あえて私が牧師生命をかけて自分自身の失敗について語ったかを書きたい。
信仰を持っても覚せい剤を止められない。そんな人たち、その家族らの集まる講演会において語ったのだ。
神学生だった頃も伝道に燃えていた。すっかり覚せい剤の依存は癒されていたと思っていたが、覚せい剤の巣みたいなところに行き伝道したのだがミイラ取りがミイラになってしまった。
落ち込んだ私は1週間、祈っても応えられない地獄を経験。
この経験で、真の悔い改めに導かれ、本当の地獄とは神と交流できなくなることを悟った。
あれから8年。
私の悔い改めの実がたわわになっている。
決して、えばれた事ではないが、だからこそ、覚せい剤の怖さを広める活動を学校などで行なっている。
村上密牧師のブログでかかれた主張は当然です。
なんの反論もありません。ただ、学生時代に覚せい剤をしてしまった事実は学校側はしりません。私がいわなかったからです。按手礼をいただいたのは卒業後2年してからです。そのときも私は黙っていました。嬉しさのあまり、そのことを忘れていたのかもしれません。私が本当にずるかったのです。
私が悪いのであって、JTJ神学校にはなんの落ち度もありません。
村上牧師には、もういちど、こうして悔い改めの記事を書くことになって感謝しています。
その記事において、神学校にも多大な迷惑をかけました。深くお詫びします。
この件について、牧師按手剥奪をも覚悟して、正直に、後からですが、按手をしてくださった中野牧師にお話しました。
すると、問題なし!悔い改めの実がしっかり見えます。との回答をいただいてますます、燃えました。
神と人とに誠実に正しくありたいと思い、講演会でお話をして、カトリック新聞にも掲載を許可しました。
それは、一人でも依存で苦しむ人に、私と同じ地獄を経験してもらいたくないからです。
そして、いつでも、どこでも、だれでも人生をやり直せると言いたいのです。
悔い改めは、人間にはすぐにはわからない。しかし、その人の生活態度の変化で判断できるものです。
【新改訳改訂第3版】
ヤコブ
5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
時効7年の犯罪について、8年たってから告白するんですね。わかりますw
をスローガンに掲げていらっしゃるのであれば
時効を迎える前に自首してやり直して欲しかったです。
覚せい剤は犯罪だからです。
今になって聞かされても ただただ悲しいです。
人間は弱いからこそ神様が必要なんだと思いますし
その弱さを他人が責めることも出来ません。
企業もそうですがキリスト業界も、何でも“美談”にしようとする嫌な計算が裏目に出てしまうことってあるような気がします。
進藤さんって本当はとてもピュアな方だと…勝手ですがそんな風に思います。
進藤さんの為にお祈りし続けたいと思います。
お身体大切にしてください。
その場で自首したほうが、潔かったですね。
でも、今日に至る多くの救いのことを考えると、層でもないような気がします。
でも事実は事実なので、私は皆さんに謝罪するだけです。
神の前に、人の前に正直にいることが、損となるキリスト信仰であれば、偽善がはびこるでしょう。
も事実は事実なので、私は皆さんに謝罪するだけです。
神の前に、人の前に正直にいることが、損となるキリスト信仰であれば、偽善がはびこるでしょう。
もし私たちが、自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちを清めてくださいます。ヨハネの手紙1章9節
私はこれを信じています。
潔かったかどうか、そんな事ではないです。人として犯罪を犯したら当然のことですし
>正直にいることが
神様の御言葉を信じているのであれば損得を考えることでもないように思います。
聖書の御言葉を自分の都合の良いように解釈したりしていなければ
“いつでも どこでも だれでも やり直せる”
と 私もそんな風に思います。
犯罪としての罪と、
聖書の語る罪とは別個のものですよね・・・?
ここでヨハネの手紙1:9を持ち出すってことは、
そのあたりを混同しているのか、それとも
意図的にごっちゃにしているのか・・・。
自首した方が潔かった、なんて的を射ないような
言い回しにもそれが表れているような気がします。
たとえ神様が赦しても、世間(社会)は
覚せい剤使用の罪を赦さないでしょう・・・。
薬物使用は、重大犯罪だからです。
国(中国とか)によっては死刑に値するほどです。
だから、そのあたりの峻別ができていないと、
聖書語りの世間知らずということに
なってしまいます・・・。
本当に反省をしているのならば、いまからでも
自首して、警察の捜査に協力してください。
・・・牧師生命を賭けているんですよね?(念押し)
この記事を読んでいて、感じたことです。
確かに、何年も黙っていたのは人の心にある「弱さ」で
しょうけれど、たとえ自分で言わなくても捕まる可能性は
いつもあったはずですよね。
まずは先生にそれを勧めたその人が、誰かに漏らすか
警察に捕まって話をすれば、それで終わりです。
また宣教活動を始めたばかりの頃、眉ツバというか、
胡散くさく思って、「化けの皮をはがしてやる」とばかり
あれこれ調べ上げようとする刑事さんが複数いたとして
も、何の不思議もなかったはずですし、実際にいらした
かも知れません。でも、スルーどころか、先生を逮捕した
事のある警察官の方と一緒に、講演会までなさっています。そして、誰もつかまえに来ませんでした。
また更に、神学校の上長に告白した時にもし、
「だましたのか!けしからん!」と逆鱗にふれ、
そのまま刑事告発されていたら、そこでおしまい
だったでしょう。ところが、そうなりませんでした。
いつも、「神さまご自身の御手」が
進藤先生を護っておられるように感じます。
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると
主は言われる。
天が高く地を超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは
あなたたちの思いを、高く超えている。
(イザヤ55章8~9節)
神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
(ローマ書11章29節)
といった御言葉が頭に浮かびました。
神さまのお考えになることは、
人間には、はかりきれませんね。
反論せず、ただ謝罪される進藤さんを
私は潔いと思います。
それに比べて正義をかかげて石投げる
方たちがなんとも残念です。
マタイを読んでますと義だけでは不充分で
まったき義は愛であると聖書が語っている
ように思います。
バランスを欠いた正義には愛がないのでは
ないでしようか
進藤さんには是非、進藤さんだからできる
ことを淡々と果たされて欲しいと思います。
洗礼後に躓く時のショックがカトリック新聞の
記事で私だけではないんだと希望の光と
なることを願っております。
>進藤先生を護っておられるように感じます。
本当に護られているのなら、そもそも
牧師修行中にヤクになんかに手を出さないわけだが?
そこんトコ、どーなのよ?ねぇ。
キリストは荒野の修行中、どうしましたっけ?
牧師だけ、修行中は、悪魔の誘惑に負けていいという
論法はないよね?
それで、按手は黙って貰っちゃうんだから、全くもー。
そんな人に教会の講壇で、ブログで知ったような事語られても…。
“潔い”とか言うレベルの話しじゃないですよ!
『犯罪』ですからね!!
進藤さんは
“正義をかかげて石を投げられた”
なんて大きな勘違いされていないですよね!!
聖書的倫理観としっかりとした信仰を持って
『今からでもやり直せる』