Ⅰ フランス革命~ナポレオン
太陽王ルイ亡き後、ベルサイユの華やかな宮廷生活とはうらはらに、
フランスの絶対王政はゆらぎつつあった。
フランスの王政とは、もともと地方有力者(貴族)とのバランスの上になりたっていたのだが、
三銃士やリシュリューの時代、リシュリューがルイ13世の宰相となった1624年以後、
王権の確立と平行して、新教徒の弾圧・植民地政策が進められ、絶対王政がひかれた。
しかし、植民地経営とはこれ、自由主義経済であり、殖産興業もまたしかり。
それゆえ、新興勢力富裕な商人=平民層の台頭が、絶対王政に不満を持つ貴族たちと結びつき
1787年三部会が招集されることとなった。(「ベルサイユのバラ」の世界ですね)
というのも 戦勝による領土(植民地)拡張に成功したルイ14世とはことなり、
ルイ15世は、ポーランド継承戦争・オーストリア継承戦争・イギリスとの7年間に及ぶ植民地争奪戦に負け続け、
海外植民地の多くを失った。
その穴埋めのため、ルイ16世は増税を行い、市民・商人・貴族の憤激を買ったのである。
(王家の財政破綻が、マリー・アントワネットの浪費によるものと言うのは言いすぎ。
戦費の増大と収入の減少が原因)
一方、フランスにはジャンヌダルクや繰り返し起きるパリの市民蜂起のように、
庶民による奮起・武力蜂起が世情を大きく転換させる一面もあり
もたつく、三部会・憲法制定国民議会の駆け引きをひっくり返すかのように
1789年パリ市民によるバスティーユ監獄襲撃により、一気にフランス革命がはじまった。
しかし、革命議会は、あいかわらずの主導権争い(駆け引き)
フランスの周辺国家は主(王)のいない家(国)に侵入しようと戦いをしかけてくる。
それやこれやで、戦勝を上げ続けた砲兵仕官ナポレオンが、当代のジャンヌダルクとして喝采をあび、
1799年ブリュメールのクーデターにより、ナポレオンが統領政府をたて第1統領となった。
諸事万事、政治とはバランス感覚だよ~ん!というのがフランスの伝統的発想なのか
フランスにとっての一番の強敵、イギリスとまともに戦っては勝てないから、
イギリスのインド支配に打撃を与えるためにエジプトに侵攻しようなどと、
日本人である私の目が点になるような理屈で戦をおこなったのが、総裁政府(最初の革命政府)。
この戦で名をあげ(ロゼッタ石で凱旋) 第1統領となったナポレオンは、
1800年にオーストリア(アントワネットの祖国)を破り、フランス防衛に成功
1802年仇敵イギリスとアミアンの和約を結ぶ。
(ちなみに、ジャンヌダルクはイギリスからフランス領土を解放した立役者ですね。)
こうして祖国の英雄、救世主となったナポレオンは1804年皇帝となり、
逆に支持層を少しづつ失っていくことになる。
(帝政と自由民の支持があいいれないのは、シーザーの時代と同じ)
この、フランスとオーストリアに囲まれていたのが、ネーデルランド
Ⅱ ネーデルランドとは?
