そもそも、π中間子の定式と性質には不思議なちぐはぐがあり、定式があの通りだったらクォークのフレーバを変える力が無いといけません!
だのに、π中間子によってはudクォークは互いにその役割を交換したりしません、そのためにはW粒子を必要とします。たとえば、定式(d反u)だったらuクォークをdクォークに変換するはずなのですが、π中間子にはそのようなフレーバー交換の能力が実験において確認されていないそうです、ファインマン図上において仮説としてならあるのですが。なにより、そのような能力があるのでしたら放射性核種のβ壊変がπ中間子によって起こらなければなりませんし、核子に荷電π中間子をぶっつけたら核子変換がおこらなくてはなりません。
ですから、二中間子論というのを私は、π中間子とW粒子のことだと間違って判断していた頃が長く続いたほどです・・。
だから言えることは、
「π中間子はフレーバー変換の道具ではなくて、まさしく韓=南部模型の通りの色変換の道具になっているはずだ」
というパラダイム転換が重要になってくるということです!
π中間子こそが色変換の担い手であれば、π中間子によってクォークを封じ込められる理論へ向かっての方向性が、ま、ちゃんと見えてきますね。それを数学的に証明として成し遂げるのが天才と、まあ、そのように定義じみて考えるのも自然の成り行きだと、まー、そのように言えますでしょう。
万事、湯川秀樹のように、ね?
数学の危機が実質的に数学の敗北で終わったとして、そのこころは「数学は自立できない」「数学者は使われる身であるほかない」ということだと察せられますが、ま、イイではないですか。フェルマー定理証明のワイルズとて、数学で身銭を稼ぎたければお客さまは神さまであるほかないでしょうし、それをしなくて済んでいるのは貴族性のような仕事をしなくても済むというそれだけの話ではないですか。数学は勝てないというよりね、そんなことをお互いのこととして適用してゆけば、どんなことでも同じなだけじゃないでしょうかね。
数学の危機って、ずーずーしい動議だった・・。
数学主義が敗北したとすれば、それは非常に多くにとって、もっけの幸いだったのではなかったでしょうか?
誰でもが現代数学をやらなければならないようなうっとおしい空気よりも「数学そのものは危機を通りこして敗北宣言をしてくれた」の方がずーっとマシです。
数学は宗教の代わりにはならない、そのことを肝に銘じておいてほしいものですよねw
だのに、π中間子によってはudクォークは互いにその役割を交換したりしません、そのためにはW粒子を必要とします。たとえば、定式(d反u)だったらuクォークをdクォークに変換するはずなのですが、π中間子にはそのようなフレーバー交換の能力が実験において確認されていないそうです、ファインマン図上において仮説としてならあるのですが。なにより、そのような能力があるのでしたら放射性核種のβ壊変がπ中間子によって起こらなければなりませんし、核子に荷電π中間子をぶっつけたら核子変換がおこらなくてはなりません。
ですから、二中間子論というのを私は、π中間子とW粒子のことだと間違って判断していた頃が長く続いたほどです・・。
だから言えることは、
「π中間子はフレーバー変換の道具ではなくて、まさしく韓=南部模型の通りの色変換の道具になっているはずだ」
というパラダイム転換が重要になってくるということです!
π中間子こそが色変換の担い手であれば、π中間子によってクォークを封じ込められる理論へ向かっての方向性が、ま、ちゃんと見えてきますね。それを数学的に証明として成し遂げるのが天才と、まあ、そのように定義じみて考えるのも自然の成り行きだと、まー、そのように言えますでしょう。
万事、湯川秀樹のように、ね?
数学の危機が実質的に数学の敗北で終わったとして、そのこころは「数学は自立できない」「数学者は使われる身であるほかない」ということだと察せられますが、ま、イイではないですか。フェルマー定理証明のワイルズとて、数学で身銭を稼ぎたければお客さまは神さまであるほかないでしょうし、それをしなくて済んでいるのは貴族性のような仕事をしなくても済むというそれだけの話ではないですか。数学は勝てないというよりね、そんなことをお互いのこととして適用してゆけば、どんなことでも同じなだけじゃないでしょうかね。
数学の危機って、ずーずーしい動議だった・・。
数学主義が敗北したとすれば、それは非常に多くにとって、もっけの幸いだったのではなかったでしょうか?
誰でもが現代数学をやらなければならないようなうっとおしい空気よりも「数学そのものは危機を通りこして敗北宣言をしてくれた」の方がずーっとマシです。
数学は宗教の代わりにはならない、そのことを肝に銘じておいてほしいものですよねw