Captain Cook Yoshiki

私はフランスに住んでいます。プログを始めたばかりですが日々の記録を残していきたいと思っています。

『Le Bon Marché(ル・ボンマルシェ)』の食品館探索 Walk to Le Bon Marché『LA GRANDE ÉPICERIE DE PARIS 』

2019-10-08 10:47:39 | パリ観光

【DJI OSMO POCKET】『Le Bon Marché(ル・ボンマルシェ)』の食品館探索 Walk to Le Bon Marché『LA GRANDE ÉPICERIE DE PARIS 』

 

今回はパリにある世界最古の百貨店ボンマルシェ『Le Bon Marché』内の

食品館『LA GRANDE ÉPICERIE DE PARIS 』に行ってきました。

 

ここはフランスの新鮮な食材から世界各国の調味料まであらゆるものが約3万点おかれております。


一つのものを取ってもたくさんの種類があり選ぶのに大変困ります。


バターだけだも多分20種類以上はあったと思います。


動画内で種類の多さを確認できると思います。

 

 

中にはエシレのバターのほか生クリームなども置かれていました。(動画の中にあります。)

 

また、鮮魚売り場では新鮮な魚が氷の上に置かれ買われるのをいまかいまかと待っていました。

 

(但し、フランスは魚を生食する習慣が今でもないため、中にはできるものもありますが、鮮度的に生食はできません。私たちコックはここの魚は使いません。専門の業者がおり、サーモンやマグロ、白身魚などを仕入れています。)→私のブログの中の「パリの食卓から」職人が作る本格サーモン寿司あれこれの作り方」(もし良ければこちらの動画もご覧ください。)に載せていますが、生食するときは必ず店員さんに聞いてください。要冷凍と言われると思います。!!

 

野菜売り場も綺麗に陳列されていて、鮮度の良さがわかります。


野菜に関しては日本では見られないような野菜がたくさんあり、私も心が踊らされました。


マジで鮮度はいいです。


私の住んでいる地区の野菜はいい時もありますが、大概は黒ずんでいたり鮮度はあまりよくありません。

(※値段は結構高かったです。)

 

 

 

今回は主に食品館をメインに撮ってきたので、


全部とはいきませんでしたが、


2階には素敵なオブジェや包丁、


ストウブなどの調理器具などがたくさん売られていました。

包丁は動画の中にあります。)

 

 

 

今回はこれまで、また新しいパリの情報をお伝えしていきますのでよろしくお願いいたします。


【DJI OSMO POCKET】『凱旋門賞に捧げる』ちょっとゾッとする ブローニュの森の散策(オートゥイユ競馬場〜パリロンシャン競馬場) Walk to Bois de Boulogne

2019-10-05 19:56:21 | パリ観光

 

今回は2019年10月6日にパリのロンシャン競馬場で行われる「凱旋門賞」を記念して、ブローニュの森を夕方散歩してきました。最初はオートゥイユ競馬場から森を放浪し最後にロンシャン競馬場まで歩いてきました。秋の平日の夕方散歩したんですが、知り合いからは「大丈夫だった?」と言われました。やはりニューヨークのセントラル・パークもそうですが、夕方の海外の公園は非常に人通りも少なく、また公園の中には娼婦がいたりとても危険な感じがしました。

もしみなさんが行かれる時は陽がまだ明るいうちがベストです。秋の夕暮れは少し恐怖さえ感じるほどでした。
まあ、それはいいとして日本からの出走馬であるキセキ、フィエールマン、ブラストワンピースの三頭には頑張ってほしいものです。期待しています。
世界で一番綺麗だと言われているロンシャン競馬場は芝生も綺麗に刈られていてさすがという感じでした。またオートゥイユ競馬場は障害競走専門の競馬場であり、フランスで一番の「パリ大障害中」が開かれる由緒ある競馬場でもあります。今回は中にも入ることができ感動しました。

 

 

