拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

【6】 明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 

2021年07月30日 | 來々軒
※「來々軒」の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。
※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです。



5.明治の味を紡ぐ店
 
 今まで書いてきたように、淺草來々軒のスープは、大正7・8年ごろ一度大幅な“改良”をされていたのではなかろうか。そうでも考えない限り、今まで書いてきたことへの説明が難しい。特に丸デブの存在自体、あるいは丸デブのスープの味の説明ができないのである。

 明治末期、淺草新畑町に開業した來々軒。支那蕎麦スープは、大正7年ごろを境におそらく大きく変わった。
 
 当初は、淺草來々軒のスープはあくまで日本蕎麦の「つゆ」を意識したものだった。そしてそれは大正6年まで淺草來々軒に在籍していた神谷房治氏の手により岐阜「丸デブ」に引き継がれて今に至る。さらに言えば丸デブの現在の店主が語るように「創業以来、何一つ味を変えていない」と。


丸デブ(岐阜市内)外観と中華そば。2021年6月撮影

 そして、おそらく1918(大正7)年前後に今までの、蕎麦つゆに似ていたスープをガラリと変えた。豚(おそらくは豚足中心)メインの、脂っぽいスープは、今まで日本人が食べたことのない、「本物の支那蕎麦」の味と感じさせるものだった。けれどそれは、穴川の進来軒のスープを飲んでみれば分かるように現代であれば「ちょっと豚の主張が強いな」程度に過ぎないもの。当時は豚出汁のスープなぞ他所では味わえないものであったから、淺草來々軒の支那蕎麦のスープは、動物系の出汁が突出して感じたことであろう。

 もちろん、これはボクのあくまで想像であるから、声高に「これが絶対正しい」などと言うつもりなぞさらさらない。けれど、もしかすると正しいかも知れない。

 淺草來々軒誕生からもう百年以上。内神田に移って店を閉じてからだって45年も経過したのである。もう、だれも、だれ一人として真実を知るものはいない。謎は謎のまま置いておいて、さまざま想像して、想いを巡らすのも、いいものだと思う。

 前章ほどではないが、今回の分量はそれでも400字詰め原稿用紙110枚超に及ぶ。体裁を整えれば130枚から140枚ほど、といったところか。前章と併せれば費やした時間はさて、いかほどだろうか。

 冒頭、ボクはがんサバイバーであることを書いた。2021年6月現在、大腸から肺に転移したがん細胞は、今のところCTなどでは見つかっていない(注・続きがある)。しかし、腫瘍マーカーの値は肺の手術前とさほど変わらず、ちょっと高いまま。おそらくは、CTにも映らない小さながん細胞がたくさんあるのだろう。ボクの免疫力が高ければ、がん細胞は死滅する。けれど逆であれば、いずれまたどこかの場所で現れ、正常細胞を破壊していく。あと何年、この世にいられるのだろうか。だからこそ、こうした文章を残して置きたいと思うのである。

 研究会には心からの敬意を表し、大崎裕史氏に改めて感謝申し上げ、ボクの、長かった淺草來々軒の物語を締めくくろう。

 皆様、ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

 また、いつか、どこかで。



※これを書いてUPしたあとの、2021年7月下旬、ボクは先に受けた血液検査の結果、「腫瘍マーカー(CEA。大腸がんなどがあると値が高く出る)」の値が4月に受けた検査結果より8倍の数値を示している、それは強くがんが疑われる数値であり、おそらく再発・再転移だろうと主治医から告知された。8月中旬からまた数種の検査を受け、9月初旬にはどこの部位にあるか分かる。三度目の告知であるから、諦めはしないが、覚悟を決めている。またどこかで報告することがあるかも知れないが、これが最後の原稿になるかも知れない。

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 ・・・ほう、便利になったもんだ。高山本線が全線開通してから僅か二か月後に快速列車が走るんだものな。岐阜まで行って、そこからは東海道線で東京でも岡山でも、いやいや山陽本線の下関までも行けるんだから。俺は今日、これから、ここ富山から岐阜まで行ってな、あの店で中華そばを食うんだ。なんでもアノ店は、東京の有名な支那そば屋で修業した主人が開いたそうだ。そうそう、淺草の來々軒っていう店で修業したんだってな。
 東京か・・・懐かしいなあ。俺が東京で働いていたのは、支那そば屋ではないけど、北京料理を出していたからな、麺料理だってあった店さ。芝浦、だったんだよな、店の場所は。東京って言っても広いけどな、淺草は東京一の大繁華街だからな、俺だって何度か行ったんだ。もちろん、來々軒の支那そばも喰ったが、正直、來々軒より五十番とか、淺草大勝軒のほうが客は入っていたよな。
 俺はもうすぐな、高山に移ってさ、割烹で働く予定だけど、夜になると芸妓が腹を空かせて困っているそうって聞いているんだ。その娘(こ)たちのためにさ、そのうち中華そばの屋台を引こうかな、なんて思ってるんだ。その参考にしようという訳さ。それには大正末期まで大繁盛した淺草來々軒で修業したオヤジの店で喰うのがいいかなって思ってるんだ。
 ・・・おお。来た来た。この汽車だ。まずは高山まで行って、それから快速列車に乗り換えて岐阜駅に行くんだ。駅弁も買ったしな。さあ、出発と行こうじゃないか・・・

 ・・・2.26事件が勃発し世間は揺れ、安倍定事件で人々はざわつき、ベルリン五輪の「前畑ガンバレ」実況に皆ラヂヲにかじりついたこの時は、1936(昭和11)年、である。こう呟いた男の名は、坂口 某。数年のち、飛騨高山で開いた中華そば屋を大繁盛させた男である。

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 ・・・坂口 某 が、富山駅でつぶやいた頃から遡ること20年弱。
 
 そう、時は1917(大正6)年である。場所は、のちに日本の表玄関というべき駅に成長する東京駅。ただし、この時点ではまだ開業して2年しか経っていないのである。

 「旦那様、どうぞお元気で。お店の更なるご繁盛、心から祈っております」「おう。お前も人の店の心配なんぞするより、自分のことを心配せい。くれぐれも身体だけは気を付けろ。支那蕎麦の店をやるのには、身体もキツイからな」。

 ・・・この日、淺草來々軒の店主・尾崎貫一は、従業員であった神谷房治を見送りのために東京駅に来ていた。神谷は数年に渡る淺草來々軒の修業を終え、故郷の岐阜に帰るのである。
 
 「ありがとうございます。最初は屋台を引きますが、きっと短い数年で店を構えます。旦那様から教わった來々軒の味、必ず守っていきます」「おう、それはありがたいことだ。そうそう、屋号はな、客の皆が『丸デブ』ってお前さんのことを呼んでいたから、それにしたらどうだ」「ハハハ。それはないでしょう。でも考えておきます」「達者でな」「旦那様も」。

 尾崎は店の者に作らせたシウマイを取り出し、神谷に渡す。「いくら特別急行列車と言え、岐阜までは10時間以上の長旅だ。汽車の中では腹も減るだろう。これでも喰えや。お前の好物、シウマイだ」「ありがとうございます。來々軒のシウマイは絶品ですもんね」。

 ポオーッツ! 東海道線・東京駅発下関行の特別急行列車の汽笛が響き渡り、車輪が鉄路の上をゆるりと走りだした。神谷は窓から身を乗り出し、ちぎれるばかりに手を振った。もちろん貫一も、である。ただ、貫一の頭の中の半分は、そこそこ繁昌している自分の店、つまりは淺草來々軒をどうやって常に客で満杯にするか、で占められていたのだった・・・

 ・・・神谷房治を東京駅で見送った尾崎貫一は、やがて自身の店、淺草來々軒の支那蕎麦のスープの改良を手掛けた。今までのスープは、日本人の味覚に合うよう、あくまで蕎麦出汁の延長線にあった。しかしそれでは、横濱の南京町の支那蕎麦より食べたときの印象が薄い。ならば、と貫一が以前から素材にと秘かに考えていたものがある。

 きっと、これだ! これを使えば「ホンモノの支那蕎麦と思ってもらえる」と。

 そう、それは豚、である。元々、中国料理では豚肉が多く使われているのだが、貫一が特に注目したのは、中国人には一般的な食の部位であるもの、あまり日本人は食べない足の部分、つまり豚足であった。そして豚骨もだ。これを出汁に使ってはどうか。少々脂っこくなるかもしれないが、きっと強い印象を客に残してくれるだろう。それに豚足や豚骨は仕入れ値も安いのである。

 試行錯誤の末、大正7年の初めにはこの豚足を使ったスープが完成した。そしてそのスープを使った淺草來々軒の支那蕎麦は、一部の客から臭い、脂がキツイなどの声も上がったが、多くの客は「これが本格的な支那蕎麦だ」と言い、高い評判を取ったのである。ある随筆家の目(舌?)にもとまり、本にも紹介されるようになった(『三府及近郊名所名物案内』)。すぐに連日、客で押すな押すなの大盛況。客が客を呼ぶとはこのことだ。もちろん、宣伝することも怠らなかった。

 一方、岐阜に戻った神谷房治は最初のうちは屋台を引いていたが、商売は順調で、間もなく岐阜市内に店を構えたのである。屋号は「丸デブ」。神谷房治は丸々と太っていて、淺草來々軒の勤務時代から「丸デブ」という渾名がついていたのだ。

 競合店が多かった東京と違い、岐阜ではまだ支那蕎麦は一般的ではなかったこともあり、蕎麦つゆの出汁に似た材料で取ったスープはたちまち噂となり、丸デブは人気店となったのである。もちろん、そのスープの味は、明治末期から大正7年頃までに淺草來々軒が客に提供していた支那蕎麦の味スープの味、そのものであった

現在の高山本線を走る特急・ワイドヴューひだ号。
2021年7月撮影

 そしてそのスープと、麺の食感は、開通して間もない高山本線を経由して、とりわけ岐阜~高山間を3時間で結んだ快速列車に坂口時宗が何度か乗り込んで丸デブに通い、飛騨高山に伝わった。そう、それこそが今日の高山ラーメンの礎となったのである。

