東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

地位を失ってから

2020-01-08 18:54:18 | 文章

リーダーの地位から外されてがっかりしたり、弱気になったり、いじけたりする人のことを見聞きするたび、私はそんな人たちを見下していました。ひとりひとり教会の中で異なる役割をもっているだけのことで、上下の差があるわけではなく、私たちはみな被造物であり、気落ちする必要などないと思っていましたから。ですから、新しい信者の世話をしている時も、リーダーとして奉仕している時も、自分の地位をそれほど意識したこともなく、自分が地位にこだわる人間だと思ったこともありませんでした。実際にリーダーの立場から外されたとき、自分も同じような恥ずべき行動に出てしまうなどとは、夢にも思いませんでした。

しばらく前のこと、私が実際の働きを何一つしておらず、いつも教義を宣べ伝えるばかりだったため、リーダーは私を配置転換しました。その時私は、自分の素質が地域のリーダーにふさわしくないとしても、せめて水を与える仕事くらいは許されるはずだと思いました。まさかリーダーが私に教会の庶務を担当させるなどとは全く予想していませんでした。「誇りある地域のリーダーだった私が、今日は使い走りをさせられているなんて。足されあれば、あるいは少しばかりの知恵があれば、教会の誰でもできるこんな仕事を私がするなんて」そう思って驚きました。こんな仕事を私にさせるなんて、どう考えても私の能力を無駄にしているのではないか。けれども教会の姉妹たちに、反抗的だとか、自分の地位を気にかけているなどと言われることを恐れ、自分の気持ちを心の中にしまっておきました。でも家に帰った私はベッドに倒れ込み、ひどく嫌な気持ちになりました。「何の地位もなくなる。兄弟姉妹たちは私をどんな目で見るだろう。」そんな思いで頭がいっぱいになりました。使い走りをさせられているなんて、一体どうしたらここから立ち直ることができるだろう。考えれば考えるほど、ますます落ち込んでいきました。