【ブローニュの森(Bois de Boulogne)】(wikipedia)
(概要)
パリ中心部から西に5kmほどの地域に位置し、面積は846万平方メートルにも及ぶ。
園内には、フランス国立民族民芸博物館、フォンダシオン・ルイ・ヴィトン、アクリマタシオン庭園の子供遊園地、バカテル庭園、シェイクスピア庭園、オートゥイユ庭園のほか、有名なパリロンシャン競馬場やスタッド・ローラン・ギャロス(テニス場。全仏オープンが開催される)もある。バガテル庭園は24haもの広大なフランス幾何学式庭園で、バガテル・バラ園には約1万本のバラが植えられている。静岡県の河津バガテル公園は姉妹園である。

アクリマタシオン庭園内のサラサモクレンの木
また、園内には、フランス政府より芸術文化勲章(コマンドール)を受賞した水井康雄の馬首像・アミラル(ブロンズ像}が1963年より設置されている。
パリ市民の身近な憩いの場として、週末を中心に散歩やジョギング・サイクリング等のスポーツを楽しむ人々で賑わう。一方で、かつては男娼の聖地として有名であるなど、パリ市内の一大売春地帯であった。取り締まりが強化された現在でも、日没後になると客引きをする娼婦の姿を見かけることができ、治安は必ずしも良いとは言えない。
(歴史)
ブローニュの森の競馬場, エドゥアール・マネ作, 1872年
この森は貴族の狩場などとして使われていたが、14〜15世紀の百年戦争の期間は、焼き討ちや強盗によって森は荒廃していた。ルイ11世の時代に、再度の植林や道路の開通といった整備がなされた。フランソワ1世がこの森にマドリッド城を建設してから、ブローニュの森は祭りなどに用いられるようになった。
19世紀中頃、ナポレオン3世が、ミズナラの茂っていたブローニュの森に、より多種多様な植物を栽培し、乗馬コース、自転車道路、パリロンシャン競馬場、滝で結ばれた2つの人工池等を整備した。1929年、ブローニュの森は公式にパリ市に編入された。

 

 

【パリロンシャン競馬場 (パリロンシャンけいばじょう L'hippodrome de ParisLongchamp)】(wikipedia)

フランスのパリ西のセーヌ川沿い、パリ16区ブローニュの森の中にある世界で1番美しいと言われる競馬場。平地競走専用の競馬場であり、凱旋門賞をはじめとするフランス競馬の主要な競走が行われることで知られる。
競馬場の正門にはフランス競馬史上最高の国民的英雄と評された史上2頭目のイギリスクラシック三冠馬グラディアトゥール (Gladiateur) の銅像がある。
(競馬場の創設)
ロンシャン競馬場を建設し、その後の管理を行ったのはフランス馬種改良奨励協会 (フランスギャロの前身、以降は奨励協会と表記) である。奨励協会は1833年11月11日に組織され、1834年5月4日には、パリのシャン・ド・マルス競馬場において、奨励協会による最初の競馬を行っている。また、15日には場所を移しシャンティイ競馬場でも行われた。1852年になるとシャン・ド・マルスは競馬場として問題があるため、奨励協会ではロンシャンに競馬場を建設できないか話し合われるようになった。その翌年には計画実現のため、皇帝となったナポレオン3世の異父弟にしてジョッククルブの会員であるシャルル・ド・モルニーに合意を求めることとなる。

モルニーの働きかけもあり、セーヌ県知事ジョルジュ・オスマンの協力を得ることに成功する。1854年8月18日にパリ市議会はロンシャン平原を市の名義で買取りブローニュの森に併合することをセーヌ県知事に一任した[† 4]。この決定は8月24日から29日の勅令により承認されたが、その中に競馬場の建設も含まれていた。
1856年6月には1856年7月1日から1906年6月30日までのリース契約を結んだ。さらに、1856年12月16日には、これまで国営である帝国牧場が監督していたシャン・ド・マルスの秋開催を委譲し、春開催と同じく奨励協会が一括して管理しロンシャン競馬場で行う協約を結ぶ。この2点は12月17日付の勅令で承認された。
こうした交渉の上、2年余りをかけ建設された競馬場における最初の競走は、1857年4月27日の日曜日に大勢の群集の前で開催されている。そこにはナポレオン3世皇帝とその妻ウジェニー皇后が親臨し、ジェローム・ボナパルトとその息子ナポレオン公、ナッサウ公子、ミュラ公(英語版)といった面々がロイヤル・エンクロージャーに顔をそろえた。非貴族の上流階級はロイヤル・エンクロージャーに入れなかったためバルーシュ型キャリッジからの観戦となった。また、パリ市民の多くもヴィクトリア型キャリッジや水上バス、外輪船などでこの新しい催しに集まっている。その多さは、混雑により第1競走の開始時間を30分ほど遅らせなければならなかったほどである。