 支那そばという、新しいジャンルの料理を東京に広めた立役者・淺草來々軒であるが、三代目尾崎一郎の出征に伴い一旦店を閉じた。終戦後、一郎が東京に戻った時、浅草や日本橋一帯は焦土と化していた。自分の家が、店が、一体何処にあったのかさえ判別できない状況であった。そしてようやく見つけた淺草の店のあったあたりは、まったく見知らぬ人たちが住み着いていたのだった。争っても無駄だった。家や店は跡形もなく焼け、土地だって誰のものなのか分からなくなっていたのだ。とにかく浅草区や下谷区は、区域の9割が燃えてしまったのだ。空襲によって10万人が焼け死に、焼け出された人間も1万や2万ではない。100万の単位であったのである。やむなく一郎は千葉の幕張に一家で移り住むことにした。それでも、中華そば店復活を何とか果たしたかった一郎は、昭和29年、東京駅八重洲口にて店を再開させた。

 『もはや戦後ではない』--経済企画庁は経済白書でこう書いたのは1956(昭和31)年のことである。一郎が店を再開させた八重洲は、いち早く復興が進み、日本経済成長のシンボルのようなところになっていた。次々とビルが建ち、サラリーマンが朝早くから夜遅くまで働く街で、八重洲來々軒はサラリーマンたちに重宝される店となった。雀荘にだって1日何十回も出前した。人が足らず、幕張の自宅の隣に住んでいた宮葉進に声を掛け、店を手伝ってもらうこうとになった。

 時は移り1975(昭和40)年。順風満帆だった一郎の八重洲の店も建て替えが必要になり、内神田に移ることになる。その店も繁盛したのだが、還暦を過ぎた頃、一郎は決断した。息子は二人いたが、店を継ぐことはなかった。幕張から通うことも辛くなり、そろそろ限界か、と。

 内神田、來々軒、閉店。

1976(昭和51)年のことである。一郎61歳。淺草新畑町で産声を上げた來々軒の、75年にわたる生涯の幕引きであった。

 引退後、一郎は八重洲來々軒で働いて、のち進来軒という店を開業した宮葉進の店に通っていたという。

2021年夏


進来軒外観とワンタンメン(千葉・穴川。2021年5月撮影)



【5】明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 

2021年07月30日 | 來々軒
※「來々軒」の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。
※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです。



【Ⅳ たちばな家 檜原村】
 この店は大変行き辛い場所にある。東京には「村」がいくつかあるが、檜原村を除けばあとは島嶼である。つまり、東京の本州では此処だけが「村」である。電車で行くと、JR武蔵五日市駅南口からバスで約20分、秋川渓谷というか、渓流の真上にある店である。車で行かないと正直大変である。
ボクは若い頃、仕事でこの辺りを車でしょっちゅう通ったので、土地勘もあるし一度食べたことがあった。また、2018年2月にも食べに行った。
 二度目のとき、すなわち2018年の冬に訪れ食べたとき、ボクはRDBにこう書いている(抜粋)。

 『「手つかずの東京ラーメン」
 この一杯を一言で表現するならそういうこと。とても懐かしい。これこそ、正真正銘の「昔懐かしい、東京あっさり醤油ラーメン」だ。それもそのはず。この店は「我が国初のラーメン専門店」と言われる浅草「来々軒」の流れを汲む店だから。
 (スープは)鶏、豚骨などの出汁感はさほどではないが、とても優しく懐かしい。昭和のラーメンをリアルに食べていた人なら、その感じは分かるだろう。だから、平成生まれの人にはちょっと物足りないかも知れない。麺は自家製。いわゆる中華麺などではない。しっかりした、柔らかい麺。
いやあ、これはイイ。凄くイイ。檜原は東京で、本州唯一の「村」であり、都心からも結構離れているが、東京ラーメンはしっかり受け継がれているんだな。
 さて、この店、冒頭に書いたように、日本最初のラーメン「専門店」と言われる来々軒の系譜。「日本初のラーメン専門店」には異論もあるが(後略)この店、創業は昭和二十一年。公式サイトを読むと(以下略)』。

 以下略、のあと、つまり『公式サイトを読むと』の後に続く文章だが、今回は詳しく書かずにおく。実は、何時の頃からか、この店の公式サイトは閉じられてしまっているのだ。何らかの意図があったかどうかも含めて、理由は分からない。
 ボクはサイトに掲載されていた文言を記録しているので、全文を読みたい方はお手数だが、ネットで探していただきたい。

 いずれにせよ、この店が淺草來々軒と関係があったか否か、もはや真偽のほどはまったく分からない。これまた謎めいた話なのである。
 
 ただ、「こういことがあったのかも知れない」、という想像は出来る。先に書いたが、ヒントは人形町大勝軒四代目のインタヴューと、郡山のトクちゃんらーめんの公式サイトに記述がある。そして、次項に記す太平洋戦争終結直後の東京の状況を思えば、何があっても不思議ではなく、現代なら眉をひそめる話であっても、当時はそれが日常茶飯、常態化していて、仮にトクちゃんらーめん公式サイトなどの記述が真実だったとして、乗っ取ったとされる店が一概に責めを負うようなことではなかったのではないか、とも思うのである。
 
 追記しておく。トクちゃんらーめんの記述だが、店主の小島氏は一体だれから聞いたのだろうか? 関係性からすれば千葉の進来軒の店主・宮葉氏だろう。宮葉氏はたぶん、淺草來々軒三代目の尾崎一郎氏から聞いた?
 
 なんにせよ、もう75年以上も前の話である。もはや真実は、だれの口からも語られることはない。


たちばな家と「らぁめん」。2018年2月撮影


【Ⅳ-2 東京大空襲における東京東部の被害】
 ここで人形町大勝軒四代目の話を補強しておこう。それには、1945(昭和20)年3月10日と、その前後の、いわゆる東京大空襲に触れなければならない。そして以下の事実があったから、終戦直後の大混乱期には今なら想像もできないことが起きたとしてもまったく不思議ではないと思えるのだ。

 それどころか、トクちゃんらーめんの公式サイトでいう“不法占拠”とか、日本橋人形町四代目が話す“乗っ取り”とかいう言葉はむしろ適当ではないほどに、それらが常態化して起きていたであろうことを、容易に想像させるのである。

 その前に尾崎一郎氏の一家について。
 先に紹介した『トーキョーノスタルジックラーメン』の中で、千葉の進来軒の宮葉店主にインタビューで、宮葉氏はこう話しておいでだ。

「三代目の尾崎一郎さんの家が戦争で(注・宮葉氏の住む幕張の)隣に越して来て仲良くさせて頂いた」「マスター(注・尾崎一郎氏)も歳を取られたのに毎日(注・八重洲や内神田の店に)毎日幕張から通ってましたから」。

 つまり、終戦後、尾崎一家は浅草を離れ幕張に移住、以後、おそらく晩年までそこに住み続けた。もう浅草には住む場所が無くなっていたと考えるべきだ。

 次に、太平洋戦争時の浅草について。総務省公式サイトの『台東区における戦災の状況(東京都)』[66]によれば、
「浅草区及び下谷区[67]は昭和15(1940)年当時、下谷区と浅草区に分かれていたこの地域は、101,273世帯、460,254人の人が住んでいる地域であったが、昭和20(1945)年の6月には僅かその1割5分にしかあたらない17,144世帯、69,932人になった。このことからも分かるように、東京の中でも戦争の被害を最も多く受けた地区の一つであった」。

 そして、昭和20(1945)年3月10日の、いわゆる東京大空襲では
『現在の台東・墨田・江東区のいわゆる下町地区は、米軍の爆撃機B29による空襲を受け、死者およそ10万人、負傷者4万人、罹災者100万人という未曾有(みぞう)の大被害を被った』。『夜間に住宅の密集地を目標にして、約1700トンもの焼夷弾を投下し、根こそぎ焼き尽くすというものであった』。『当時浅草区は、旧35区内でもっとも人口密度が高かったが、この日の空襲は、この浅草区全域と下谷区の東側半分、本所区・日本橋区の全域、神田区の大部、深川区の北側半分を攻撃目標としたものであったと言われている』。
 
 結果として、浅草区は、なんと区域の89.4%が焼失した。一体、この当時の浅草の状況はどれほど悲惨なものだったろうか。

 一方、日本橋界隈はどうであったか。公益財団法人[68]政治経済研究所付属博物館「東京大空襲・戦災資料センター」の『東京大空襲とは』[69]によれば、アメリカ軍は住宅が密集し人口密度が高い東京の市街地を「焼夷地区1号」としていた。その地区は具体的には、深川区北部・本所区・浅草区・日本橋区であった。昭和20年3月10日の東京大空襲では、これらの地区を集中的に爆撃し、先に書いた浅草区・下谷区のほか『本所区、深川区、城東区の全域、神田区、日本橋区の大部分、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など、下町の大部分を焼き尽くし』、罹災家屋は約27万戸、罹災者約100万人、死者約9万5千人を数えた凄惨なものであった。この大空襲を中心とした同年3月から5月にかけての東京の空襲で死者は約9万8千人、そのうち身元が判明し個別に埋葬できたのは僅か8千人であったという。

 つまり、浅草区や下谷区だけでなく、日本橋区もその周辺も焼き尽くされ、10万に上る死者のほとんどが身元すら分からないという極めて悲惨な状況であったわけである。

 となれば、人形町大勝軒四代目店主の話は現実味を増し、「トクちゃんらーめん」の公式サイトの一文は真実であっても何ら不思議なことはない。ただ、それらが真実だったとしても、「たちばな家」のラーメン(スープ)は、尾崎一郎氏の手によるものが伝わったということではないようである。
 
 しかしいずれにせよ、謎めいた淺草來々軒の物語の真実は、もはやだれの口からも語られることはない。

【Ⅴ 大貫 本店 尼崎】
 淺草來々軒の謎めいた物語。そして明治の味を紡ぐ店があるとしたら・・・その答えを導き出すための、ボクにとっての最後のピース。それがこの店だ。結論から書けば、最後のピースは100%嵌まらないと思っていたし、行って食べて、ああやっぱり嵌まらないと確信した。嵌まらないピースであることを確かめたのである。


尼崎「大貫」と中華そば。看板には『中華料理』とある。2021年6月撮影

 まず、この店の公式サイト[70]から、歴史を引用してみよう。

 '日本初の中華そば屋『来々軒』が浅草で一大ブームを巻き起こした2年後、「中華そば」の味に感激した仙台出身の一人の若者が神戸にやって来ました。名前は千坂長治(ちさかちょうじ/1889~1944)浅草『来々軒』の味が忘れられない長治は、大正元年(1912)神戸外国人居留地初の中華料理店・『杏香楼』[71]から中国人シェフの周氏を招きます。そして当時の居留地に於いて日本人初の中華そば店を浪花町66番館にオープンします'
 