・ネーデルランド(Nederland):現代のオランダ・ベルギー地方
中世はブルゴーニュ公領
15世紀末はハプスブルク家(オーストリア)の領地
海陸交通の要地として商工業が栄え、アムステルダム・アントワープが発展
1581年 北部の7州が新教を奉じてスペイン(フェリペ2世:ポルトガルを併合した王様)の支配に反抗し、オランダとして独立
・ネーデルランド連邦共和国(1581~1795)
1581年のオランダの独立により成立。
このとき、イギリスとフランスはスペインに対抗するため、オランダを支持。
1600年 日本とファーストコンタクト(詳しくはリル編で)
1609年 スペインと休戦・日本の平戸にオランダ商館を設ける。
1641年 日本は鎖国を徹底し、取引を清とオランダに限る。
(これは、新興国オランダにとっては多大な恩恵をもたらしたと思われる)
1648年 ウェスファリア条約で独立が承認される。
1672年~78年 ルイ14世がオランダに攻め込む。イギリス・スペイン・ドイツがオランダと同盟
ただし、1652年~74年のあいだに、3回、オランダはイギリスと戦い、制海権が弱体化
Ⅲ フェートン号事件の舞台裏
1713年 オーストリアは、スペインから今のベルギーにあたる領土(ネーデルランドの南部=独立できなかった地域)を勝ち取る
(スペイン領ネーデルランドはオーストリア領ネーデルランドとなる)
1794年 フランス総裁政府がオーストリア領ネーデルランドに侵攻し、バタヴィア共和国とする。
1806年 ナポレオンはバタヴァイア共和国を廃し、オランダ王国とする。
国王は、ナポレオンの弟ルイ。
1808年 フェートン号事件
1814年 ナポレオンが捕らえられ、ヨーロッパ再編に向けた各国の協議の場であるウィーン会議で、
ネーデルランドの北部・南部(ベルギー)あわせてネーデルランド連合王国となる。
*1794年~1814年のネーデルランド連邦共和国の動きについては、
私が調べた、数研出版の改訂新版世界史辞典・4訂増補日本史辞典では具体的記述が見当たりませんでしたが、
南部と同じ運命をたどっていたのでしょう。
鎖国下の日本(江戸幕府)としては、建前上、オランダ国が存続しているものとして
オランダ商館を存続させていたらしいので、
高校の副教材にあまり、あからさまなことが、書けなかったのかな???
このあたりの、裏事情については、ウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%95 にいろいろ書かれていました。(私にとっては、初めての話ばかりでへーと思いながら読みました。)
Ⅳ ヘンドリック・ドゥーフ(オランダ商館長)と松平康英(まつだいらやすふさ :長崎奉行)
そもそも、フェートン号事件とは、オランダ商館員の不注意が原因!といえなくもない。
なにしろ、自国の旗を掲げてたとはいえ、
敵国(オランダ商館の明け渡しを要求していたイギリス)の船にボートで漕ぎより、さらわれたのだから・・・
本国政府が消滅し、実質的に亡命政権化していたオランダ商館員としての危機管理がまるでできていない!!!
そして、オランダ商館とイギリス船との間で決着をつけることもできず、
それまで10年以上にもわたって、おんぶにだっこ状態で世話になっていた、
長崎奉行所と佐賀藩に後始末をさせ、しかも奉行や藩の立場も考えず
己の利益を優先して人の面子を丸つぶし。
結局、松平康英(やすふさ)は、切腹。
佐賀藩も責を負う。
しかも、幕府(日本)とオランダ(商館)との関係に配慮したのか、諸般の事情によるのか
康英の死は病死と届けられ、さぞ、無念であったろうと思う。
1817年に帰国できたヘンドリックは、復活なったネーデルランド連邦王国より
祖国の名誉を守ったと「オランダ獅子士勲章」をもらったそうだが
そのとき彼は、自分が殺したも同然の松平康英のことを少しでも考えたのだろうか?
また オランダ商館存続に協力した長崎の人々(町の人も奉行所も佐賀藩も)の温情や
日本国(幕府)に対して、ちゃんと感謝し謝意をあらわしたのだろうか???
それとも 事なかれ主義の日本をうまくしてやったりとほくそえんでいたのだろうか??
だいたい、ドゥーフがきちんとヨーロッパの状況を幕府に伝えていれば、
幕府も、それまでに出島周辺に警備の船を用意し、入港してくる船のチェックをし
フェートン号事件そのものが起きなかったのではないだろうか?
