さてμニュートリノが地中を走る速度が真空中の光速度を超えているのではないかという話題も旧聞に属するようになってまいりましたが、
超光速疑惑は実験スタッフの気のゆるみ?からくる配線のゆるみが原因だと判明したモノの、相変わらず目ざましい猛スピードで、光速度との区別はさほど定かではないように伺っております。さて、そのことはいったいどんな自然観を私たちに強要してくることだったでしょうか、いずれにせよ大事件?と言って良い「アッと驚く為五郎的イベント」だったことに変わりはございません。先入観として「ニュートリノ変身をする、理論的に質量が0ではないμニュートリノが、まさか真空の光速度を超えるはずがナイ」といった感想を持つこと自体は正当的であり、おそらくタブーではなかったものと存じます。物づくりの現場とは違って、あるいはこれからは日本のモノづくりの現場でも多少は必要な不可能性の認識として「例えば常温超伝導の不可能性」等を挙げていくことが私には許されるように思います。
エントロピー増大則による永久運動期間の禁止にしてみたところで、確率計算に過ぎないから可能性が有ると考えっるのではなく、確率計算しかできないから不可能性を証明まではできないのだと考えるべきです!
なぜならば粒子数が増大するにつれてエネルギーを完全に取り出すことのできる熱機関実現の可能性は→1/∞にどんどん近づくばかりだからです・・。
私の知識によれば「一般相対性理論においては特殊相対性理論のように完全に任意なあらゆる座標系を仮定することは無理だ」ということになるのですが、読者諸賢にはお分かりでしょうか?
つまり、重力源としての物質の分布が存在しての話に変わるので、特殊相対性理論の場合には自由だった「静止系を一つ仮定しての光速度にいくらでも近い慣性系の仮定」には制限が与えられるでしょうし、それは例えば「物質から放射されたニュートリノの速度と真空の光速度の中間速度は座標系として無効になる」ということではなかったでしょうか?
アインシュタインは「宇宙に絶対的な同時は存在しない」「宇宙に慣性系は存在しない」と二つの非存在を主張していました・・。
それは、例えばインフレーションが終了して物質宇宙が始まった瞬間というのは、図示すれば全宇宙にとって共通の誕生日のようであり、さらに宇宙の赤ちゃん全域にわたっての絶対的な同時面の切り口に見えますけど、その同時性は否定されるということです。なぜならば、それは「相対速度しか速度ではない」というのと同じだからあって、この宇宙において「観測されない速度は速度はない」とする観測可能性の導入と軌を一にするからです。ほら、右に向けてロケット速度のvをとって左に向けて観測者から発された光の速度cを取ったとして、両者の速度が計算上のc+vなどではないということなど相対性原理の基本ではございませんか?
図の上ではc+vに見えたりc-vに見えたりするのが相対速度を取ればいずれもcだというのが光速度一定原理でしょうがっw
さてニュートリノ速度にはそのような利点というか理屈上の絶対的な不変性といったことは存在できません、存在できませんがニュートリノには他のどの素粒子と比べても著しく軽いという際立った特徴がございまして、その伝からすれば「もし電子の質量がニュートリノと比べたら無限に重いほど両者の質量が異なるならばニュートリノ速度と光速度の中間に座標系を取ることは禁則というよりも無効になるでしょう」と私が意見を申し立てられます・・。
(如何でしょーか、ゆえに宇宙は今でも平穏無事に存在し続けているとかいう言い方は、お気に召していただけましたかw)
超光速疑惑は実験スタッフの気のゆるみ?からくる配線のゆるみが原因だと判明したモノの、相変わらず目ざましい猛スピードで、光速度との区別はさほど定かではないように伺っております。さて、そのことはいったいどんな自然観を私たちに強要してくることだったでしょうか、いずれにせよ大事件?と言って良い「アッと驚く為五郎的イベント」だったことに変わりはございません。先入観として「ニュートリノ変身をする、理論的に質量が0ではないμニュートリノが、まさか真空の光速度を超えるはずがナイ」といった感想を持つこと自体は正当的であり、おそらくタブーではなかったものと存じます。物づくりの現場とは違って、あるいはこれからは日本のモノづくりの現場でも多少は必要な不可能性の認識として「例えば常温超伝導の不可能性」等を挙げていくことが私には許されるように思います。
エントロピー増大則による永久運動期間の禁止にしてみたところで、確率計算に過ぎないから可能性が有ると考えっるのではなく、確率計算しかできないから不可能性を証明まではできないのだと考えるべきです!
なぜならば粒子数が増大するにつれてエネルギーを完全に取り出すことのできる熱機関実現の可能性は→1/∞にどんどん近づくばかりだからです・・。
私の知識によれば「一般相対性理論においては特殊相対性理論のように完全に任意なあらゆる座標系を仮定することは無理だ」ということになるのですが、読者諸賢にはお分かりでしょうか?
つまり、重力源としての物質の分布が存在しての話に変わるので、特殊相対性理論の場合には自由だった「静止系を一つ仮定しての光速度にいくらでも近い慣性系の仮定」には制限が与えられるでしょうし、それは例えば「物質から放射されたニュートリノの速度と真空の光速度の中間速度は座標系として無効になる」ということではなかったでしょうか?
アインシュタインは「宇宙に絶対的な同時は存在しない」「宇宙に慣性系は存在しない」と二つの非存在を主張していました・・。
それは、例えばインフレーションが終了して物質宇宙が始まった瞬間というのは、図示すれば全宇宙にとって共通の誕生日のようであり、さらに宇宙の赤ちゃん全域にわたっての絶対的な同時面の切り口に見えますけど、その同時性は否定されるということです。なぜならば、それは「相対速度しか速度ではない」というのと同じだからあって、この宇宙において「観測されない速度は速度はない」とする観測可能性の導入と軌を一にするからです。ほら、右に向けてロケット速度のvをとって左に向けて観測者から発された光の速度cを取ったとして、両者の速度が計算上のc+vなどではないということなど相対性原理の基本ではございませんか?
図の上ではc+vに見えたりc-vに見えたりするのが相対速度を取ればいずれもcだというのが光速度一定原理でしょうがっw
さてニュートリノ速度にはそのような利点というか理屈上の絶対的な不変性といったことは存在できません、存在できませんがニュートリノには他のどの素粒子と比べても著しく軽いという際立った特徴がございまして、その伝からすれば「もし電子の質量がニュートリノと比べたら無限に重いほど両者の質量が異なるならばニュートリノ速度と光速度の中間に座標系を取ることは禁則というよりも無効になるでしょう」と私が意見を申し立てられます・・。
(如何でしょーか、ゆえに宇宙は今でも平穏無事に存在し続けているとかいう言い方は、お気に召していただけましたかw)