 つまり尼崎大貫は、初代店主となる千坂長治氏が淺草來々軒で食しただけで、店に勤務したわけではない。したがい、当然レシピなどは渡されていない可能性が高く、淺草來々軒の後継店とは言えないと考えている。
 
 とはいえ、やはり実食してみないと分からない。ボクは兵庫県の緊急事態宣言がようやく明けた2021年7月、飛騨高山の帰りに寄ることにした。

 まず余談から。尼崎駅からすぐ、という立地なのですぐ分かるだろうと高を括っていたのだが。まあこれがとんでもない勘違いで、土地勘のない場合、注意しないといけないということをまたまた思い知った。簡単に書けば、東京で言うなら「JR大森駅と京急大森駅」「東京メトロほか浅草駅とつくばEXP(TX)浅草駅」「JR小岩駅と京成線小岩駅」・・・まあ、どれも同じ駅名なのに距離がある。今回の場合、私鉄の駅があることすら知らなかったのだ。つまり、JR尼崎駅しかないと思い込み、店の最寄り駅が阪神であることなど思いもよらなかった。まあともかく何とか辿り着いた。

 大正時代の創業というから、ソレナリの店構えかと思って来たが、そんなこともなく、入りやすい店だ。看板には「中華料理」という文字も見える。はて、中華料理店、なのか此処は? これは覚えていて欲しい。

 正午過ぎに到着の予定であったが、前述の通りのヘマをして、もう14時近い時間であったので、客もまばら。そしていただいた一杯は。

 見事に予想通りである。このスープの味は、千葉・穴川、東京・祐天寺など淺草來々軒直系の店とは質が全く違う。もちろん、飛騨高山などで食べた「和出汁」的なテイストでもない。と言うか、東京圏でこういうスープを出している店をボクは知らない。

 酸味がある、ということは承知していた。しかし、見た目は案外、豚骨がしっかり主張する濃いように見えるスープは、ことのほか軽く、まあライト豚骨的な味わいである。100年継ぎ足しているということだが、ま、それはおいておく。

 麺は噛み応えのあるしっかりしたもの。この店の公式サイトを見れば分かるが、自家製かつ足踏みだというから、相当こだわりがあるのだろう。ただ、ボク的にはスープより、そして麺より、印象が強いのがチャーシューである。

 断っておくが、決してネガティブに書くつもりはない。けれど、ボクは還暦を過ぎていて、もう量は喰えない。だから、この、分厚く、脂身がやたら多く、ましてそれが3枚(3切れ?)もあるとなると、正直持て余す。

 そして、このチャーシューこそが、“古き良き、懐かしい、昭和の中華そば”のイメージを大きく損なうアイテムであることを、ボクは感じざるを得ないのである。少なくとも、都内で戦前より営業している店で、こうしたチャーシューを載せてラーメンを提供している店は、ボクが知る限り、ない。

 ところで、ネット上ではこの大貫のことを「日本で最古の中華そば」なるフレーズが用いられていることが多い。しかしながら、店の公式サイトでは『一番古いか否かかは当店自体が把握していません。ですので当店が看板や名刺、その他の印刷物やメディアに「一番古い」と自ら発信した事は一度もありません。ですので事実確認が定かではございませんので誤解のない様』に、と記載されている。
 
 だれが最初に用いたのかは定かではないが、この言葉の意図するところは、「日本の現役店(現在営業中、の意)で、中華そばを提供している、最も古い歴史がある店の中華そば。ただし、あくまでいわゆる中華そば店・ラーメン店であって、中華料理店ではない」ということであろう。

 私のブログでも営業開始時期が1975(昭和50)年以前のラーメン提供店一覧を掲載[72]させていただいているが、日本の現役店で最古参はもちろん横浜中華街の聘珍楼である。創業は1884(明治17)年。次いで同じく中華街の萬珍樓で、1892(明治25)年の創業だ。

 聘珍楼には「中華そば」はないが、「生碼麺(サンマーメン)」「叉焼湯麺」などがメニューに載る。萬珍樓にはラーメンセットや生碼麺セットなどがある。
 また、横浜山手の一角には古い中華料理店が並ぶが、店の規模はさほど大きくなく、東京の町中にあるいわゆる町中華とさほど変わらない。だから1908(明治41、一説には1912)年創業の華香亭本店では、ラーメンやワンタンメンがある。
 
 都内ではどうだろうか? 現役で最古参の部類、維新號銀座本店のメニューをみれば叉焼雲吞麺、鶏絲湯麺といった汁そばが提供されているし、神田の揚子江菜館にしても、鶏絲湯麺、広東湯麺があり、駿河台の漢陽楼でも広東麺や鶏絲湯麺は提供しているのだ。
 
 「日本で最古の中華そば」とは、これらの店があくまで「中華・中国料理店」であって、大貫は屋台引きから始まった、純粋な「“町場”(これは強調すべきか)の中華料理店」という意からすれば「最古の中華そば」ということなのかもしれないが、ボクにはまったく説得力を感じない。


【Ⅵ 丸デブ 岐阜】
 最後の6店目は、岐阜の丸デブである。最後にした理由はもうお分かりだろう。

 店の場所はJR岐阜駅から大通り(金華橋通=県道54号線)を北へまっすぐ進み、右手に高島屋が見えた先を左に折れたところ。駅から12分程度である。創業は1917(大正6)年のことでだ。
 ここのラーメンを初めて食べたボクの記録を簡潔に書いておく。[73]

「これは日本蕎麦かラーメンか 
 『浅草の来々軒の系譜』 『初代店主が太っていた故の屋号』 『ラーメンと思うな、日本蕎麦を喰うと思え』 『開店定刻前から満席になる』 ・・・そんな逸話を持つこの店は、特急「ひだ号」を降り、岐阜駅で途中下車する価値はきっとある。
 小さい丼に、決壊寸前まで入れられたスープ・・・出て来た一杯は、なるほど、「ラーメンと思うな、日本蕎麦を喰うと思え」は納得。今までも日本蕎麦チックなラーメンは何度か喰ったが、此処は皆さんが書かれているように「日本蕎麦若しくは温かい冷や麦」だ。
 が。イイ。この麺、凄くイイ。柔くて、ツルツルで、ズズッツと啜る蕎麦、いや、ラーメン。当然、つゆ、いや、スープは、やっぱり「そばつゆ」である。鰹節メインで醤油の立った甘味のある、つゆ。
 蒲鉾が鮮やかに彩る。緑のネギも綺麗だ。チャーシューは煮豚。薄味。コレ、合鴨肉にしたら、まんま「鴨南蛮」に変わるだろう。こういう味で、値段なら、年配客が常食としても違和感はない。と言うより、週に二・三度は店の暖簾をくぐりたくなるのも頷ける。
 店の奥に掲げられる「中華蕎麦 大正六年創業」の看板。まさに「中華的」な「日本蕎麦」が此処にある。というか、百年以上もの間、ずっとこの味を出しているのかと思うと、そしてこれが四百円というのは、もう奇跡のレベルだ。一言で言えば、「進化した化石」ラーメン。良いものをいただいた」。
 これを書いた(食べた)のは2018年の3月の事である。
 ネットでの情報をまとめると、スープの出汁は鶏ガラメインで生姜を加えたものにチャーシューの煮汁を加えたもので、タレには溜まり醬油を使っているとのことである。

 ボクは、つい最近、飛騨高山に向かう前にこの店にまた立ち寄った。どうしてももう一度、味を確かめたかったからだ。

 株式会社KADOKAWAが運営するWEBサイト『ウォーカープラス2017年9月23日更新版 【第25回】2017年で創業100周年!大正時代から変わらぬ味の中華そばが食べられる「丸デブ 総本店」』[74]では、「丸デブ」の三代目のインタヴューが掲載されていて、三代目はこう語っている。

「大正時代の岐阜の人間が、なぜ東京の浅草に行ったのか。そのあたりの経緯はよくわからないのですが、ともかく『来々軒』で習った味を地元に持ち帰ってきた。それが当店の始まりだと聞いています」。鶏ガラでダシをとった昔ながらの醤油味で、「うちは創業のときからこの味。まったく何1つ変えていません」。
 
 淺草來々軒で習った=覚えた味を岐阜に持ち帰った、そしてその味はまったく変えていない。これを素直に信じれば、この岐阜・丸デブこそ明治末期から大正初期に淺草來々軒で提供されていた‘支那そば’に最も近いものではなかろうか。となれば、奥村彪生氏が主張する”そばだし系のスープは東京の支那そばがルーツ”とは、淺草來々軒から始まりこの丸デブにこそ受け継がれているのではなかろうか? 

 奥村彪生氏が指摘した「まさごそば」や「豆天狗」も同じ岐阜県内の高山にある。もしかすると、高山ラーメンの元祖「まさごそば」の初代店主・坂口時宗氏は、高山本線の快速電車に乗って[75]何度か岐阜市内まで出掛け、この丸デブで食べてその影響を受けたのではないか? 

