思考過程を含めて素直に短編小説のように書くのが良い物理論文を書くコツだそうですが、まー、それだけが原因でもなく、
フェルマー定理証明に挑んだコーシーのような断定口調と、その後の支離滅裂を余儀なくされる論調には我ながら閉口してしまいます。だけど、こう見えてもおいおい勉強は進んで、徐々にマシにマシには、進んできているのですよね。だから私としては、ガロアを気取るわけにもいかない自分を自己理解せざるを得ず、コーシーだって立派な数学者だったというロジックを手前みそにモノせざるを得ない状況におるわけでね、ま、致し方ない。そうなったらそうなっったで私はコーシーほど優れた大脳を持っているわけでもなく、素質についての話では惨敗せざるを得ませんが、ま、そこはそれ、お互いさまじゃござんせんか。
そのコーシーが挑んで挑んで赤恥をかかされたフェルマー定理の証明というのも超難問だったわけですわなあw
宇宙の究極理論ともなれば、疑いなくそんなレベルの人たちの話だと目されておるわけですよね!
ちょっと待て、今のままの物理シーンでそんな進展が見込まれるものでしょうか、という話に持ち込みたいのですがな・・。
よーするに知能を含めた数学的能力の話などで日本の研究者は太刀打ちできない状況にあるわけですが、私はアメリカの物理は自分たちがそう言っていたように空中のお城だと思う、砂上の楼閣の比ではないわけですがな、強いて悪口にしてしまうと。空中にお城を建てるという夢をもって彼らは素粒子論を宇宙論にまで押し広めたわけですが、そのこと自体に無理があったというよりは彼らは致命的なミスを冒して先に進んだと思うわけです。分数のクォーク荷電が原理的には整数であったとしてそう大きくは違わないだろう、という高をくくったような態度がその原因だと存じます。
ユニバーサルフロンティア理論がそうありますように、クォーク荷電が整数であれば事態は大きく変わることがデキるのです!
そういった結論を出すのに特別に高度な数学的能力は必要ございませんから、手前みそながら高度な数学にこそ下働きをしていただくというのが学問の革命です。でも、彼らには革命的情熱があってやってることらしいのですよね、それで話がややこしいのですが、平易な学問の主張はむしろ王政復古にこそあたるらしいというのが現実です。
そうなると「王政復古であり革命だった明治維新」が指導原理になるでしょうか?
フェルマー定理証明に挑んだコーシーのような断定口調と、その後の支離滅裂を余儀なくされる論調には我ながら閉口してしまいます。だけど、こう見えてもおいおい勉強は進んで、徐々にマシにマシには、進んできているのですよね。だから私としては、ガロアを気取るわけにもいかない自分を自己理解せざるを得ず、コーシーだって立派な数学者だったというロジックを手前みそにモノせざるを得ない状況におるわけでね、ま、致し方ない。そうなったらそうなっったで私はコーシーほど優れた大脳を持っているわけでもなく、素質についての話では惨敗せざるを得ませんが、ま、そこはそれ、お互いさまじゃござんせんか。
そのコーシーが挑んで挑んで赤恥をかかされたフェルマー定理の証明というのも超難問だったわけですわなあw
宇宙の究極理論ともなれば、疑いなくそんなレベルの人たちの話だと目されておるわけですよね!
ちょっと待て、今のままの物理シーンでそんな進展が見込まれるものでしょうか、という話に持ち込みたいのですがな・・。
よーするに知能を含めた数学的能力の話などで日本の研究者は太刀打ちできない状況にあるわけですが、私はアメリカの物理は自分たちがそう言っていたように空中のお城だと思う、砂上の楼閣の比ではないわけですがな、強いて悪口にしてしまうと。空中にお城を建てるという夢をもって彼らは素粒子論を宇宙論にまで押し広めたわけですが、そのこと自体に無理があったというよりは彼らは致命的なミスを冒して先に進んだと思うわけです。分数のクォーク荷電が原理的には整数であったとしてそう大きくは違わないだろう、という高をくくったような態度がその原因だと存じます。
ユニバーサルフロンティア理論がそうありますように、クォーク荷電が整数であれば事態は大きく変わることがデキるのです!
そういった結論を出すのに特別に高度な数学的能力は必要ございませんから、手前みそながら高度な数学にこそ下働きをしていただくというのが学問の革命です。でも、彼らには革命的情熱があってやってることらしいのですよね、それで話がややこしいのですが、平易な学問の主張はむしろ王政復古にこそあたるらしいというのが現実です。
そうなると「王政復古であり革命だった明治維新」が指導原理になるでしょうか?