政治的冒険家= オートバイで散る“異郷の王となった男”=
~ オスマン帝国への叛乱支援 / トーマス・エドワード・ロレンス ~
ロレンス自身は友人のヴィヴィアン・リチャーズに、こんなふうに執筆意図を告げていた
= ぼくが語らなければならない物語 それは、
かつて人間が著作のために与えられたテーマのなかで最もすばらしいテーマなのだ =
もっとも、最初にロレンスを“砂漠の英雄”に仕立てのは、彼の著作『知恵の七柱』ではなかった
この著作が広く刊行される前に、
おっちょこちょいの米人従軍記者ローウェル・トマスが開いたイベントがロレンスを一躍有名にした
トマスが仕掛けたコヴァント・ガーデン王室オペラハウスでの「アラビアの無冠の帝王」という催し物と
その後にトマスが急いで出版した同名の伝記がロレンスを一躍有名にした
「アラビアのロレンス」の“通り名”もこのときに決まり、またたくまに世界を駆け抜けた
これでロレンスはどんなハイソサイティにもフリーパスになれるほどの有名人になったのだが
ロレンス自身はそのフリーパスを自分ではほとんど使わなかった
むしろフィーバーするロレンス像捏造に抗して
自身の手で「アラブの反乱」の経緯と意義を書きあげるため
ずいぶんの時間をかけたいと考えていた
『知恵の七柱』は世界を瞠目させた
E・M・フォースターは「稀にみる傑作」と言い、H・G・ウェルズは「偉大な人間記録」と褒めた
皮肉屋のバーナード・ショーも「ロレンスしか書けない世界史」と絶賛し
イギリスとアラブとトルコのいろいろ政治的な駆け引きのなかで当事者ロレンスを苦しめたウィンストン・チャーチルでさえ、
「この本は英語で書かれた最も偉大な著書の地位を占めた」と礼讚した
『知恵の七柱』は
たしかに 偉大で、人間というものの描き方に他の追随を許さないものがあり、欧米社会にアラブ世界の何たるかを告げたことでも画期的だった
叙述も精細で、濃い
イギリス人、アラブ人、トルコ人の癒しがたい特徴や、それぞれの偏向する思考を含む人物描写も、
まことに巧みに書き分けている
それよりなにより、一人の冒険者の精神と気概と勇気とが、崇高なものとなって突き刺してくる
【松村正剛の千夜千冊】
アラブ反乱が第一次世界大戦に果たした役割は、スエズ運河などの攻撃に加わるはずだったオスマン帝国軍の兵士数万をヒジャーズ鉄道沿線にはりつけ、エジプトからシリアに向けて進撃するイギリス軍に対する反撃の危険が少なくなったことにあった。 これがイギリス軍がアラブ人のオスマン帝国に対する反乱を焚きつけた理由であり、非対称戦争の教科書どおりの好例であった。
イギリスはフサイン=マクマホン協定の中で、オスマン帝国に対する反乱を行えばアラブ人の独立を支援すると合意した。 しかしこの協定について、アラブ側とイギリス側の理解は異なった。 イギリス、フランス、ロシアは1916年のサイクス・ピコ協定でアラブ人の土地も含むオスマン帝国領を三分割する密約を交わしていた。
また1917年にはイギリスはライオネル・ウォルター・ロスチャイルド卿に対しパレスチナでのユダヤ人居住地(ユダヤ人民族郷土)建設の約束(バルフォア宣言)を交わしていた。 戦後にイギリスとフランスが行った中東分割はこれら三つの秘密協定が相互に矛盾しないように行われているが、この秘密外交を知らなかった人々にとっては不可解なものであり 今尚 非難を浴びている。
1917年11月の十月革命でボルシェビキがロシア臨時政府を打倒すると、革命政府は旧ロシア政府が結んだサイクス・ピコ協定を暴露した。 反乱中のアラブは、この秘密外交の存在に反発を強めた。
フサイン=マクマホン協定で純然たるアラブ人の地ではないと書かれたアレッポ=ダマスカス以西にはレバノンやシリアなどのフランス委任統治領が作られ、ダマスカスにいてシリア・アラブ王国の建国を企てたファイサルらはフランスにより追放された。
フサインらハーシム家はアラビア半島西部のヒジャーズ王国の独立を認められたものの1920年代半ばにネジドのスルタン・アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードに攻められヒジャーズを失い(ヒジャーズとネジドはサウード家の支配下でサウジアラビアとして統合される)、フサインの息子のファイサルやアブドゥッラーらはイラク王国やトランスヨルダン王国などイギリス委任統治領に作られた国家の王に納まった。
戦争終結後、ロレンスはファイサル1世の調査団の一員としてパリ講和会議に出席する。 1921年1月からは、植民地省中東局・アラブ問題の顧問として同省大臣のウィンストン・チャーチルの下で働き、1921年3月21日のカイロ会議に出席している。
1922年8月には「ジョン・ヒューム・ロス」という偽名を用いて空軍に二等兵として入隊するが、すぐに正体が露呈し、1923年1月に除隊させられ、 同年2月、今度は「T・E・ショー」の名で陸軍戦車隊に入隊する。
しかし、彼はこの隊を好まず、空軍に復帰させてくれるよう何度も申請し、1925年にこれが受理された。 その後は1935年の除隊までイギリス領インド帝国やイギリス国内で勤務したのです。
『アラビアのロレンス』の死
除隊から二ヶ月後の1935年5月13日、ロレンスはブラフ・シューペリア社製のオートバイを運転中、自転車に乗っていた二人の少年を避けようとして事故を起こして意識不明の重体になり、6日後の5月19日に死去。 享年46歳だった。
墓所はドーセット州モートンの教会に現存する。 この事故がきっかけとなりオートバイ乗車におけるヘルメットの重要性が認識されるようになったのですが・・・・。
ロレンスの死後、オスマン帝国はトルコ民族国家のトルコ共和国となり、エジプト、シリア、イラク、アラビア半島、マグリブを放棄せざるを得なくなった。
これらのトルコ共和国に含まれなかった地域は、西欧諸国の植民地となった後、西欧諸国によって人工的な国境線を決められ独立を果たしたが、4世紀の間続いた「オスマン帝国の平和」は崩れ、現在に至るまで十字軍、モンゴル帝国、ティムールの襲来以来の政治的混乱が続いている。
人物・エピソード
ロレンスは生涯独身を貫いた。 やもめ暮らしで食事の後片づけを省略するために、ピクニック用の紙製の食器を用いていたと言う。
西欧諸国では映画『アラビアのロレンス』で描かれているような「アラブ諸国の独立に尽力した人物(アラブ人にとっての英雄)」として認識されているが、中東における行動は一貫してイギリスの国益のためのものだった(アラブ側を利用していた)とする指摘もあるのですが、時の流れでしょう。
長身がもてはやされるイギリスの上流社会で、背丈が低いこと(165cm)がコンプレックス[3]だったといわれている。
ベトナム戦争当時、圧倒的なアメリカ軍の物量の前に、北ベトナム軍や南ベトナム解放民族戦線では一部、T・E・ロレンスのアラブでのゲリラ戦が参考にされ、その著書「知恵の七柱」が戦策的な良書として再確認された。 更に、今日の中近東・イスラム問題に於いて その重要度は増している。
【 We are the WORLD 】
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【 Sting Eenglishman in New_ York 】
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【 DEATH VALLEY DREAMLAPSE 2 】
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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