 坂口時宗氏は東京・雅叙園で麺の打ち方を覚えたとあるが、スープの記述はないし、また昭和初期に雅叙園で支那そばを提供していたという記録もないし、当然味についても言及した書籍等は見つけられない。だから坂口氏が丸デブの影響を受けてスープを完成させたと考えてもおかしくはない。
 
 ちなみに高山ラーメンは、ラー博によれば『ご当地ラーメンには珍しく、戦前からの古い歴史がある』とあるのだが、ご当地ラーメンが戦前からあるのは特段珍しいことではない。例を挙げよう。

◆久留米ラーメン(豚骨ラーメン) 1937(昭和12)年、久留米に「南京千両」が開業。また、1941(昭和16)もしくは1942(昭和17)年、屋台「三馬路」が開業している。
◆函館ラーメン 「笑福」は1935(昭和10)年にはすでに「支那そば」を提供していた。
◆佐野ラーメン 1935年(昭和10年)エビス食堂 大正年間。1916(大正5)年ともいわれる。エビス食堂に勤務していた小川利三郎氏が1930(昭和5)年に屋台を引きはじめ、その後現存する「宝来軒」を立ち上げたという記述もネット上で複数見える。
◆燕三条(背脂)ラーメン 1933(昭和8)年、福来亭(現在の杭州飯店)が屋台で創業。
◆喜多方ラーメン 1927(昭和2)年、「源来軒」創業者の潘欽星氏[76]が、屋台を引いたのが原点である。潘欽星氏に直接インタヴューした記録が書籍で残っている。書籍の発行年は1991年、編者は、あの日清食品の創業者・安藤百福。「日本めん百景」という書籍の中で潘欽星氏の略歴はこう紹介されている。
 明治39(1906)年、中国浙江省温州で生誕。叔父を頼って19歳の時(1925、大正14年)単身長崎へ。以後、叔父を探して大阪、東京などに移ったのち、1927(昭和2)年、喜多方に移り住んだという。




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[66] 総務省公式サイト「台東区における戦災の状況(東京都)」 https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_25.htm

[67] 下谷区(したやく) 昭和22年まで存在していた東京の区で、現在の上野駅、上野公園、谷中霊園、三ノ輪、入谷などの一帯。浅草は「浅草区」に属していた。

[68] 公益財団法人 「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律」に基づいて設立され、公益事業を行う法人のこと。公益社団法人は、法律で定められた23の公益目的事業のうちいずれかを行うことが必須で、例えばそれは「学術及び科学技術の振興を目的とする事業」「文化及び芸術の振興を目的とする事業」などである。そのため、公益社団法人は法人としての社会的信用力が高いとされている。

[69]「東京大空襲・戦災資料センター」の『東京大空襲とは』 WEBサイト https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/

[70] 尼崎「大貫」公式サイト https://www.daikan-honten.com

[71] 杏香楼 1890年代に南京町の南側、現在の中央区栄町通1丁目で開店した広東料理で、神戸最初の本格的中華料理店と言われている。

[72] 1975(昭和50)年以前創業のラーメン提供店一覧 ボクのブロ「グノスタルジックラーメンⅠ~Ⅳ」 

Ⅰはhttps://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/ea80328da5637419ffc3a09667009348

[73] 丸デブで食べたボクの記録 ラーメンデータベース(RDB)

https://ramendb.supleks.jp/review/1133707.html

[74] 『ウォーカープラス2017年9月23日更新版』https://www.walkerplus.com/trend/matome/article/120324/

[75] 高山本線の快速電車 富山県庁の公式サイトによれば、昭和9年10月に富山~岐阜間が全通した。また岐阜~高山間では快速電車が昭和9年12月から運行され、同駅間を3時間で結んだとある。

[76] 潘欽星氏 氏の「潘」という姓は「藩」と記している書籍等もあるが、本人に直接インタヴューした記述がある書籍「日本めん百景」(安藤百福・編、フーディアム・コミニュケーション。1991(平成3)年9月刊)に記載のある「潘」とした。




【4】明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 

2021年07月30日 | 來々軒
※「來々軒」の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。
※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです



5.淺草來々軒はなぜ浅草を離れたのか? 
謎めいた物語のヒントは人形町大勝軒
 
 次も寄り道的なことに思えるかもしれないが、これぞ淺草來々軒の謎めいた物語なのである。

 大正末期、少なくとも関東大震災までは大繁盛店であった淺草來々軒。三代目・尾崎新一氏が戦地に赴いたことで、その歴史は一旦途絶えることになるのだが・・・。店の勢いは衰えたとはいえ、そして、東京大空襲で焼け野原になったとはいえ、なぜ復員した尾崎新一氏は創業の地・浅草を離れて、東京駅八重洲口に店を構えたのだろうか? 写真で見る限り、大震災後に建て替えた店は大そう立派に見えるが戦災で焼失したのだろうし、店の土地は借地、だったという可能性もある。そしてその明確な答えは分からない。ただ、おそらく、こういうことなのだろう、ということは想像はできる。それは、この「人形町大勝軒」四代目店主の話もヒントの一つとなっているのだ。

 2020年2月の末、一つの店がひっそりと暖簾を畳んだ。四つあると言われる「大勝軒」[56]系の最古参、それも創業店である人形町の「大勝軒」である(以下「人形町大勝軒本店」という)。ただし、人形町大勝軒はすでに中華店ではなく、「珈琲大勝軒」となっていたのではある。
 
 人形町大勝軒の創業年は諸説あるが、東急メディア・コミュニケーションズ株式会社が運営するWEBサイト「デイリーポータルZ」の2020年3月11日の記事[57]中、人形町大勝軒四代目渡辺千恵子氏へのインタヴューをまとめるとこういうことだ。

◆1905(明治38)年 林仁軒と渡辺半之助が屋台で創業。
◆1913(大正2)年 人形町に「支那御料理 大勝軒」を(路面店として)開業。
 
 屋台時代まで遡れば、淺草來々軒より5年も前の創業ということになる。なお、人形町大勝軒直系の「大勝軒」は、最早浅草橋に残る大勝軒のみとなってしまった。関係が取りざたされる茅場町の(新川)大勝軒(飯店)は、人形町大勝軒から独立した店ではあるが、経営者が変わってしまって、先に書いた人形町大勝軒四代目のインタヴューによれば、関係性は今はないようである。
 このインタヴュー記事には、淺草來々軒が浅草を離れた訳、かも知れないことに触れられている。この箇所である。
 
 昭和8年、人形町大勝軒は浅草に支店を出す。写真を見ると、実に立派な建物であるが時代が悪かった。四代目はこう語る。
 「食糧難でも、ヤミの商品をどうにか調達してお店を開けられたのね。でもさすがに戦争の末期は疎開して、帰ったらたまたまお店は焼けていなかったんだけど、その間にちょっと危ない人たちにお店を乗っ取られちゃったの」「もうそんなの、ザラだったのよ」。

 乗っ取り云々の話は文脈からして日本橋人形町本店ではあるが。そしてもう一つのヒントは、あとで触れる郡山の「トクちゃんラーメン」の公式サイトに記述があるのである。



日本橋横山町(馬喰町)にあった「大勝軒」(左)。右はかつての「人形町大勝軒本店」。のちの「珈琲大勝軒」。ともに閉店してしまった


6.淺草來々軒を巡る六つの現役店 正統な後継店はあるのか?

 いよいよ最終章である。
 2021年6月現在、ボクが調べた限りであるが、淺草來々軒と直接・間接にかかわりがあって、今なお‘現役’(営業中)の店は六つある。それは以下の店である。

(1)中国料理 進来軒 千葉・穴川。昭和43年創業。
(2)手打ち中華 トクちゃんらーめん 郡山。昭和56年喫茶店開業、平成7年(業態変更により)創業。
(3)来々軒 東京・祐天寺。昭和8年創業。
(4)たちばな家  東京・檜原村。昭和21年創業。
(5)大貫 本店 尼崎。大正元年創業。
(6)丸デブ 総本店 岐阜。大正6年創業。

 ‘来々軒’を名乗る店は全国に171軒あるそうである(ラー博による。2020年5月現在)。ちなみに「食べログ」で‘来々軒’、で調べると102軒(2021年6月現在。以下同じ)。都内には7軒見つかった。これらが何らかの形で淺草來々軒と関りがあったか否かは不明である。上記6店に関しては、関りのあったとする記述・記録が確認できたものである。

 それでは、その6店を個別に見ていくとする。

【Ⅰ 進来軒 千葉・穴川】
 まず進来軒、である。この店はご存じの方も多かろう。ボクは2010年と、2021年の5月に伺った。千葉都市モノレール「穴川駅」から徒歩5~6分だろうか、キレイなビルの1階にある。この店はノスタルジックラーメンのバイブル的存在『トーキョーノスタルジックラーメン』[58]で詳しく紹介されている。少し引用してみよう。

 「日本で最初のラーメン専門店として知られる伝説の店『来々軒』で修業し、その味を唯一受け継ぐ千葉市の老舗「進来軒」のご主人・・・」。
 
 このほか、紹介記事の中には『(淺草來々軒の)人気を博した「支那蕎麦」は醤油味。塩味だった中華の「汁そば」を日本人が好む醤油味の「ラーメン」に変えたこの店の功績は大きい』などといった記述もある。今までも書いてきたように、淺草來々軒は日本で最初のラーメン専門店でもないし、塩味だったラーメンを醤油味にしたという記録もない。さらに言えば進来軒が淺草來々軒の味を受け継ぐ唯一の店でももちろんない。ただ、この書籍は淺草來々軒にのみ焦点を当てて書かれたものではないし、紹介されているラーメン店を初めて知って食べ歩きをした人も多いのではないか。少なくともボクにとっては貴重な本であることは確かだ。

 進来軒のご主人・宮葉進氏は、淺草來々軒が東京駅近く、八重洲で店を再開(1954年=昭和29)した來々軒に1958(昭和33)年から10年間勤務した。八重洲の來々軒の店主は淺草來々軒三代目店主・尾崎一郎氏である。

 紹介記事の中で宮葉氏はインタヴューでこう話しておいでだ。「スープは豚足と鶏ガラだけをとことこ三時間半炊いた透明なスープ。味付けにはチャーシューだれは使わず生醤油に化学調味料を入れてね」。そしてこうも語っている。「今でも基本的な造り方と味は来々軒で教わったまま一切変えていません」。
 また、このインタヴューの中で宮葉氏は、昭和33年当時の来々軒のラーメンについて「麺は中細のストレート麺」「具は食紅で色を付けた煮豚にメンマと刻み葱。なるとは乗っていませんでした」とも語っている。

 2021年5月、11年振りに食べた感想。RDBでボクはこう書いた。
「ありがちなノス系の、あっさりとしたスープ、確かにそうなのだが。じっくりと味わうと、意外にも豚が強い、と感じるのだ。このスープ、豚足、鶏ガラがメイン。生醤油のタレ、そしておそらくは“味の●”。あとで触れるが、麺もそしてこのスープも、実は昭和30年代の、当時は東京駅八重洲口にあった(淺草)來々軒と同じ組み立てだそうである」。

 そう、意識してスープを味わえば、豚を結構強く感じるのだ。大正半ば以降の淺草來々軒と全く同じということではないだろうが、宮葉氏が仰る「基本的な造り方と味は来々軒で教わったまま一切変えて」いないとするなら、これぞ三代目・尾崎一郎氏が作ったスープなのであろう。ただし。淺草來々軒創業当時の、ではなく、敢えて「大正半ば以降の」と書いた理由が、ある。

 なお、宮葉氏は1942(昭和17)年の生まれで、2021年では80歳近いお歳である。進来軒はいっとき長期の休業を経て月現在営業中なるも、夜の営業を取りやめ、メニューも相当絞っておいでのようである。コロナ禍の中伺ったが、ご主人は元気に鉄鍋を振っておいでであった。ただ、後継者はおいでなのだろうか? もしおいでにならなければ、淺草來々軒に連なる店の一つがまた消えてしまうことになる。
 
