカの一氏族がテムジン配下の家畜を秘かに掠奪しようとして 逆に殺害された。 ジャムカは下手人をテムジンに要求、テムジンはそれを拒否した。 ジャムカはタイチュウトと同盟し、3万の兵でテムジン陣営に迫りきた。 テムジンは本家筋に援軍を求め、自軍・キヤト氏族で応戦にたった。 勢力は歴然としていた。 母・ホエルンすら戦場に立った。 ホルエンが率いる第一陣を先陣に以下13の部隊であった。 千人隊長*遊牧人軍団の編成法 10進法で行い 10人隊・100人隊・1000人隊となり 千人隊隊長には指揮権があったようだ 万人隊が師団で将軍職が指揮をとる*がいない陣容だから テムジン陣営多くて5000程度であろう。 ホエルンの第一陣が破れ テムジン陣営は次々と敗退する。 テムジン以下ホルエン、ボルチェ、チラウン、将兵は水なき荒野に脱出した。 圧倒的なジャムカの兵力に抗すべき策はなかった。 敗戦の苦しみを全員が味わった。 この時の敗戦処理がテムジンに更なる磁力を与える。 ジャムカ・タイチュウトは捕虜を必要以上の苛烈な処罰で殺害した。 その数100名弱であったが、以降 人望を失った。 結果 タイチュウトの陣営から テムジン側への逃亡が続き、タイチュウトは自滅していく。 テムジンとジャムカの決別が決定的に成った。 ジャムカはテムジンの盟友 オン・カーンの敵 ナイマンと同盟を結んでいく。 敗れたテムジンが更なる飛躍に結びついた。 この戦いを“十三翼の戦い 1193年と史書は記す。
同じ頃 ケレイト部で再び 内紛が起こり、オン・カーンは実弟 に追放される。 王庭を去ったオン・カーンは草原 西夏・西遼・ウイグル領を彷徨い、身一つでテムジンに救われる。 テムジンは同盟者であり 父のアンダを手厚く優遇し、義父の契りを交わして 再び 1195年 ケレイト王 オン・カーンの地位に復位させる。 また 助力も得る。1196年年 テムジンはケレイトとともにキヤト氏集団(テムジンも所属)の有力者・ジュルキン氏を打ち、キヤト集団を武力統一をはたす。 その頃、草原東部ではタタルが金王朝に背き、離反した。 オン・カーンに金王朝から出撃の依頼の使者が来る。 テムジンは軍勢を東部に向ける。 オン・カーンとテムジンの連合軍は大興安西部でタタルを壊滅的に破り、 タタルは消滅した。 1196年の事である。 その戦場はフルンブイル大草原と呼ばれ、世界一美しい草原と言われている。 (小生 二度 旅したが一望千里 二月はマイナス40度の雪原であったし、秋は枯れ行く草原であった) 1197年 テムジンは軍を発し、メルキットに遠征する。 1199年にはケレイトの援軍として 西方の雄・ナイマンを打つ。 1200年 ケレイトの援軍を得て、モンゴル部内の宿敵タイチュト氏とジャンジラト氏(ジャムカがカン)ろ破り、モンゴル部に基盤を確立する。 しかし 幼年時のアンダ・ジャムカは逃走して東に走る。 1201年 東方の諸部族は 反ケレイト・テムジン同盟を結び、ジャムカを盟主にする。 しかし 東方同盟に加わったコンギラト部族長 愛妻・ボルテの父 から 同盟結成の密報を受け、逆に攻撃を仕掛け 東方を従属させた。 ジャムカは西方に走り、ナイマン王を策動する。 1202年 ナイマン・メルキット・北西のオイラト・東方残党が大同盟して ケレイトに襲い掛かった。 テムジンとオン・カーンは苦戦を強いられるも、小差の勝利を掴む。 テムジンのキヤト氏族とオン・カーンのケレイトが 蒙古草原中央部の覇権を確立したのです。 しかし テムジンはオン・カーンの下位であった。 戦いの後、テムジンは末の弟 テルゲとボルチェ(一番目のネルゲ)をナイマン王国に派遣した。 妻・ボクテは婚礼の持参品 白貂の毛皮*シロテンの毛皮は蒙古草原で二つはないと言われた家宝の品*を献上品として彼らに持たせた。 テルゲはナイマンの王国内の権力動向を探り、ボルチェは戦闘力を探った。 若き戦士も成長していた。 ボルチェを筆頭にクラウン、ボロクル ジュメル*ジャムカに嫌気が差し、テムジンに臣下したタイチュウト氏族 テムジンの愛馬を射止め 戦況を反転させた事あり* ふとした事からテムジンとオン・カーンの嗣子の間に仲違いが起きていた。 1203年の頃 ジャムカはケレイトに亡命していた。 彼は嗣子を煽り、カーンに諌言した。 オン・カーンはその諌言に乗せられ、テムジンの牧地を襲った。 テムジンはオノン河の北部に逃げた。 バルハシ湖畔で体制を立て直し、オノン河沿いに沿って舞い戻り 計略と陽動作戦でケレイト本営を探り出し、本営を急襲 大勝利を得た。 ケレイトは崩壊し、高原中央部はテムジンの手中に落ちた。 またしても ジャムカは西に走った。 テムジンは義父 オン・カーンを手厚く遇し、彼の晩年を全うさせたという。 草原にはナイマン・メルキット大同盟勢力とテムジン勢力の直接対決の風雲が覆っていた。
