主に数式だけの理論物理に過度に憧れるのは良くないぞ!
憧れならワシにだって有るよ、無いわけが無いじゃないか、そら。だけど数学によることは多く後発であり、最初はよちよち歩きの赤ん坊のように、というか哲学的な場合が殆んどじゃよ、そう。ラッセルは師匠から哲学の持つある意味での安直さを教わって感動に青ざめたと言いますけど、ま、そこは理論物理にだって似たような事情があるのですがな、そう。
ワシはそこの部分をグラショウの通俗的自伝に教わったw
スピン0はスカラー粒子で、スピン1はベクトル粒子なのですけど、へえ、そう覚えてイイの、てな感じ。物理的意味より何よりも「先んじて覚えておけばいい」という感じには驚きました、へえ。そこから「スピン0で質量の無い粒子は存在デキない」となりまして、え、南部=ゴールドストン粒子はどうなる、と言う話に繋がりますけど、それは後回しにする手法とか、そんな風に学習しましてん、はい、そうですねん。
数式の存在は元ネタとしての哲学的仮定を示唆しますよ?
ワシが言っとるのは元ネタそのものなのですから、基礎として数式を持ってくるワケにはいかなかったし、ワシに言わせるとそれは不可能ですがな、そう。数学的定式などは応用の産物として後発に示すモノ、それは神さまの決めたコトと存じますのや、そうですねん。実在を超えた実存を最初から論じるには数式では駄目で哲学と、ソ~やと思いますねん、ド~でっしゃろ。