【Ⅱ トクちゃんらーめん 郡山】

郡山・トクちゃんラーメン外観と「トクちゃんラーメン」。2021年5月撮影

 さて、次に郡山の「トクちゃんラーメン」である。店の公式サイト[59]によれば、店主・小島進氏は、1946(昭和21)年、浅草生まれ。宮葉氏は進来軒に通いつめ「来々軒の支那そばの仕込みを教えていただきました」。ただし、現在はそのラーメンの提供はしていないという。來公式サイトでは少々分かり辛い表現を用いているが、要はこういうことだ。

「今は亡き父と幼いころから浅草の支那そばを愛していました。当時はチャルメラなどの屋台も多かったのですが、味は恐らく来々軒に近付けていたような気がしてなりません」。

 つまり、小島氏は幼少のころから淺草で支那そばを食べていたが、多くは屋台であり、その味は來々軒の味に近かった、「気がしてならない」のである。それは、小島氏の想いであり、記憶なのである。従い、この店に関しては淺草時代の來々軒とは関連がない。それでもボクは実際に味を確かめたくて、2021年5月、郡山の店に出向いた。

 店の中には來々軒とつながりを示すものがいくつかあった。たとえば、メニュー表。そこには、大正の頃の淺草來々軒の写真が添えられている。

 『懐かしき、かつ進化した正統派。旨い東京ラーメンは郡山にあり』。ある雑誌の記事の拡大コピーが掲示されていた。ボクにはこの店の味を懐かしいとも思わなかった。だから「進化した正統派」とも感じない。誤解を招く書き方をしてはならないから付け足しておく。決して不味いのではない。「塩は『土佐の塩丸』、昆布は『日高昆布』、鰹は最高級の『本がつお』、静岡産の『煮干し』、豚はゲンコツのみで、比内鶏をはじめとする厳選した地鶏を三種使用」とあるので素材にも拘っておいでである。けれど、いや、だからこそ「懐かしい」とは感じないのである。それは、例えば先に書いた千葉の進来軒の店主の話を思い出してほしい。素材の組み立てが全然違うのである。

 余談になるが、そしてそれは後述するが、ボクが都内の店で「ああ、なんて懐かしい味だ」と感じたのは、唯一、東銀座の「萬福」、それも今の店ではなく、昭和から平成に変わるころの、まだ木造の建物だったころの「萬福」だけである。


東銀座「萬福」外観とワンタンメン。2021年5月撮影

【Ⅲ 来々軒 祐天寺】
 東急東横線の祐天寺駅からほど近い場所にあるこの店、創業は1933(昭和8)年のことである。この店には公式サイトがないが、Webサイト「駅と旅のガイド Webka.jp」で現在の三代目店主の写真と共に紹介記事が掲載されている[60]ほか、東京都中華料理生活衛生同業組合のサイトでも紹介されている[61]。また、店にも「元祖東京ラーメン」「全国来々軒のルーツ」といったポスターが掲示されている。確かに、この店こそ、はっきりとした記録が残る「初代・淺草來々軒」の正統なつながりを持つ店である。ただ、いろいろなサイトによれば、現在三代目の店主は東京會舘の出身だそうである。東京會舘は系列に上海料理店を持つが[62]、ルーツは大正期に創業した魚介料理店で、今のレストラン部門はフレンチと日本料理が中心である。従い、現在の祐天寺来々軒は、淺草來々軒と“味”という点での繋がりはないようである。これは大崎裕史氏のブログ[63]にも記載があって、インタビューが掲載されたサイトの話[64]をまとめると「今の店主(ここでは三代目)はおじいちゃん(創業者)の味をかなり変えてしまった」とある。ただし、店のメニュー表のデフォルト(先頭)の位置には「老麺 元祖東京ラーメン 650円」とあるのだ。

 創業者は傅興雷(フ・コウライ)という中国の方だそうだ。当初大森で創業、翌年、現在の祐天寺に移転したという。ネット情報では傅興雷氏は「淺草來々軒や上野來々軒で料理長をしていた」といった記述も多く見られる。たとえばWikipediaによれば、「1935年(昭和10年) (尾崎)一郎が商業学校を卒業して家業を継ぐ。堀田久助[65]は独立して上野来々軒を創業する」とある。
 要はこういうことになる。

・祐天寺来々軒の創業 昭和8年(大森で創業、翌年祐天寺に移転)。
・上野來々軒の創業 昭和10年。
・祐天寺来々軒の初代店主は、上野來々軒の料理長をしていた???。

 となればおかしな話で、淺草來々軒三代目店主・尾崎一郎氏が1935(昭和10)年に店を継ぎ、堀田久助氏が上野來々軒を開業したのが同年とすると、傅興雷氏が上野來々軒の料理長を勤めることは事実上不可能である。昭和8年に大森に開いたということが事実であれば、上野來々軒の出店年次が違うか、あるいは上野来々軒で料理長云々ということが誤り、のどちらかとなる。淺草來々軒を巡っては真偽が不明なネット記述が多いが、これもその一つであり、また次項で記す「たちばな家」の成り立ちについても同様である。
 
 それはさておき、ボクはこの店に都合三度伺った。2回目までは調理麺(最初が蝦仁湯麺=塩味の海老そば、二度目が什景湯麺=餡かけ五目そば)だったので、この6月にまた食べに伺った。もちろん、食べたのは元祖東京ラーメンである。お味の方は、そう、やっぱり町中華よりは上品なのである。とりわけチャーシューは、煮豚ではなく、吊るしで食紅使用の本格的なモノ。ボクが昭和30年代終わりに食べたラーメンを正常進化させるとこんな味、という感覚であった。


祐天寺来々軒と「老麺」。2021年6月撮影。



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[56]大勝軒の三つの系列 いわゆる人形町大勝軒系列のほか

(1)1947(昭和22)青木勝治ほか5人の共同経営で開業した「(荻窪)丸長」から坂口正安が独立、山岸一雄とともに「(中野)大勝軒」を創業、さらに1961(昭和36)年、山岸が独立して開いた「東池袋大勝軒」の系列。「丸長・大勝軒」系列とも呼ばれる。

(2)1955(昭和35)年、草村賢治が永福町にて開業した「(永福町)大勝軒」系。なお、銀座と葛西にある「この記述、類似のものを含めればネット上の様々なサイトで見かけるので 、さて一体どれが「元ネタ」なのか分からない。余計なことだが、ラー博のサイトの「高山ラーメン」の記述は誤りが多く、まあ誤りというよりはメンテナンスがされていないということではあるけれど、あまりに信用できない。」はいずれにも属さない。

[57] 2020年3月11日の記事 「デイリーポータルZ」の人形町大勝軒の特集記事。https://dailyportalz.jp/kiji/coffee-taishoken

[58] 『トーキョーノスタルジックラーメン 懐かしの東京ラーメン完全ガイド』 山路力哉・編著、幹書房。2008年6月刊。

[59] トクちゃんらーめん公式サイト http://tokuchan-rahmen.jp/index.html

[60] 「駅と旅のガイド Webka.jp」の来々軒の記事 http://webka.jp/s/a2g1404000008.html

[61] 東京都中華料理生活衛生同業組合・来々軒の紹介サイト 

http://www.cyukaryouri-tokyo.or.jp/shops/t23ku/meguro/rairaiken/index.html

[62] 東京會舘の系列上海料理店 千代田区大手町2-2-2 アーバンネット大手町ビル21Fにある「東苑」。

[63] 大崎裕史氏のブログ 2012年12月8日のブログ“日本初のラーメン専門店「浅草来々軒」の流れを汲む店”。https://ameblo.jp/oosaki-tora3/entry-11436599228.html

[64] インタビューが掲載されたサイト 2021年6月現在、大崎裕史氏のブログに貼られたリンク先URLは、NOT FOUNDとなっている。

[65] 堀田久助氏 Wikipediaによれば「義兄」とあるが、主語がないため「誰の」義兄かは不明。文脈からすると、淺草來々軒二代目店主・尾崎新一氏の妻である「あさ」の義兄ということのようであるが、確証はない。


【2】 明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 

2021年07月30日 | 來々軒
※「來々軒」の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。
※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです。



2. 日本初のラーメン専門店=淺草來々軒とは誰が言い出したのか? 
 
 100%の自信があるわけではないが、もうこれは書かなくてもお分かりではないか。

 新横浜のラーメン博物館(以下「ラー博」)が、淺草來々軒の創業当時の‘味’を再現して提供を開始し、それを食べに行ったことは先のブログ[14]で書いた。ラーメン評論家の大崎裕史氏はこれに関連して、先に記したツイッター及びRDB(WEBサイト『ラーメンデータベース』)[15]でこう記している。

『日本初のラーメン店」説が覆った日。
 これまで1910年にオープンした浅草の「來々軒」が「日本初のラーメン店」とされてきた。しかし、先日の新横浜ラーメン博物館の発表ではそうではなく、「日本初のラーメンブームを作ったお店」という紹介だった。いろいろな資料や文献を調べ直した結果、そうなったと』。
 
 前章のブログでも書いたように、淺草來々軒が「日本で初めてのラーメン(専門)店」という事実は全くない。最初に言い出した(書いた)のは小菅桂子氏の著書『近代日本食文化年表』[16]ではないかとの指摘もあるがそうではない。ボクは随分早い時期にこの書を入手して記述があるのは知っていたが、そうではないことを確信していた、というか、この書の記述は無視していた。その著作100ページにはこう記されている。

 『浅草公園に東京初のラーメン屋「来々軒」が開店。来々軒は横浜税関に勤めていた尾崎貫一が開店したもので、庶民を対象にした東京で初めてのシナ料理店』。

 此処に書かれているのは ‘東京初のラーメン屋’、‘庶民を対象にした東京で初めてのシナ料理店’、であって、‘日本初’とか‘ラーメン専門店’という記述ではない。それに言い方は悪いが、この書はかなりマニアックなものであるし、発売当時3,800円もした本にどれだけの影響力があったというのだろうか。 

 淺草來々軒=日本初のラーメン専門店などと言う言葉は2000年代に入って初めてさまざまな場面で語られることになった、とのことは前章のブログで書いたとおりである。
 概略を記せば、1991年までに書かれた(出版された)書籍で、(ボクが調べた限り)淺草來々軒=日本初のラーメン(専門)店という記述があるものは一冊もない。ところが21世紀にはいると、すなわち2001年以降に書かれた様々な書籍で淺草來々軒=日本初のラーメン(専門)店という記述、あるいはそれに類似する書き方が出てくるのである。このことから、最初に言い出した(書いた)のは1990年代であるということが容易に推測できる。

