ま、南部理論の基礎というのは初期の形のままだとあまりに平易だから笑われても困る、応用範囲が著しく狭く見える、というのであのようなsofticatedな形でまとめられているわけだけどね、カイラリティーを場の理論の対称性に帰着させる辺りが多少の毀誉褒貶を禁じ得ないところだろうw)
×「カイラル対称性が成り立っておれば粒子の左巻きと右巻きとを独立に変化させることができる」
↓
○「カイラリティーが成立すればフェルミオンの質量は0で光速度で走り、左巻き(右巻き)の物を右巻き(左巻き)に変換することが可能である」
×「カイラル対称性が完全に破れておれば粒子の左巻きと右巻きとを独立に操作することができなくなる」
↓
○「カイラリティーがまったく成立しなければフェルミオンは静止させられるので両巻きとして観測され、左巻き(右巻き)を右巻き(左巻き)に変換して右巻き(左巻き)をそのままにすることは不可能になる」
南部はニールス・ボーアの掟に反して「自分が考えたよりもクッキリと書きすぎた」きらいがあるよね。《ユニバーサルフロンティア理論》なんぞはボーアの掟一筋というほどではないとしても極力「己が考えたとおりに素直に書く」ように勤めてここまで来ているから、たとえ世界の南部相手といえども欠点があれば検出してしまうのだよ。上記の文章は×が南部による抽象的な(ソフティケートな)定式を具体的に解かりやすく?翻訳したような文章になっているが、実はそのまま具象として読むことは困難な内容であり、○はおそらく南部先生ご本人としても最初に考えられたであろう具象的な(ナイーブな)文体である。で、グラショウのモットーは「優れた数学論文という物は詩のように凝縮されて書かれており、一行一行に本質的な意味が含まれている」「物理学者は素直に書くように訓練されていて、優れた論文は良い短編小説のようにストーリーが明確で解かりやすい」とされており、私としてはなるべく従いたく書いてきたのだが、いまだに払底できない数学主義のためにやや窮屈で難解な文章になっている。
冒頭に書いた「カイラリティーを場の理論の対称性に帰着させる」という必然性じみた強迫観念は放棄したのが《ユニバーサルフロンティア理論》である!
つまり若き日々の南部の幻想としては「フェルミオンだけが持つカイラリティーという性質が場の対称性であるならば素粒子が質量を持つには南部=ゴールドストン定理よりスピン0で質量を持たないボソンが出現する」「カイラリティーが近似的にせよ成立するのならばπ中間子のように軽いスピン0のボソン(この場合はメソンないしハドロンとしても)が出現するとしたら陽子の質量が計算できた」という順序で進んでいったのであろうが、それは1961年の仕事であってストーリーとして誤りであることはほぼ確実だと言ってしまって過言ではない・・。
π中間子はクォークと反クォークとから出来ているハドロンであるし、色量子数を担っている南部=ゴールドストン複合ボソンは別の理由で出現した物だ・・。
×「カイラル対称性が成り立っておれば粒子の左巻きと右巻きとを独立に変化させることができる」
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○「カイラリティーが成立すればフェルミオンの質量は0で光速度で走り、左巻き(右巻き)の物を右巻き(左巻き)に変換することが可能である」
×「カイラル対称性が完全に破れておれば粒子の左巻きと右巻きとを独立に操作することができなくなる」
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○「カイラリティーがまったく成立しなければフェルミオンは静止させられるので両巻きとして観測され、左巻き(右巻き)を右巻き(左巻き)に変換して右巻き(左巻き)をそのままにすることは不可能になる」
南部はニールス・ボーアの掟に反して「自分が考えたよりもクッキリと書きすぎた」きらいがあるよね。《ユニバーサルフロンティア理論》なんぞはボーアの掟一筋というほどではないとしても極力「己が考えたとおりに素直に書く」ように勤めてここまで来ているから、たとえ世界の南部相手といえども欠点があれば検出してしまうのだよ。上記の文章は×が南部による抽象的な(ソフティケートな)定式を具体的に解かりやすく?翻訳したような文章になっているが、実はそのまま具象として読むことは困難な内容であり、○はおそらく南部先生ご本人としても最初に考えられたであろう具象的な(ナイーブな)文体である。で、グラショウのモットーは「優れた数学論文という物は詩のように凝縮されて書かれており、一行一行に本質的な意味が含まれている」「物理学者は素直に書くように訓練されていて、優れた論文は良い短編小説のようにストーリーが明確で解かりやすい」とされており、私としてはなるべく従いたく書いてきたのだが、いまだに払底できない数学主義のためにやや窮屈で難解な文章になっている。
冒頭に書いた「カイラリティーを場の理論の対称性に帰着させる」という必然性じみた強迫観念は放棄したのが《ユニバーサルフロンティア理論》である!
つまり若き日々の南部の幻想としては「フェルミオンだけが持つカイラリティーという性質が場の対称性であるならば素粒子が質量を持つには南部=ゴールドストン定理よりスピン0で質量を持たないボソンが出現する」「カイラリティーが近似的にせよ成立するのならばπ中間子のように軽いスピン0のボソン(この場合はメソンないしハドロンとしても)が出現するとしたら陽子の質量が計算できた」という順序で進んでいったのであろうが、それは1961年の仕事であってストーリーとして誤りであることはほぼ確実だと言ってしまって過言ではない・・。
π中間子はクォークと反クォークとから出来ているハドロンであるし、色量子数を担っている南部=ゴールドストン複合ボソンは別の理由で出現した物だ・・。