(コース図)
右回りの芝コース。大外回り1周2750メートル、中回り1周2500メートル、小回り1周2150メートル、第3コーナーのポケットからのコースは1400メートル、直線コースは1000メートルと5つのコースがある。
向こう正面のコースは中間から第3コーナーまでゆったりとした上り坂が続き、そこからゆったりとした下り坂が続く。大外回りコースは最大10メートルの高低差となっている。
中回りコース、大外回りコースでは第4コーナーまでフォルスストレート(false straight、「偽りの直線」の意味)と呼ばれる直線が続く。距離は大外回りコースで250メートル程度。
直線はゴール板は2つ有り手前のゴール板までは533メートル、奥手のゴール板までは650メートルの平坦なコース。
直線コースはゴールまで平坦なコースが続く。
2015年から2018年までの大規模リニューアル工事(スタンド改修・馬場改修)にて直線入口の内ラチ側にコース幅が6m分の進路が広がるオープンストレッチが設置された。これによって道中内ラチ沿いを走る馬が馬群に包み込まれたまま直線の攻防に加われず力を出し切れずレースを終えるといった弊害が少なくなると期待されている。

【オートゥイユ競馬場 Hippodrome d'Auteuil】
フランスパリの近郊にある障害競走専門の競馬場である。所有・運営はフランスギャロで、パリ大障害を開催する競馬場として知られている。
(概要)
1830年代から始まったフランスの障害競走は次第に人気を帯び、障害競走専用の競馬場を望むようになる。オートゥイユ競馬場はブローニュの森内に建設された競馬場で、1873年11月1日に初の開催が行われた。
1874年5月25日に、後のパリ大障害となるフランスグランドナショナルを開催し、以後フランス障害競走の最高峰として位置づけられている競馬場である。


【DJI OSMO POCKET】パリの夜景シリーズ② サクレクール寺院〜Café des Deux Moulins( 映画「アメリ」) Walk to Night View in Paris②

2019-10-02 15:33:39 | パリ観光

【DJI OSMO POCKET】パリの夜景シリーズ② サクレクール寺院〜Café des Deux Moulins( 映画「アメリ」) Walk to Night View in Paris②

【タイムテーブル(TIME TABLE)】

テアトル広場(危険度⭐️⭐️☆☆☆)6:30

サクレ・クール寺院(Basilique du Sacré-Cœur)(危険度⭐️⭐️⭐️⭐️☆) 9:02

パリ市内展望(危険度⭐️⭐️⭐️⭐️☆). 13:30

ケーブルカー(危険度⭐️⭐️☆☆☆)17:00

Café des Deux Moulins 21:43

ピガール地区(Pigalle)(危険度⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️) 22:45

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今回は、夕方からモンマルトルの丘に登り、サクレクール寺院、アメリの映画で使われたカフェのCafé des Deux Moulinsで人気のクレームブリュレを食べ、最後にパリの歌舞伎町と思われるクリシー通りのピガールを散策してきました。 ここは定番のパリの観光スポットですが、ミサンガを強引に売りつけたりスリもかなり多くいると思われるので、細心の注意を払って観光してきました。 最後のピガールはセッ◯スショップ(DVDや大人の遊戯具などを販売している店の事)がたくさんあり、入ったことがないのでわかりませんが第6感が”キケン”と感じさせる店などたくさんあります。もし行かれる時は自己責任でいらっしゃってください。


【サクレ・クール寺院(Basilique du Sacré-Cœur)】(危険度⭐️⭐️⭐️⭐️☆)→ https://www.google.com/maps/place//da...