 ここで少し前に書いた大崎裕史氏のツイッターの内容を思い出していただきたい。氏は、新横浜ラーメン博物館の公式サイトを引用して『(淺草來々軒は)「日本初のラーメンブームを作ったお店」という紹介だった。いろいろな資料や文献を調べ直した結果、そうなったと』と書いておいでだ。ちなみにラー博の開館は1994年3月のことである。このことからしても、最初に言い出したのは何処かお分かりであろう。

 また、今なお、ラー博では公式サイトで以下の表記をしている(2021年6月現在)。我が国でラーメンの歴史を一目でわかりやすく、あるいは網羅的に紹介しているのはやはり此処以外にはないとボクは考えているから、その影響力は大きい。だからこそ誤りは正し、根拠を明示する必要があるのではなかろうか。

中国人コック12人在籍は創業当初、ではなく『大正10年』
 たとえば、以下の記述である。

 『來々軒の創業者・尾崎貫一氏は明治43年、横浜の中華街から中国人コック12人を引き連れて浅草の新畑町3番地に來々軒をオープン。正月などの繁忙期は1日2,500人~3,000人の来客がありました。來々軒がオープンした当時、ラーメン店という業態は存在しませんでした。ラーメン店の誕生背景には、來々軒が「支那そば」、「ワンタン」、「シウマイ」という大衆的なメニューを安価に販売するという新たな業態を繁盛させ、広めたことがスタートとなります』。

 この表現の中には明らかに誤りがまだいくつか含まれている。その一つ目。

 前章のブログでも書いたのだが、小菅桂子氏の『にっぽんラーメン物語』[17](以下「ラーメン物語」)では、‘中国人コックが12人在籍した’という記述がある。しかしそれは開店当時ではなく、

『尾崎貫一氏が書き残した日記風ノートには、大正10年には中国人調理人は12人に上った』

 とある。実は『開店当初から12人』という記述は岩岡洋志氏の著作「ラーメンがなくなる日」[18]にもある。こんな一文だ。

『浅草の来々軒は1910(明治43)年に尾崎貫一氏が浅草で創業しましたが、このときも横浜中華街の中国人12名を招いて開業しています』。

 ちなみに著者の岩岡洋志氏は、ラー博の創業者で、株式会社新横浜ラーメン博物館の代表取締役だ。

 少し考えれば開業と同時に横浜の南京町(中華街)から中国人コック12人を引き連れて来た、というのは無茶な話である。確かに当時の浅草は、東京の、いや、日本有数の繁華街であった。けれどまだ東京には支那料理店はそれほど多くなく、あってもそれは今でいう高級中国料理店が大半であった。千束にあった中華樓など、一部ラーメン専門店と思われる業態、あるいは大衆的な支那料理店は存在していたが(これは後述する)、まだその歴史は浅く、繁盛するかどうかはまったく分からなかったはずである。それをいきなり、南京町からコック12人を引き抜いて開店するなぞ、まさに無謀極まる話である。1933(昭和8)年に書かれた「淺草經濟學」[19]でもこう記しているのだ。

『淺草の支那料理の變遷(へんせん)は、頗(すこぶ)る多種多様に渉っていて』、特に明治末期から大正初期にかけては『新たに開業したかと思ふと、間もなく廃業され、而(し)かも、廃業されたかと思ふと、又次のものが出來ると言ふ有様だった』。
 それほどリスクは高かったのである。

1日2,500人~3,000人の来客は可能か?
 
 次に誤りと確信しているわけではないが、根拠が明確でないものが次の一文。『正月などの繁忙期は1日2,500人~3,000人の来客がありました』。

 この2,500人~3,000人という記述、ボクの探し方が悪いのか、あるいはその事実がないのか、過去の書籍などには記述が見当たらない(見つけられない)。後で触れることになるが、郡山の「トクちゃんらーめん」という店の公式サイトには『正月ともなると、地元江戸っ子と観光で浅草に訪れる全国の人々が、一日で2500人もご来店したそう』という記述がある。「トクちゃん」の店主と淺草來々軒とは直接の接点もなく(あるのは千葉の進来軒という店。後述)、「したそう」と記述にあるようにこれはあくまで伝聞である。まさかこの一文を根拠にはしていないとは思うが・・・。

 さて、一つの店に1日に客が2,500人から3,000人が来るということは可能なのだろうか。検証してみよう。ただ、可能かどうかはもちろん店の規模によるわけで、淺草來々軒の客席数が分からないから、実は検証のしようがない。それは一旦脇に置くとする。さらに、この当時、淺草來々軒は麺も手打ちだったので、それだけの麺を確保できたのか? 無論スープなども仕込めたのかなどという疑問も残るが、ここでは「時間的に」可能かどうか見てみることにする。

 まず横浜駅西口にある超人気店「吉村家」の例を見てみよう。この店の集客数は過去に何度か話題になったと記憶しているからだ。

 同店は、いわゆる「家系」と呼ばれる豚骨醤油のスープが特徴のラーメン店で、全国の「家系ラーメン店」の総本山とも呼ばれる店だ。集客力には定評があり、いつ行っても行列が絶えない。しかし、客の回転は早く、それほど待つことはない。ボクは6年ほど横浜勤務であった時期があったので、同店には何度も食べに行った。昼どきであれば50人程度の待ち客は常であるが、1時間待つということはあまりない。同店には客の回転率を上げる様々な工夫があるのだが、ここでは省略する。
 同店の公式サイトによれば、客数は1日平均で1,500人だそうである。ヨコハマ経済新聞の記事[20]では

「一般にラーメン屋は1日に300杯売れば繁盛店とされるが、『吉村家』の基準では600杯でまあまあ、800~1000杯は当たり前、1200~1500杯で超繁盛店と位置づけている。横浜の総本家は実際に、超繁盛店のレベルをクリアーしている」
 とあるので、MAXでは1日1,800杯程度であろうか。

 吉村家の客席数は30、営業時間は11時から22時。22時はラストオーダーなので、最大11時間30分の営業時間と仮定すると、1800人の客を捌くのには1席あたり1時間に5.2人の客を回転させないとならない。つまり客一人が12分弱席に座って食べているという計算になるが、これはちょっと不可能な数字でなかろうか。さておき、これを可能とするなら客席数50あれば1日MAX3,000人の来客が可能だったということになる。ただし、これは昼前から深夜帯まで常に客席が満席で、一人の客が12分弱で食べ終え、食器なども片付ける間さえなく、間髪を入れずすぐさま次の客が着席するという、およそ神業のような客捌き、回転率を達成しないとならない。いずれ淺草來々軒の客席数が分かる時期が来るかも知れない。覚えておかなければならないが、「客席数50、営業時間11時間30分(休憩なし)でその間常に満席」が最低条件で、かつ一人の客が12分弱で食べ終え、食器などを数秒で片付け、すぐさま次の客を迎え、注文を受けてからこれまた12分弱で食べ終えさせてはじめて1日3,000人の客を捌くことが可能ということである。まあ、常識的に考えれば客席数50では100%不可能であろう。では倍の100席だったらどうだろう? この場合でも「すべての客が24分以内に食べ終え、すぐさま次の客から注文を受けて、24分以内に食べ終えさせ、それを1日12時間近くずっと維持させる」。それも不可能ではないだろうが、現実的には甚だ疑問符が付く。

『昭和3年讀賣記事』は、実は“広告”
 
 もうひとつ、これが根拠か? というものがある。それはラー博のサイトにも新聞の切り抜きや、『來々軒にまつわる文献は数多く存在』している一例として掲載されているのが[21]、先に書いた昭和3年発行の讀賣新聞の記事である。そこには確かに『一日何千人かの客を迎えて居る、實に淺草名物』とある。しかし、何千人というぼかし方をしているし、何よりこの一文、実は『記事』ではなく、まして正確な過去の記述・記録を意味する『文献』とは全く異質の、『広告』なのである。
 
 ラー博に行くとこの記事なるものの拡大版も掲示されているのだが、昭和3年の記事という紹介の仕方しかしていない。つまり発行月日が不明なのである。ボクは2,500人~3,000人という数字の根拠を調べる一環として、料金を支払って読売新聞のデータベースにアクセスしてみた。すると、検索の結果が以下であった。

『広告 味覚をそそる 浅草名物来々軒 1928.05.28 夕刊 9ページ』

 なんのことはない、『何千人かの客を迎えている』というのは、來々軒自らが宣伝しているにほかならず、根拠というにははなはだ怪しいものなのである。

ラー博の展示。上部に読売の記事があるが、これは記事ではなく「広告」である 

淺草來々軒の二代目・尾崎新一氏は淺草經濟學で『殊に長男の尾崎新一君が、太つ腹で宣傳と言ふことには、金銭を度外視して、徹底的に断行したものである。だから(注・関東大)震災直後と雖(いえど)も、昔賣り込んだ看板を益々光輝あらしめ、人氣の焦點となつてゐたものだつた』と書かれるほど、積極的に広告を打っていた人物である。

 この宣伝の効果について、『お好み焼きの物語』ではこう書いている。

 「明治末期から昭和初期の東京において宣伝の重要性は非常に高く、尾崎親子(注・貫一氏と新一氏)がそのような(注・淺草來々軒を繁盛させるという)サクセスストーリーを描き、実現することも可能だった」。その背景には、「東京の人口爆発と、市電の整備と、新聞の普及があった」とし、新聞については「日本の新聞は戦争を糧にしてその部数を伸ばしていった」。つまり、当時の新聞部数は日清日露の戦争のおかげで飛躍的に伸びていったと書いている。さらに新聞広告に金をかければ、客は市電に乗ってやって来るという「広告業界にとっては夢のような状況」に、たとえば三越百貨店などと同様、尾崎親子は気が付いたのだという。

 ところで淺草來々軒が繁昌した、という記録が最初に見えるのは、おそらく1918(大正7)年に書かれた「三府及近郊名所名物案内」[22]ではなかろうか。前章のブログでも書いたのだが、來々軒の繁盛ぶりを見事に描いているので再度紹介したい。