(黒船以後の幕府の迅速な対応振りからしても、
佐賀藩や長崎奉行所が正当な理由なく幕府に警備船の配備の伺いをたてることができない体制であったことと考えあわせても)
相手に対する思いやり・気遣いと己の職務の狭間で、人としてなすべきことをした上で
職責をとって切腹(今ならさしずめ辞職)した松平康英は 本当に江戸時代の日本人らしいと思うし、
でも外国人や現代っ子にはわかりづらい生き方かもしれないとも思う。
フェートン号事件については、日本と他国との外交を考える上でヒントとなりそうなことがらが
いろいろ含まれているような気がするので、これからも根気よく事実をていねいに拾っていこうと思いました。
(ここまでの長文を読んでくださり ありがとうございました。)
画像:ヘンドリック・ドゥーフ(1777~1835)
フェートン号事件のときのオランダ商館長 (ウィキペディアより)
太陽王ルイ亡き後、ベルサイユの華やかな宮廷生活とはうらはらに、
フランスの絶対王政はゆらぎつつあった。
フランスの王政とは、もともと地方有力者(貴族)とのバランスの上になりたっていたのだが、
三銃士やリシュリューの時代、リシュリューがルイ13世の宰相となった1624年以後、
王権の確立と平行して、新教徒の弾圧・植民地政策が進められ、絶対王政がひかれた。
しかし、植民地経営とはこれ、自由主義経済であり、殖産興業もまたしかり。
それゆえ、新興勢力富裕な商人=平民層の台頭が、絶対王政に不満を持つ貴族たちと結びつき
1787年三部会が招集されることとなった。(「ベルサイユのバラ」の世界ですね)
というのも 戦勝による領土(植民地)拡張に成功したルイ14世とはことなり、
ルイ15世は、ポーランド継承戦争・オーストリア継承戦争・イギリスとの7年間に及ぶ植民地争奪戦に負け続け、
海外植民地の多くを失った。
その穴埋めのため、ルイ16世は増税を行い、市民・商人・貴族の憤激を買ったのである。
(王家の財政破綻が、マリー・アントワネットの浪費によるものと言うのは言いすぎ。
戦費の増大と収入の減少が原因)
一方、フランスにはジャンヌダルクや繰り返し起きるパリの市民蜂起のように、
庶民による奮起・武力蜂起が世情を大きく転換させる一面もあり
もたつく、三部会・憲法制定国民議会の駆け引きをひっくり返すかのように
1789年パリ市民によるバスティーユ監獄襲撃により、一気にフランス革命がはじまった。
しかし、革命議会は、あいかわらずの主導権争い(駆け引き)
フランスの周辺国家は主(王)のいない家(国)に侵入しようと戦いをしかけてくる。
それやこれやで、戦勝を上げ続けた砲兵仕官ナポレオンが、当代のジャンヌダルクとして喝采をあび、
1799年ブリュメールのクーデターにより、ナポレオンが統領政府をたて第1統領となった。
諸事万事、政治とはバランス感覚だよ~ん!というのがフランスの伝統的発想なのか
フランスにとっての一番の強敵、イギリスとまともに戦っては勝てないから、
イギリスのインド支配に打撃を与えるためにエジプトに侵攻しようなどと、
日本人である私の目が点になるような理屈で戦をおこなったのが、総裁政府(最初の革命政府)。
この戦で名をあげ(ロゼッタ石で凱旋) 第1統領となったナポレオンは、
1800年にオーストリア(アントワネットの祖国)を破り、フランス防衛に成功
1802年仇敵イギリスとアミアンの和約を結ぶ。
(ちなみに、ジャンヌダルクはイギリスからフランス領土を解放した立役者ですね。)
こうして祖国の英雄、救世主となったナポレオンは1804年皇帝となり、
逆に支持層を少しづつ失っていくことになる。
(帝政と自由民の支持があいいれないのは、シーザーの時代と同じ)
この、フランスとオーストリアに囲まれていたのが、ネーデルランド
Ⅱ ネーデルランドとは?
