ゲーデル命題Gとその否定¬Gとを重ねたG∧¬Gがそもそも矛盾していないのではなかったでしょーか?
私は論理学を研究していて原子命題という物に出会いまして、その典型としての「太郎は犬を飼っている」を分解する思考ばかり試していました。「太郎ならば犬を飼っている」にして命題論理として計算するのですが、そのこと自体が当時はちょっとした禁則で、そこからの発展もあまり良いのがなかったので止めておりました。
その時にゲーデルに関する素朴な文献と出会ったのです・・。
ゲーデル文はG「Gは証明できない」と¬G「Gは証明できる」だそーではないですか、いやこのくらい知っておったのですけど素朴系の解説が書かれていて私の大脳は初期化されておりましたので、なんとも新鮮なショックを受けたのをよく覚えております。
太郎「太郎は犬を飼っている」としたら¬太郎「太郎は犬を飼っていない」となるじゃないか!
ところが何度も眺めているうちに命題文の方から語りかけてきて「この両者は矛盾していない」という直観がスパーンと大脳の中で弾けたのです。並べて意訳してみますと「太郎は犬を飼っている、そして犬を飼っていないのは太郎じゃない」は~ん、こりゃ論理的にも強調だとパーンと膝を叩きました。それやこれやであまりにもアナロジーとして出来過ぎているので思わず「これはクォーク命題と、中間子文だ」一瞬で命名できたのです。
数論では「この体系は矛盾している」を付け加えても無矛盾だというのですけど、それはこのG∧¬Gのことでしょーか?
だとしたら「Gは証明できないし、証明できるものはGではない」
すなわち私はそうは言いませんが「証明できないのが無矛盾性で証明できるものは無矛盾性ではない」ということですか・・。
(どーにもシンジラレナイのですけど)
まあーいいです、ゲーデル命題の話が本題で終わったのでは本末転倒ですから、要するに述語命題に主語の名前を付けると混乱するという話なのでして、ゲーデルの論述がその一種であることはほぼ確実ですw)
私は論理学を研究していて原子命題という物に出会いまして、その典型としての「太郎は犬を飼っている」を分解する思考ばかり試していました。「太郎ならば犬を飼っている」にして命題論理として計算するのですが、そのこと自体が当時はちょっとした禁則で、そこからの発展もあまり良いのがなかったので止めておりました。
その時にゲーデルに関する素朴な文献と出会ったのです・・。
ゲーデル文はG「Gは証明できない」と¬G「Gは証明できる」だそーではないですか、いやこのくらい知っておったのですけど素朴系の解説が書かれていて私の大脳は初期化されておりましたので、なんとも新鮮なショックを受けたのをよく覚えております。
太郎「太郎は犬を飼っている」としたら¬太郎「太郎は犬を飼っていない」となるじゃないか!
ところが何度も眺めているうちに命題文の方から語りかけてきて「この両者は矛盾していない」という直観がスパーンと大脳の中で弾けたのです。並べて意訳してみますと「太郎は犬を飼っている、そして犬を飼っていないのは太郎じゃない」は~ん、こりゃ論理的にも強調だとパーンと膝を叩きました。それやこれやであまりにもアナロジーとして出来過ぎているので思わず「これはクォーク命題と、中間子文だ」一瞬で命名できたのです。
数論では「この体系は矛盾している」を付け加えても無矛盾だというのですけど、それはこのG∧¬Gのことでしょーか?
だとしたら「Gは証明できないし、証明できるものはGではない」
すなわち私はそうは言いませんが「証明できないのが無矛盾性で証明できるものは無矛盾性ではない」ということですか・・。
(どーにもシンジラレナイのですけど)
まあーいいです、ゲーデル命題の話が本題で終わったのでは本末転倒ですから、要するに述語命題に主語の名前を付けると混乱するという話なのでして、ゲーデルの論述がその一種であることはほぼ確実ですw)
命題が偽であるならば「この命題は真である」となる。
ゲーデルが証明したことは、「n個の公理が正しい時、
真となる定理を証明するのにn個以上の公理が必要になる」
ということ、
「ユークリッド幾何学上、三角形の内角の和は180度だ」みたいに
経験上真であるのに、公理からの証明が不可能な定理が存在する。