『來來軒の支那料理は天下一品
 浅草公園程見世物でも飲食店でも多い處(ところ)は三府に言ふに及ばず、東洋随一澤(たく)山であろう その浅草公園での名物は支那料理で名高い來々軒である、電車仲町停留場から公園瓢箪池への近道で新畑町の角店だが、同じ支那料理でもよくあヽ繁昌したものだ、二階でも下でもいつも客が一杯で中々寄り付けない様で、此の繁昌するのを研究して見ると尤(もっと)もと思われる、客が入るとすぐとお茶としうまい、を出す そこで料理が、わんたんでも、そばでも頗(すこぶ)るおいしい その上に値が極めて安い 何しろ支那料理として開業されたのは此の店が東京で元祖であつて勉強する事は驚く様である 慥(たしか)に東京名物である事を保證する。』

 ただ『支那料理として開業されたのは此の店が東京で元祖』というくだりは過ちであることは言うまでもない。

明治41年創業の千束・中華楼は『支那そば屋・式』
 
 話を元に戻す。ラー博の記述である。三つ目。『來々軒がオープンした当時、ラーメン店という業態は存在しませんでした』とそれに続く文章である。これも前章のブログで書いているが、來々軒創業以前にそれらしき店は存在していたのである。これも前章のブログで書いたものだが、また淺草經濟學から引用する。なお、「支那そば屋式」は「支那そば屋・式」であって「支那そば・屋式(屋敷)」ではない。

 明治41年、平野なる店が支那料理店を廃業すると『殆ど入れ替りに、千束町の通りに、中華樓と言ふのが出來た。こゝは支那そば屋としての組織であったから、つまり此の意味に於ては淺草に於ける元祖である』。『即ちこれまでの支那料理と異なり、支那そば、シューマイ、ワンタンを看板とするそば屋であつたのだ』。『中華樓は現在も、開業當時と同じ営業をやつているので、淺草の支那料理では、こゝが元祖であり、老舗でもある。(中略)(経営者の)江尻君は氣さで、頗(すこぶ)る痛快な男でもあるから、千束町では誰れ一人知らぬ者もない。中華樓は開業當時から千束町二丁目二百五十一番地で、開業當時から、支那人のコックを雇ひ・・・』

 また、こんな記述もある。
 『廣小路の有田ドラツクの横町を這入つた處の右側にある「榮樂」』という店について、『「榮樂」は大衆的な支那料理屋で、どちらかと言ふと、支那そば屋式な家である。夜明かしの店ではないが、大衆的な支那そば屋式の家としては、公園劇場前に、東亭と言ふのがあり、ちんや横町を更らに横に曲ると、八州亭があり、昭和座横には三昭がある。が、しかし、此の種の家は、他にも無數にある』。


「淺草經濟學」(国立国会図書館デジタルコレクション)

 このように、「淺草經濟學」では明確に支那料理店と、支那そば屋式あるいは支那そば屋とを区別している。特に中華樓なる店は、來々軒創業より前に、支那そば・シューマイ・ワンタンを提供する『そば屋』であったとしているのだ。この著者は、どうやら自らには明確な基準があって、支那そば屋と支那料理屋とを区別しているようである。また、後述するが、明治37(1904)年の新聞の事件記事には神田に「南京蕎麦屋」があったことが記されている。また、これも前章のブログで書いたのだが、NPO法人神田学会が運営するWEBサイト 「KANDAアーカイブ」の「百年企業のれん三代記・第26回揚子江菜館」[23]によれば、神田に現存する中華料理店・揚子江菜館は『明治39年(1906年)西神田で創業されました。神田に現存する中華料理店では最も古い店です。実は、「支那そば」という店名でそれ以前から営業をしていましたが、店名を改めた年号を創業年にしています』とある。
 
明治37年に存在した神田・青柳氏の店は『南京蕎麦家』
 さらに続けよう。下記の情報は研究会から寄せられたものである。
 
『強盗傷を負ふて逃ぐ
 昨晩三時頃神田仲町二丁目[24]三番地南京蕎麦屋青柳賢藏方へ一人の窃盗忍(しのび)入り店頭にありし銭箱の金三十銭と單衣(ひとへもの)一枚を窃取して二階に上り・・・』(1904年=明治37年9月18日、毎日新聞[25]より)

 かつて神田界隈は、とりわけ今の神保町周辺は、中国からの留学生が多く居住し、支那料理屋が数多くあったことは前章のブログに記したとおりである。この事件があった明治37年には、一千人の中国人留学生がいたそうである[26]。この事件があった当時の「神田仲町」は現在の神保町・駿河台下あたりまで1kmに満たない距離に位置する。

 記事の事件どおりとするなら、青柳賢藏氏の「南京蕎麦屋」は、1899(明治32)年創業の「維新號」(神保町)のあと、1906(明治39)年創業の揚子江菜館(神保町)の前、の年には存在していたことにある。

 この記事だけでは「南京蕎麦屋」が、今でいう「ラーメン専門店」であるか否かは分からない。ただ、当時の横浜では「支那料理屋」が相当存在していたのだから、この青柳賢藏氏の店を敢えて「南京蕎麦屋」と呼んだのはそれなりの理由があったと考えられ、この店が千束にあった中華樓という店より前に創業した「ラーメン専門店」であった可能性もある。

いずれにせよ、明治末期、支那料理店とは異なる業態、すなわち「支那そば店」「南京蕎麦屋」があったことは確かであろう。


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[14] 先のブログ 「其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの ~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン」https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/29fa0d0e620bbded30724266b78172da

[15] RDB ウエブサイト「ラーメンデータベース」 https://ramendb.supleks.jp

[16] 小菅桂子氏の著書『近代日本食文化年表』 雄山閣。1997年8月刊。

[17] 小菅桂子氏の「にっぽんラーメン物語」 副題は「中華ソバはいつどこで生まれたか」。単行本は駸々堂、1987年10月刊。

[18] 『ラーメンがなくなる日 新横浜ラーメン博物館館長が語る「ラーメンの未来」』 岩岡洋志・著、主婦の友社。2010年12月刊。

[19] 「淺草經濟學」 石角春之助・著、文人社。1933年6月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。

[20] ヨコハマ経済新聞の記事 2007年1月12日付のWEB版。https://www.hamakei.com/column/140/

[21] 読売新聞の記事が掲載されている ラー博の公式サイトhttps://www.raumen.co.jp/information/news_001083.html での讀賣新聞の記事(とされる)『一日何千人かの客を迎えて居る、實に淺草名物』という一文

[22] 「三府及近郊名所名物案内下巻」 兒島新平・発行兼編纂、日本名所案内社。1918年8月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。

[23] 「KANDAアーカイブ 百年企業のれん三代記・第26回揚子江菜館」http://www.kandagakkai.org/noren/page.php?no=26

[24] 神田仲町二丁目 現在の外神田一丁目の中央通り界隈。秋葉原駅電気街口の先。

[25] 明治3年12月8日(1871年1月28日)横浜で発刊された日本最初の日刊邦字新聞。のち東京に移り「東京横浜毎日新聞」と改題。現在の毎日新聞とは異なる系統である(以上、デジタル大辞泉」などから)。

[26] 一千人の留学生がいた WEBサイト「神田資料室」より。元は「KANDAルネッサンス86号 (2008.06.25) P.6〜7」である。http://www.kandagakkai.org/archives/article.php?id=001997


【1】 明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 

2021年07月28日 | 來々軒
※「來々軒」の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。
※写真の撮影は、原則、著者によります。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。
※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです。


新横浜ラーメン博物館内「來々軒」看板
 

 ・・・『太平洋戦争で、大阪の街は焦土と化した。食べるものがなく、スイトンや雑炊が食べられればいい方だった。芋のツルまで口にして飢えをしのいだ。阪急電鉄梅田駅の裏手、当時の鉄道省大阪鉄道局の東側は焼け野原で、そこに闇市が立った。 
 冬の夜、偶然そこを通りかかると、二、三十メートルの長い行列ができていた。一軒の屋台があって薄明りの中に温かい湯気が上がっている。同行の人に聞くとラーメンの屋台だという。粗末な衣服に身を包んだ人々が、寒さに震えながら順番が来るのを待っていた。一杯のラーメンのために人々はこんなに努力するものなのか・・・』(安藤百福・著、『魔法のラーメン発明物語』)[1]

 ・・・チキンラーメンやカップヌードルの開発者にして日清食品の創業者、安藤百福が戦後の焼け野原でラーメン屋の屋台を見つめた日から、遡ること28年。時は1917(大正6)年。場所は、のちに日本の表玄関というべき駅に成長する東京駅[2]。ただし、この時点ではまだ開業して2年しか経っていない、のである。

 「旦那様、どうぞお元気で。お店の更なるご繁盛、心から祈っております」「おう。お前も人の店の心配なんぞするより、自分のことを心配せい。くれぐれも身体だけは気を付けろ。支那蕎麦の店をやるのには、身体もキツイからな」。
 ・・・この日、淺草來々軒の店主・尾崎貫一は、従業員であった神谷房治を見送りのために東京駅に来ていた。神谷は数年に渡る淺草來々軒の修業を終え、故郷の岐阜に帰るのである。
 「ありがとうございます。最初は屋台を引きますが、きっと店を構えて見せます。旦那様から教わった來々軒の味、必ず守っていきます」「おう、それはありがたいことだ。そうそう、屋号はな、客の皆が『丸デブ』ってお前さんのことを呼んでいたから、それにしたらどうだ」「ハハハ。それはないでしょう。でも考えておきます」「達者でな」「旦那様も」。
 尾崎は店の者に作らせたシウマイを取り出し、神谷に渡す。「いくら特別急行列車[3]と言え、岐阜までは10時間以上の長旅だ。汽車の中では腹も減るだろう。これでも喰えや。お前の好物、シウマイだ」「ありがとうございます。來々軒のシウマイは絶品ですもんね」。

 ポオーッツ! 東海道線・東京駅発下関行の特別急行列車の汽笛が響き渡り、車輪が鉄路の上をゆるりと走りだした。神谷は窓から身を乗り出し、ちぎれるばかりに手を振った。もちろん貫一も、である。ただ、貫一の頭の中の半分は、そこそこ繁昌している自分の店、つまりは淺草來々軒をどうやって常に客で満杯にするか、で占められていたのだった。で占められていたのだった。「スープなんだ。スープを改良すれば・・・」


 ここでおさらいである。前章のブログ「淺草來々軒 偉大なる『町中華』 【1】」[4](以下、前章のブログ、という)で記したものではあるが、本題に入る前に、淺草に來々軒の歴史を簡単に記しておこう。なお、前章ブログ記述より後に判明した箇所があり、修正または追記した。

