キレイ事は止すべきと言うか、むしろキレイ事というかw
キレイ事がド~のコーノというよりも、能力別の方があらゆる建前に沿っているんですよね、そうですがな。能力に応じた平等とは何か、どんな事かを考えたら、それは一定の授業時間の間に同じだけ勉強が進むことを言うんですがな、そう、そしたら能力別で無ければ成立し得ないという実情が浮き彫りになってくるんですがな。機会均等が平等なのと同じように、能力に応じた教育が平等なんどす、ウソ偽りございマヘン。
今みたいな過剰気味の教科内容になってくればなおさらw
ゆとり教育の時代や無いですやろ、そうやないか、全員が同じように勉強なんてとても無理ですやろ、そうやないか。能力に応じて等しく教育を受けて生きていければ、そら多くが生きていけますがな、今よりも、そう。簡単なことですやろ、自然なことですやろ、全教科についてSABCとクラス分けしたらイイんですがな、そうでっシャロ、そうやないか。
面接の採点と同じコトやないか、そないなコトがなんで差別やねん、そうやろ?
ワシだって頑張れる気がしてきますがなw
そこで日本国憲法的な認識によると、クラス分けなどが存在することが差別なのではなく、そこで起こる事件性のあることが差別なんだというコト、そうですねん。そらインド社会みたいに身分があるコト自体が差別社会である元だという実例もありますケド、そこはそれ、日本社会にはそんな差別的身分制度はあらしマヘンがな、そう。ま、元被差別部落関係者とか言いたい方はおられるでしょうが、そこはそれ、そこいらの議論は別枠でお願いしますわ、そうですねん。
横割りが差別である社会は古代社会だと認識しますがな!
なので、機会均等は教育においてはよくないんですよね。
なので、本当、能力に応じた教育こそ大事だと私も思います。
さらに言うと、「希望に応じた教育」であることも重要ですよね。
一応、今現在、教科書が過剰気味とも言えますよね。
でもそれ以上に、「詰め込むことが過剰」とも言えそうです。
一人一人の理解度はあまり気にせず、詰め込まず進めるのがいいと思うので。