ナイマン勢力との戦いを記す前に テムジンが蒙古草原の中央部で覇権を確立できた背景を整理しておこう。 前章【4】にて 遊牧民社会を 徹底した実力主義の社会、人命(人材)尊重の社会、非完結の社会 と分析し(イ)項から(リ)項で簡単な説明を試みました。 テムジンの成功には幸運が確かに付きまとっています。 愛妻・ボルテ得たことが最大の幸運だったでしょう。 岳父の信義心は遊牧民の誠心です。 母・ホエルンの行動は遊牧民女性の主張でしょう。 徹底した実力主義の社会が生む・あればこその行動です。 また テムジンの磁力の源泉は人命・人材重視の履行から生まれたものです。 テムジンの孫・クビライが元王朝で王朝の経済を差配したのは胡人・ソグド人(パミール高原西部が故地)です。 テムジンはソグドの交易商人を幕営地に招き交易と情報収集に熱心でした。 *ソグドの交易網はウイグルに保護されて発展しました。 後年 チンギス・カーンが西方への大遠征を成功裏に成しえたのはウイグルの存在が非常に大きい* 熱心さの根幹は非完結の社会です。 非完結の社会であるが故に 草原の民は南下し、また 互いに領土拡大のために戦わざるを得ないのです。 日本や中国・欧州の覇権主義とは背景が全く異なると考えられます。 テムジンはここまで来ると 己が領地の民の為に更に拡大して、民の安全を図らなくては成らないでしょう。
ナイマンへ派遣した弟からの情報で ナイマン王 タヤン・ハンが実兄を殺害して即位した事、それを嫌った異母弟のブイルク*陳 舜臣さんの長編『チンギス・カーンの一族』は彼の娘が主人公の話です*がアルタイ山脈方面で独立し ナイマン部が分裂している事、ブイルク(テムジンが派遣し先)はネストリウス派のキリスト教徒であり、テムジンはブイルクとは共存できると信じていました。 ブイルクがダヤン・ハンを牽制する以上、南攻策 即ち 南に拡大する戦略を常に練っていました。 しかし またもや ジャムカがナイマン王国をテムジン打倒に向わせるのです。 ジャムカがタヤン・カンを策動したのです。
上載の写真右に《チンギス・カーン 皇帝白旗と四駿四狗白旗》があります。 無論 これらは旗ではありません。 モンゴル帝国九白記紋章と呼ぶものです。 チンギス・カーンの莫帳前に常にあったと言います。 四駿四狗とはチンギス・カーンの軍隊組織を敬愛する呼称です。 四駿は親衛隊の指揮官四名、四狗は四名の将軍です。 親衛隊の四駿はネルゲです。 四狗は他氏族の出身者で敵対するうちに テムジンの磁力に引き付けられ・魅せられ 臣下した勇者達です。 紹介しておきましょう。
四頭の駿馬; ムカリ、ボルチェ、チラウン、ボロクル
ムカリ…テムジン所属のキヤト氏族の開祖直系の名門貴族 テムジンが同族を支配した折 首長から貰い受けネルゲとする。 金王朝打倒の最大貢献者クビライの元王朝創建にも献身する。
ボルチェ…馬泥棒事件からのネルゲ テムジン苦難の時代からの貢献者 智謀・テムジン王国内の調和を図る 最高統治者としてテムジン一家を支える
チラウン…テムジンをタイチュウトの獄舎から救ったソルカンシカ*タイチュウト族*の子 チンギス・カーンの遠征に常に従い、内務行政に貢献 大帝国成立後死亡
ボロクル・・・テムジンの大祖父氏族の孤児 ホエルンが育てる 放浪のオン・カーンを助け、戦場では幾たびもテムジンの子息が窮地を助けた義侠の人 大帝国成立後北部の遠征にて戦死
四匹の猛狗; ジュペ、スグタイ、ジュルメ、クビライ
ジュペ・・・タイチュト部の武将 名前はジルゴアダイであった 交戦の折、テムジンに矢を射て戦況を変える。 敗戦で捕獲くされ 死を決するもテムジンからジュペ(鏃・ヤジリ)と呼ぶ と 言明され従属を問われ、臣下に加わる。 大遠征で南部戦線の統括将軍として活躍する
ジュルメ・・・ウリヤンハイ部族 スグタイの兄 ボルチェと伴に早くからテムジンに心頭し 臣下する。 テムジンがナイマン戦で毒矢の重症の折 助ける
スグタイ・・・弟と伴に臣下する。 戦術はテムジンより優れ 自己を誇示せず人望あり、テムジンの孫・バトゥの主参謀として欧州戦線で活躍する
クビライ・・・バルラス氏族 テムジン弱小の時 彼の磁力に打たれ、臣下する。 西アジアペルシャ戦線の総括将軍 後年、テムジンの庶子・コルゲンの王傅
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