◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ ◎
○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○
◇◆ マリー・アントワネットを彩った人々; マリア・テレーズ・シャロット =5/5= ◇◆
シャルル10世時代
1824年、ルイ18世が病死した。 アルトワ伯が国王シャルル10世となり、マリー・テレーズは王太子妃となる。叔父ルイ18世によく仕えたように、彼女はこの叔父(かつ舅)にもよく仕えた。 1825年7月24日、差出人不明のマリー・テレーズ殺害予告文を議会で大臣に見せた。 いまだ彼女は政敵から狙われていた。 だが、彼女を慕い訪問する人々は絶えなかった。 王太子妃の身分となっても45人の使用人しか雇わず、質素と倹約を貫いた。
そしてベリー公の遺児ルイーズとアンリの面倒を見る。 2人は伯母であるマリー・テレーズによくなついた。 フランスに帰国していたルイ・フィリップを相変わらず嫌っていたが、毎年元日にはオルレアン家の子供たちにプレゼントを贈った。 だが、ルイーズとアンリにはかつて自分が母にされたように、多くのおもちゃを見せてから「ありがたみと貧困」の教えを説き、おもちゃを送り返した。 子供たちはこれをよく理解し、不満は口にしなかった。 孫たちの様子はシャルル10世を満足させていた。
7月革命後の再亡命 / イギリス
1830年、7月革命によって、またしてもシャルル10世一家は長い亡命生活を送ることとなった。 パリでの暴動の後、マリー・テレーズはヴィルヌーヴ・レタンの屋敷を売却した。 購入したドゥカズ子爵は、ベリー公暗殺の際に罷免されたドゥカズの兄弟であった。 亡命準備をしたマリー・テレーズは、親友ポーリーヌと泣きながら別れた。 彼女は別れの際に、マリー・アントワネットの遺品の印章をポーリーヌに差し出した。これが2人にとって今生の別れとなった。
シャルル10世一家は8月3日にパリを出発し、ゆっくりとフランスを北上した後、8月16日、シェルブールからイギリスへ渡った。 ワイド島のセントヘレンズへ上陸させられた一家は、ウェリントン公がウィリアム4世の代理となった信書を受け取る。 そこには、私人として到着するならイギリスに避難所を用意する、と記されていた。 イギリスではシャルル10世はポンティユー伯爵、マリー・テレーズはマルヌ伯爵夫人、ベリー公妃はロニー伯爵夫人、アンリはシャンボール伯爵と名乗った。
カトリック教徒のトマス・ウェルド卿は、国王一家にドーセントのラルワース城を貸した。 マリー・テレーズは秘書のシャルレ男爵の画策により、一家を養うための多くの金をロンドンの銀行家ワースから受け取った。 10月、一家はエディンバラのホリールード宮殿に移ったが、ここは一般公開されており居心地が悪く、マリー・テレーズは宮殿の近くに小さな家を借りた。 シャルル10世は老年を孫に囲まれて暮らすのは幸せだと、たびたび口にした。
7月革命後の再亡命 / オーストリアの庇護下
フランス新政府とイギリスの関係が改善されると状況は一変し、シャルル10世はオーストリア皇帝フランツ1世を頼りプラハへ移ることに決定した。 その際、マリー・カロリーヌは同行を拒み、シャルル10世はしぶしぶ「フランスに帰国した際、息子が未成年の場合はベリー公妃を摂政とする」と宣言し、署名した。 その直後、マリー・カロリーヌは姿を消し、ヨーロッパ各地を転々とした後、1832年4月にブルボン家支持者アルマサン公らとともに叛乱を起こし、逮捕された。 拘留中のマリー・カロリーヌが青年弁護士との間の子を妊娠していることとルッケーシ・パッリ伯との秘密結婚が明らかにされ、嫁の不貞に怒ったシャルル10世はマリー・カロリーヌを絶縁し、マリー・テレーズが母親代わりにルイーズとアンリを養育することになった。
プラハではフラドシン城を用意してもらい、シャルル10世らとヴェルサイユの伝統的儀礼を復活させ、生活した。彼女はここで刺繍をして静かに過ごし、その刺繍はオークションに出され、収益は恵まれない者に寄付された。1836年にオーストリアの都合でモラヴィアのキルシュベルク城へ、その後コリツィアのグラッファンベルク城へ転居した。 ここで義父シャルル10世を1836年に、夫アングレーム公を1844年に看取った後、今度はウィーン郊外のフロースドルフ城へ転居した。 ここで彼女は散歩と読書、刺繍と祈りを日課に静かに暮らした。 刺繍はオークションにかけられ、売上は貧しい者たちに寄付された。
そして、マリー・テレーズは1851年10月19日、肺炎のため死亡した。 これにより、ルイ16世とマリー・アントワネットの血筋は途絶えることとなった。 尚、タンプル塔幽閉までは、かわいらしい笑顔のマリー・テレーズの肖像画が残されている。 しかし、その後の過酷な体験を反映して、以後の数少ない肖像画には気難しそうな女性が描かれている。
革命から解放された当初のマリー・テレーズは、その悲痛な体験のためフランス国民からの同情を受けていた。 しかし堅物な性格や、若さをイメージさせる王太子妃としてはかなり高齢だったことから、一部の王党派や聖職者の人気を除いて、民衆からの人気はあまり無かったとも言う。 また、生涯を通して一人の恋人も作らなかったと伝えられる。
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