フランスのパリ市内18区モンマルトルの丘の頂にそびえる教会堂。ロマネスク様式・ビザンティン様式のバジリカ大聖堂。ギベール・パリ大司教が計画を提唱し、ポール・アバディが設計を担当した。1889年にいち早く完成していたエッフェル塔と共にパリ市内を見晴らせる観光名所で、両建造物とも19世紀後半に構想された比較的新しいものであるにも関わらず、今やパリになくてはならない存在になっている。 南西からの眺め 第三共和政の憲法が発布された1875年に、フランスの新しい政体の門出を祝う意味合いを籠めて、政府による直接的な支援を受けて建設がはじまった。当時は普仏戦争とそれに続くパリ・コミューンによって命を失ったフランス市民を讃える公共建造物としても考えられていたが、年月が過ぎるにつれてその位置づけが自ずと変容してしまう。実際に着工したのは1877年で、約4000万フランの費用と40年の歳月をかけ、1914年に完成したものの、礼拝のために開放されたのは第一次世界大戦の終わり、1919年のことであった故に、この寺院は皮肉にも普仏戦争以来のドイツに対する復讐の象徴として多くのフランス人から捉えられた。 教会の鐘は通称サヴォアと呼ばれ、1895年にサヴォワ地方で造られた。重さ約18トンの、世界最大級の鐘である。