・ネーデルランド(Nederland):現代のオランダ・ベルギー地方
中世はブルゴーニュ公領
15世紀末はハプスブルク家(オーストリア)の領地
海陸交通の要地として商工業が栄え、アムステルダム・アントワープが発展
1581年 北部の7州が新教を奉じてスペイン(フェリペ2世:ポルトガルを併合した王様)の支配に反抗し、オランダとして独立
・ネーデルランド連邦共和国(1581~1795)
1581年のオランダの独立により成立。
このとき、イギリスとフランスはスペインに対抗するため、オランダを支持。
1600年 日本とファーストコンタクト(詳しくはリル編で)
1609年 スペインと休戦・日本の平戸にオランダ商館を設ける。
1641年 日本は鎖国を徹底し、取引を清とオランダに限る。
(これは、新興国オランダにとっては多大な恩恵をもたらしたと思われる)
1648年 ウェスファリア条約で独立が承認される。
1672年~78年 ルイ14世がオランダに攻め込む。イギリス・スペイン・ドイツがオランダと同盟
ただし、1652年~74年のあいだに、3回、オランダはイギリスと戦い、制海権が弱体化
Ⅲ フェートン号事件の舞台裏
1713年 オーストリアは、スペインから今のベルギーにあたる領土(ネーデルランドの南部=独立できなかった地域)を勝ち取る
(スペイン領ネーデルランドはオーストリア領ネーデルランドとなる)
1794年 フランス総裁政府がオーストリア領ネーデルランドに侵攻し、バタヴィア共和国とする。
1806年 ナポレオンはバタヴァイア共和国を廃し、オランダ王国とする。
国王は、ナポレオンの弟ルイ。
1808年 フェートン号事件
1814年 ナポレオンが捕らえられ、ヨーロッパ再編に向けた各国の協議の場であるウィーン会議で、
ネーデルランドの北部・南部(ベルギー)あわせてネーデルランド連合王国となる。
*1794年~1814年のネーデルランド連邦共和国の動きについては、
私が調べた、数研出版の改訂新版世界史辞典・4訂増補日本史辞典では具体的記述が見当たりませんでしたが、
南部と同じ運命をたどっていたのでしょう。
鎖国下の日本(江戸幕府)としては、建前上、オランダ国が存続しているものとして
オランダ商館を存続させていたらしいので、
高校の副教材にあまり、あからさまなことが、書けなかったのかな???
このあたりの、裏事情については、ウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%95 にいろいろ書かれていました。(私にとっては、初めての話ばかりでへーと思いながら読みました。)
Ⅳ ヘンドリック・ドゥーフ(オランダ商館長)と松平康英(まつだいらやすふさ :長崎奉行)
そもそも、フェートン号事件とは、オランダ商館員の不注意が原因!といえなくもない。
なにしろ、自国の旗を掲げてたとはいえ、
敵国(オランダ商館の明け渡しを要求していたイギリス)の船にボートで漕ぎより、さらわれたのだから・・・
本国政府が消滅し、実質的に亡命政権化していたオランダ商館員としての危機管理がまるでできていない!!!
そして、オランダ商館とイギリス船との間で決着をつけることもできず、
それまで10年以上にもわたって、おんぶにだっこ状態で世話になっていた、
長崎奉行所と佐賀藩に後始末をさせ、しかも奉行や藩の立場も考えず
己の利益を優先して人の面子を丸つぶし。
結局、松平康英(やすふさ)は、切腹。
佐賀藩も責を負う。
しかも、幕府(日本)とオランダ(商館)との関係に配慮したのか、諸般の事情によるのか
康英の死は病死と届けられ、さぞ、無念であったろうと思う。
1817年に帰国できたヘンドリックは、復活なったネーデルランド連邦王国より
祖国の名誉を守ったと「オランダ獅子士勲章」をもらったそうだが
そのとき彼は、自分が殺したも同然の松平康英のことを少しでも考えたのだろうか?
また オランダ商館存続に協力した長崎の人々(町の人も奉行所も佐賀藩も)の温情や
日本国(幕府)に対して、ちゃんと感謝し謝意をあらわしたのだろうか???
それとも 事なかれ主義の日本をうまくしてやったりとほくそえんでいたのだろうか??
だいたい、ドゥーフがきちんとヨーロッパの状況を幕府に伝えていれば、
幕府も、それまでに出島周辺に警備の船を用意し、入港してくる船のチェックをし
フェートン号事件そのものが起きなかったのではないだろうか?
(黒船以後の幕府の迅速な対応振りからしても、
佐賀藩や長崎奉行所が正当な理由なく幕府に警備船の配備の伺いをたてることができない体制であったことと考えあわせても)
相手に対する思いやり・気遣いと己の職務の狭間で、人としてなすべきことをした上で
職責をとって切腹(今ならさしずめ辞職)した松平康英は 本当に江戸時代の日本人らしいと思うし、
でも外国人や現代っ子にはわかりづらい生き方かもしれないとも思う。
フェートン号事件については、日本と他国との外交を考える上でヒントとなりそうなことがらが
いろいろ含まれているような気がするので、これからも根気よく事実をていねいに拾っていこうと思いました。
(ここまでの長文を読んでくださり ありがとうございました。)
画像:ヘンドリック・ドゥーフ(1777~1835)
フェートン号事件のときのオランダ商館長 (ウィキペディアより)