◆1857(安政4)年もしくは1858(安政5)年 創業者・尾崎貫一、下総舞鶴藩の武士の家に生まれる。明治の初め頃、横浜に転居。横浜税関に勤務する。
◆1892(明治25)年 十一月、貫一の長男、新一、誕生。のち、東京府立第三中学校(現・東京都立両国高校)を経て早稲田大学商科に進学。
◆1910(明治43)、もしくは1911(明治44)年 貫一、浅草新畑町三番地に来々軒を開業する。創業年次は両年とも記録があって、ともに可能性がある。
それを断定するのは困難である。
◆1915(大正4) 貫一の孫、後の來々軒三代目店主・尾崎一郎、誕生。
◆1921(大正10)年 來々軒は繁盛し、この年には12人の中国人コックが働く。一部に淺草來々軒は創業時より中国人コックを12人雇用したとの記述があるがそれは明らかな誤りで、淺草來々軒初代が書き残した日記風ノートに記載されているとおり、12人の在籍はこの時期である。
◆1922(大正11)年 三月、貫一死去、享年65。長男・新一が経営を引き継ぐ。
◆1927(昭和2)年三月、新一死去、享年36。妻・あさが経営を引き継ぐ。この時、堀田久助(義兄)および高橋武雄(義弟)の補佐により運営する。
◆1935(昭和10)年  20歳の一郎が家業継承。堀田久助は独立、上野來々軒を創業する。ただし、上野來々軒創業時期は、これよりも数年前の可能性がある。
◆1943(昭和18)年 一郎、出征のため、浅草の店を閉店する。尾崎一郎一家は、千葉の幕張に転居している。以後、一郎氏は幕張から八重洲、内神田の店へ‘通勤’した。なお、一郎氏には二人の子息がいたが、店を継ぐことはなかった。
◆1954(昭和29)年 一郎、東京駅近く、八重洲四丁目に来々軒を新たに出店する。
◆1965(昭和40)年 八重洲の店がビル化されることに伴い、内神田二丁目に移転。
◆1976(昭和51)年 廃業

  【其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの】[5]をUPしてから半年も経ってしまった。もっと早く続編を上げるつもりであったのだが・・・。長くかかってしまった理由はいろいろあるのだが、最も大きな要因は、やはりコロナ禍である。続編をまとめるに当たって、どうしても食べておかねばならない店があるのである。この店で食べないことにはまとめが書けないのだ。その店はいわば“淺草來々軒の謎めいた物語の最後のピース”、である。ただし、この店はパズルに嵌まらないピースという思いがあって、それを確認するために行くつもりであったのだ。店は、神戸・尼崎にある。

 当初は2020年の12月の後半に行くつもりであった。当時、新型コロナの感染は所謂第三波と言われる時期に達し、12月24日には都内新規感染者数は初めて800人を超えた。ボクも大いに利用させていただいた「GO TO トラベル」も中止となってしまい、止む無く遠出を諦めた。以後、機会を伺っていたのだが、なかなか感染は収まる様子はない。

 ようやく、東京や大阪、兵庫などに出ていた第3次緊急事態宣言が明けた2021年7月に尼崎の店に行くことができた。ついでに岐阜市内のアノ店にも、さらに飛騨高山も二回目の訪問で何店か回った。その理由は別途書くとして、この結果、ボクはようやく、淺草來々軒の正統な後継店は「この店だ!」と確信したのだ。正統な後継店、それはもちろん‘味’についてである。

 淺草新畑町にあった広東料理店、あるいは支那の一品料理店「淺草來々軒」のことを調べ始めて随分と時間が経った。もうこの店のことを「日本で初めてのラーメン専門店」などという人はいないだろうが、それでも調べれば調べるほど淺草來々軒が残した影響はとても大きかった、と思うのである。もしかすると淺草來々軒が存在していなかったら冒頭の安藤百福氏の一文は、書かれることはなかったかも知れない。現代のラーメンなる食べ物は、少し違ったものになっていたかも知れない。そして、その淺草來々軒の正統な後継店があるとしたら、それはどの店なのだろうか? いや、そもそも、そんな店があるのだろうか?

 それを今回のブログで解き明かしていくのであるが、それは少々謎めいた話でもある。実はボクは、そのことには数年前から気が付いていた。それはそのままの、だったはずだったのだが、前章でも書いたようにボクの事情が大きく変わった。

 2019年初め、ボクは大腸がんを患った。ステージはⅢ-b[6]。他臓器に転移はなかったが、複数のリンパ節転移があったから、肺や肝臓などに転移する可能性はあった。そして2020年夏、両肺転移が発覚。左肺の転移部位は浅かったが、右肺の転移個所は結構奥で、三分の一ほど切除した。60歳で定年を迎えたこともあったので仕事も辞めた。肺のオペ後、常勤で勤務を再開したが、もうそれも無理なことで、今は週4日の勤務である。つまり、時間がまた出来た。ならば、淺草來々軒の謎めいた話を、それが解決されるかどうかともかく、まとめようと思ったのである。

 ここで一つ断っておく。本稿はあくまで淺草來々軒スープに焦点を当てて、正統なる後継店を探っている。スープに焦点を絞った理由はほぼ一点に尽きる。ボクの想いを的確に表現をしている一文を紹介してその理由に代える。
著者は、中国社会論などが専門の社会学者で、現・東京大学大学院情報学環・東洋文化研究所教授の園田茂人氏。氏が中央大学文学部教授時代の2004年に書いた一文[7]である。

 『(ラーメン一杯の)分量や麺の製法などは華北から、シナチクや焼き豚などのトッピングは華南からやってきて、スープは日本で独自に開発された。おおよそ、こう理解してよいだろう』。

1.はじめに
 前章のブログ脱稿の前に、近代食文化研究会(以下「研究会」という)・著作「執念の調査が解き明かす新戦前史 お好み焼きの物語(以下『お好み焼きの物語』)」(書籍版[8])を読んでしまったボクは、正直、原稿を書くのをやめようと思った。それは前章でも書いた通りだ。

 この著者[9]は、文字通り“執念の調査”によって、淺草來々軒の真実を明らかにされた。そして2020年暮れ、その改版が電子書籍で公開された。「お好み焼きの戦前史Ver.2.01」(以下「Ver.2.01」という)[10]である。
 今回、「Ver.2.01」を拝読させていただき、改めてこの著者の調査力に驚かされた。前章執筆時同様、もう淺草來々軒のことをボクが書く必要はないかも知れない、と考えることもあった。けれど、アプローチを変えればこの著者が言及されていないことを書くことができるのではないか、と思ったのだ。それがたとえボクの想像であり、あるいは推測の域を出ないにしても、書き残す価値はきっとある、と考えた。幸い、『お好み焼きの戦前史』の著者とは、何度かメールで連絡を取り合うことが出来た。

 連絡を取り合うようになったきっかけ。それはラーメン評論家・大崎裕史氏のツイッター[11]であった。大崎氏には改めて感謝を申し上げ、話を進めていくことにする。

 その前に、淺草來々軒の創業年について触れておく。一般的に創業年は1910(明治43)年と言われているが、ボクは、前章のブログで『創業年は1911(明治44)年ではない』、と書いた。根拠は二つ。1937(昭和12)年に発行された「銀座秘録」[12]に創業時期が書かれていること。二つ目は明治43年12月の発行の、当時の浅草の様子を事細かく記した本で、地区別の飲食店、あるいは名物とする料理を多数紹介している「淺草繁盛記」[13]に來々軒の名が記されていなかったことである。
 
 一方、1910年説は、ラー博にも掲示がある、おそらく関東大震災を経て再建した來々軒を紹介した1928(昭和3)年の讀賣新聞の記事(正確に書けば、これは記事ではなく広告である。後述する)が根拠であろう。そこには確かに『明治四十三年に現在の場所(注・淺草新畑町)に開業し』とある。
 どちらが正しいか? 今となっては最早分からないのだが、1928(昭和3)年の讀賣の広告は來々軒自らが出したものと思われ、この当時なら自分の店の創業年を忘れるあるいは間違えるという可能性は低いと思われるため、ここでは1910年、すなわち明治43年と書いておくことにする。




新横浜ラーメン博物館内部

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[1]『魔法のラーメン発明物語』 安藤百福・著、日本経済新聞社。2002年3月刊。

[2] 開業してまだ2年の東京駅 東京駅の開業は1914(大正3)年12月20日で、東海道線の起点となった。

[3] 東海道線の特急列車 東海道線の特別急行列車(特急)は、1912(明治45)年6月15日に、新橋~下関間で運行が開始された。

[4] 前回のブログ 「淺草來々軒 偉大なる『町中華』 」https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/a2cff9cb8dcf5636a5caab3e78a695b3

[5] 【其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの 1】~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン~ https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/29fa0d0e620bbded30724266b78172da

[6] 大腸がんのステージⅢ-b リンパ節転移が4個以上ありリンパ管とリンパ節が癌に強く浸潤されている状態。5年生存率は60%。現役医師が運営するWEBサイト「Medical Note」などより。

[7] 園田茂人氏の一文 中央大学文学部教授時代の2004年、同大学教養番組「知の回廊」40「ラーメン、中国へ行く-東アジアのグローバル化と食文化の変容」から抜粋。「知の回廊」とは、同大学によれば『教養番組「知の回廊」は日本で初めて大学とケーブルテレビ局(ジェイコム東京)が共同で番組を制作し、大学の知的財産を教養番組という形で、既存の「見るだけのテレビ」から「学びの宝箱」へと進化させた、これまでのテレビの枠を越えた放送番組』である。園田氏の文章は、ネットで全文を読むことができる。

https://www.chuo-u.ac.jp/usr/kairou/programs/2004/2004_06/

[8] 『お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史』 近代食文化研究会・著、新紀元社。2019年1月刊。

[9] 近代食文化研究会 ‘会’とあるが、実際は個人で活動されておいでである。

[10] 『お好み焼きの戦前史 Ver.2.01』 2020年12月15日発行。読むためにはKindle版をダウンロードする必要がある。

[11] 大崎裕史氏のツイッター 2020年10月15日付けのもの。

https://twitter.com/oosaki1959?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

 のち、WEBサイトRDB(ラーメンデータベース)の「今日の一杯 淺草來々軒」でも紹介されている。https://ramendb.supleks.jp/ippai/mNK9jIPt

[12] 「銀座秘録」 石角春之助・著、東華書莊。1937(昭和12)年1月刊。国立国会デジタルコレクション。

[13] 「浅草繁盛記」 松山伝十郎・編、實力社。1910(明治43)年12月刊。