今日もChloeは元気です。
【過去記事】と表記のある記事は、以前他所(昔のブログやFacebookなど)で掲載したものをそのままこちらにも載せています。
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2013年5月27日
「クリスチャンである。」ということは、どういうことなのか。
様々なことに心を乱されて、その本来の意味が見えなくなることがある。
ふと、今朝心に浮かんだのはこの箇所。
イエスと姦淫の女のストーリー。
「ヨハネによる福音書8章1節~11節」
イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
自分の主義主張だけが正しいと信じ、糾弾することは、結局この律法学者たちと同じだ。
いや、意見を戦わせることは良いことで、それ自体は問題ではないのだ。
どちらが正しいとか、そんなことは塵にも等しいことである。
問題は、その過程で自分のとった言動がどうだったか、ということである。
相手に落ち度があるかもしれないが、自分の立場や場を弁え振る舞わなければならない。
糾弾したければすればいい。
その陰で、多くの人たちがその現場を目撃し、激しく傷ついたとしたらどうだろうか。
そのような事態を自ら進んで作ってしまっていたとしたら、どうだろうか。
このような状況をクリスチャンの中で見ることが多々ある。
人間の集まりである以上、これからも避けられない場面である。
誰もが立ち止り、自分を見つめ直さなければならないだろう。
それはキリスト教が教える「愛の姿」とは程遠く、私たちが目指す「キリストの姿」とは正反対であることを認識すべきである。
その恐ろしさや人間の未熟さを肝に銘じ、私たちは生きなければいけないのである。
自分の中に「罪」がないのか、あなたの中に「正義」があるのか。
自分たちをこの律法学者やファリサイ派の人々に重ねて、よくよく吟味する必要がある。
自分はいったい何者なのか。
神様の前に畏れと慎みを持ってひれ伏し、また隣人に対して慈しみと愛と尊敬を持って接しなければいけない。
今与えられている状況は、すべて神様のご計画の中にあるのだ。
人間のエゴや思いだけで他のものを求めるのは罪ではないのか。
これは自戒である。
そして、弱い自分にも、またそのような隣人に対しても、いつも祈り続けていきたいと願う。