えんじゃけん

虚構の世界 ~「走れメルス」より

先日の野田mapの芝居「走れメルス」を見て思ったことなんですけど、
人って誰しも程度の差はあるにしても虚構の世界に住んでいるもの
なのかなぁと思った。

虚構っていうのは「事実ではないことを事実らしくつくり上げること。
つくりごと。」って意味だけど、人は自分の価値観を基準として
ものごとを見るものだと私は思うから、そうなると、自分の想像内で
ものごとを解釈する生き物だと思う。
つまりは自分の知識内でしか物事を解釈できない。
自分の知識外のことになると、自分の頭の中で虚構の世界を作り上げて
自分なりにつじつまを合わせて納得してしまうものなんじゃないかなぁと思う。

この話の中には虚構の象徴として虚像のメルスが出て来ます。
虚像とは「実際とは異なる、作られたイメージ。」

そして鏡の中の自分は自分であって、自分でない。
これも虚構と現実を繋ぐシンボルとして使われていた。

この芝居は現実の世界と虚構の世界を行き来するんだけど、
けれど、実際はどっちが現実でどっちが虚構か分からない
という構成の芝居になっていた。
虚構と現実の境界線の曖昧さを描いた作品だと思う。

この芝居は再演で、初演は1978年です。
再演にあたって野田秀樹が感じたことをパンフより少し抜き書き。

『今回気付いたのは、芙蓉とスルメの関係が最近のインターネットで
 自殺をする奴に似てるなぁって。遠くに居るのに、すごく閉ざされた
 世界に一緒にいるという。(中略)劇中の「向う岸」という観念も、
 ネットの世界にも重ねられるし、あるいは希望的なものや絶望的なもの、
 単純に死の世界という見方も出来る。』

虚構の世界があるからこそ、現実の世界が作られていくと私は思うから、
虚構の世界が一概に悪いとは思わない。
けど、生活ができなくなるほど、生きていけなくなるほど、
虚構の世界にはまるのはあまりよくないのかなぁとも思っている。
けど、それは死ぬ事はよくないっていう刷り込み(知識)が自分に
あるからそう思うだけなんだろうなぁとも思う。
生きる意味が何かを自分で理解できていないから。
いつかは死ぬんですよね。
それをどう考えるかなんだろうな。
ただ、今思うのは生きていれば、自分の虚構を現実に出来る可能性がある。
だから、生きるってことは現実への力なんだなぁってこと。
けど、現実は何か?と問われるとそれもよく分からないけど。

また、考え変わるかも知れないけど、野田の芝居を見てなんとなく
考えた事を書いてみました。
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