【モンマルトル (Montmartre)(危険度⭐️⭐️☆☆☆)】→フランスの首都パリで一番高い丘(標高130メートル)。元々はこの丘を含む一帯のコミューン名(旧セーヌ県に属していた。)でもあったが、1860年にその一部がパリに併合されてセーヌ川右岸のパリ18区を構成するようになった。残部はサン・トゥアンに併合された。現在は、専らパリ側の地域を指し、パリ有数の観光名所となっている。サクレ・クール寺院、テルトル広場、キャバレー「ムーラン・ルージュ」、モンマルトル墓地などがある。モンマルトルの階段 モンマルトル美術館は、モーリス・ユトリロ、シュザンヌ・ヴァラドンがアトリエを構えていたベレール邸に入っており、ブドウ畑時代からエコール・ド・パリに至るモンマルトルの文化・歴史を知ることができる。美術館のもう一つの建物で主に企画展に使われるドゥマルヌ邸(2012年に改修)はモリエール劇団のロジモン(フランス語版)こと、クロード・ド・ラ・ローズ (1640-1686) や画商ジュリアン・フランソワ・タンギー(タンギー爺さん)が住んでいたことで知られる。ベレール邸もドゥマルヌ邸もモンマルトルで最も古い館であり、ルノワールはこの敷地に1875年から1877年まで住み、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』(1876)、『ぶらんこ』(1876)、『モンマルトルのコルトー通りの庭』(1876) などを制作した。他にもエミール・ベルナール、ラウル・デュフィ、シャルル・カモワン(フランス語版)、などがここにアトリエを構え、詩人のピエール・ルヴェルディ、作家のレオン・ブロワ(フランス語版)、ゴッホの『タンギー爺さん』で知られる画商ジュリアン・フランソワ・タンギーなどもここに住んでいた。 有名な画家の多くがモンマルトル墓地やサン・ヴァンサン墓地に葬られている。モンマルトル墓地はモディリアーニが自殺した場所でもある。 日夜、多くの観光客がテルトル広場、サクレ・クール寺院、キャバレー・ラパン・アジル、ムーラン・ルージュ、ピカソらのアトリエ、ユトリロの描いた風景を訪ねて歩いている。映画『アメリ』の公開後はロケ地めぐりの観光客も増加した。サクレ・クール寺院へは丘の南麓からフニクレールと呼ばれるケーブルカーが観光客を乗せて運行されている。 モンマルトルは歴史地区に指定され、その歴史的景観や特徴を保持するため開発は最小限度しか許可されない。バルベ地区は移民が多く、アフリカやアラブの物産が手軽に買えるが治安はあまり良くない。一方、モンマルトルの西南麓のピガール地区はパリ随一の猥雑な歓楽街・風俗街で、風俗店やビデオ店、アダルトショップなどが並んでいることでパリ市民には有名である。 ✳︎芸術家の街 19世紀半ば、ヨハン・ヨンキントやカミーユ・ピサロといった芸術家たちがパリ大改造で整備されてしまった市内を離れ、まだ絵になる農村風景の残っていたモンマルトルに居を移すようになった。安いアパートやアトリエ、スケッチのできる屋外風景を求める画家達が後に続き、19世紀末の世紀末芸術の時代にはモンマルトルはパリ左岸のモンパルナスに対抗する芸術家の集まる街へと変貌した。 パブロ・ピカソ(1904年から1909年までの間)、アメデオ・モディリアーニ、ほか貧しい画家達がモンマルトルの「洗濯船(Le Bateau-Lavoir)」と呼ばれる安アパートに住み、アトリエを構え制作活動を行った。ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、アンリ・マティスらも出入りし議論する活発な芸術活動の拠点となった。特にピカソが『アビニヨンの娘たち』(1907) を描いた場所、キュビスムが生まれた場所として知られるが、1970年の火事で焼失し、1978年にコンクリートで復元された。現在は小さなショーウィンドーに資料を展示している。 ナビ派などの芸術集団がモンマルトルで組まれ、ほかに様々な美術家、詩人、劇作家、小説家などが生活・制作した。代表的な人物には、フィンセント・ファン・ゴッホ、ピエール・ブリソー、アルフレッド・ジャリ、ジャック・ヴィヨン、レイモン・デュシャン=ヴィヨン、アンリ・マティス、アンドレ・ドラン、シュザンヌ・ヴァラドン、ピエール=オーギュスト・ルノワール、エドガー・ドガ、モーリス・ユトリロ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、テオフィル・アレクサンドル・スタンランらがいる。彼らはモンマルトルを制作の場にしたほか、モンマルトルの風景を描いた作品も制作した。 モンマルトルのボヘミアン芸術家の最後の人物といえるのが1975年に亡くなったジェン・ポール(Gen Paul)であろう。彼はモンマルトルに生まれ、ユトリロの友人だった。ラウル・デュフィに多くを負う、書道のような表現主義的な筆致のリトグラフには、絵になるモンマルトルの記憶を残したものもある。 1965年にリリースされフランス国内で人気を博したシャルル・アズナブールの『ラ・ボエーム(La bohème)』という曲は、彼の若い頃のモンマルトルでの思い出を歌ったものである。彼の親もモンマルトルに流れてきたアルメニア人であった。彼はこの曲を、モンマルトルがボヘミアンたちの根城だった最後の日々への別れの歌であると述べている。 モンマルトルは第一次世界大戦の直前あたりから急速に観光地化・高級住宅地化(ジェントリフィケーション)が進み、地価高騰と混雑を嫌った芸術家たちはモンパルナスに移っていった。伝統のブドウ畑も戦間期の1929年に一時姿を消したが、慈善団体「モンマルトル共和国」を1921年に結成していたイラストレーターのフランシスク・プルボらが直後の1933年に植樹して復活させ、現在でもモンマルトルではワイン造りが続けられている。


【Café des Deux Moulins】→https://www.google.com/maps/place//da...

「アメリ」のロケ地は、パリのモンマルトル地区の一角にあるcaféです。動画にもありますが、きっちり焦げ目のついたカラメルをスプーンでわり、中のバニラ風味のカスタードクリームを食べると、めちゃくちゃクリーミィでカラメルがサクサクでとても美味しかったです。 映画のセットとは多少違いますが、アメリのポスターなど今でも飾っており観光客がわんさか来ていました。ちなみにCrème Brûlée は焦がしたクリームという意味です。


【ピガール地区(Pigalle)(危険度⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️)】→超危険地区!気をつけて行ってください。



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