風のいろは 何いろ?

緑を渡る時、空を吹き巡る時、風は何色なのだろう?
風には色はないけれど、私には………。

荒れ野の食卓 by ウォッチマン・ニー

2006-02-17 | 日記(旧サイト~移行分:未分類)
今日の荒れ野の食卓は とてもわかりやすい例えだ。

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2月17日

わたしたちをあなたがたといっしょに
 キリストのうちに堅く保ち、
 私たちに油を注がれた方は神です。

   II コリント 1.21


主なる神ご自身が私たちをキリストに付けました。ですから私たちの運命はキリストに握られています。

 中国の村々で福音を語るときには極めて単純なたとえを用いて話さなければなりません。

 そこで私は小さな本を取り出し、そこに一枚の紙切れをはさんだことがありました。「さあ注目してください」と私はいいました。「私は一枚の紙を取り出しましたね。この紙はこっちの本とはぜんぜん関係ないただの一枚の紙です。今はほかに使うあてもないので、この本の中に挟んでおきます。

 さて、私はこの本に用があります。この本を上海に送ります。私は紙は郵送しません。しかしその紙は本の中に挟まれたままなのです。その紙はどこにいったでしょうか。本は上海に行って、紙はここに残りますか。その紙は本から離れて別の目的地に行けるでしょうか。いいえできませんね。本が行くところに紙もついて行きます。私が本を川に落としてしまえば紙もいっしょに川に落ちてしまいますし、すばやく本を拾い上げれば、紙もまたすくいあげることになります。本がくぐりぬけてゆくあらゆる経験を、紙もまたくぐりぬけてゆきます。

 なぜなら紙は依然としてこの本の中にあるからです」。キリストのうちにあることもちょうどこのようなことです。それは主がくぐり抜けられたあらゆる事について、主と同一の立場にあることです。主は十字架に付けられました。それでは私を十字架につけてください、と願うべきでしょうか。断じて、否。私の救い主の運命はもうすでに私のものとなっています。



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