数日後、私は私のために仕事を用意してくれたある姉妹に会いました。会うや否や、「この仕事は簡単にできるように見えますが、献身の思いをもってしなければなりません」と言ったかと思うと、その姉妹は知恵や従順といった側面の真理について話し始めました。わたしははっきりしない口調で曖昧な返事をしていましたが、心の中は煮えくりかえっていました。「まるで私が何も知らないみたいに、あなたが私に助言するの?はじめの頃、あなたに助言していたのは私よ。それなのにこんな風に私に話しをするなんて。」その姉妹の言葉はひとつも私の心に届きませんでした。それどころか、私は長々と話すその姉妹を腹立たしく思いました。話しが終わる頃にはうんざりしきってこう言いました。「それだけ?ならもう行くわ。」家に戻った私は、何故自分があの姉妹にあのような態度をとったのだろうかと思い巡らしていました。もし彼女の地位が常に私の地位より上であるか、同じであったなら、私はあのような接し方をしただろうか。おそらくしなかっただろう。間違いなくしなかった。私が彼女を導いてきたのに、その彼女が私に問題を指摘している。だから私は納得できなかったのではないのか。私が地位に執着していた証拠ではないのか。自分の恥ずべき態度に気づいた私は急に自己嫌悪を感じ、それと共に神様からの裁きに関する言葉が心に浮かんできました。「あなたがたがこのように求めれば求めるほど、刈り入れる物は少なくなるであろう。ある人の地位に対する欲望が強ければ強いほど、それだけ深刻に取り扱われ、重大な精錬を受けなければならない。この種の人は無価値過ぎる。このような人は地位に対する欲望を完全に捨て去るため、適切な取り扱いと裁きを受ける必要がある。あなたがたが最後までこのようにして追求するならば、何も刈り入れないであろう。いのちを追求しない者は変化させられることができない。真理を渇望しない者は、真理を得られない。あなたは自分の変化の追求と入りに重点を置かず、度を越した欲望や、神への愛を縛り、神に近付くことを阻む物事にいつも重点を置く。そのような物事があなたを変化させることができるだろうか。あなたを神の国へと導くことができるだろうか。あなたの追求の目的が真理を求めることでないならば、これを機に俗世に戻ってそこでの成功を目指せばよいであろう。このようにして時間を無駄にするのは全く無価値である。なぜ自分を苦しめるのか。」(『言葉は肉において現れる』の「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」より)神様の御言葉を読み、自分自身のことを考えていくうちに、私は気づかされました。自分は真理を求めていたのでもなく、神様に満足していただこうとしていたのでもない。それどころか、自分が求めていたのは、名声、利得、地位だったと気付いたのです。地位を得たことで、私の自信は膨れ上がりました。反対に、地位を失えば不機嫌になり、働きも出来ないほど落ち込みました。私は自分の地位に気持ちを振り回され、ささいで無意味なことに1日中心穏やかでなくなり、無駄な時間を過ごしました。そこから結局何を得たのでしょうか。今日のような恥ずべき姿でしょうか。神様が私にしてくださったこと全てを思えば、私に託すことで神様に安心していただけなかったどころか、神様が与えられた仕事を、くだらない、やりたくないと言って嫌ったのです。それならば私は自分の良心に従って行動していたでしょうか。名声、利得、そして地位ばかりを追い求めていた自分の恥ずべき姿を神様に示されました。あまりにも高ぶり、傲慢になり、地位を重視していた自分に気づかせて下さった神様に、心から感謝しました。すると、ある歌が私の心に浮かんできました。「神よ!私に地位があろうとなかろうと、私は今自分をしている、私の地位が高ければそれは貴方が私を高めたおかげで、逆に低ければそれは貴方の定めだ。神よ!私に選択の余地はなく不平もない、全てが貴方の手中にある……貴方の権威のもと従順であるべきだ。なぜなら貴方はそれを定め.……貴方が私を用いるなら私は被造物、完全にされても私は創造物で、完全にされなくても私は貴方を愛するだろう。なぜなら私は被造物に過ぎないから。」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「私は取るに足りない被造物」より)私は涙と共に何度もこの歌を歌いました。そして神様の前に出て祈りました。「神様!あなたの御言葉を通して、私はあなたの意図が理解できるようになりました。地位の高低に関係なく、私はあなたによって造られたものです。あなたの定めに完全に従わなければなりません。あなたが託された本分を選り好みせず、被造物のひとりとして託された本分に全力で取り組まなくてはなりません。神様!私はあなたの定めに従い、畑で働く牛のように、あなたの意のままに用いられることを願います。自分の地位のために葛藤したり、あなたを苦しめたり傷つけたりするようなことは二度としません。ああ神様、私を更に取り扱い、裁き、地位に対する欲望を明け渡せるようにしてください。あなたに近づく妨げとなる全てのものから解放されるよう私を扱ってください。そしてさらにあなたを愛し、心から与えられた本分を全うできるものとしてください。

河南省焦作市 ホイミン


自分の真の姿をはっきり見る

2020-01-07 21:03:42 | 信仰と生活

江蘇省徐州市 小小

教会での働きの必要性から私は配置転換となり、新たな場所で働きをすることになりました。当時その地での伝道活動は低調で、兄弟姉妹たちの状態も概してよくありませんでした。それでも聖霊に心を動かされた私は、任された仕事を全て自信をもって引き受けました。仕事を引き受けた私は、大きな責任感と神からの導きと示しに満たされ、自分は相当意志が固いとさえ思っていました。自分には能力があり、この仕事を上手くできると信じていました。でも実際には、聖霊の働きについて、そして自分の本性について、私はまだ何も分かっていませんでした。完全に自己満足と自画自賛に浸かって生きていました。

私の心が自尊心でいっぱいだったちょうどそのころ、あるホストファミリーのお宅で、私の担当する働きの責任者をしていた兄弟と出会いました。彼に仕事の進捗状況を聞かれたので、きっと私の能力や優れた洞察力に感心するだろうと思いながら、彼の質問にひとつひとつ答えていきました。ところが私の予想は外れました。私の話を聞き終わると、彼は感謝して頷きもしないどころか、私が十分成果を出しておらず、人の動員の仕方も不適正で、何の成果も出していないなどと言ったのです。彼の不満げな表情と自分に対する評価に、私の心は突然冷めてしまいました。そして思いました。「成果が不十分だと言うの?もし私が何も成果を出していないと言うのなら、成果を出したと言えるには一体どれだけやれば良いの?こんなつまらない仕事を嫌がらずに、進んで引き受けた、それだけでも十分なはずなのに、彼は私が仕事を上手くやっていないと言うの?」私の心はひどく反抗的になり、傷ついて涙がこぼれそうになりました。そして私の中の傲慢、反抗心、不満といったものが突然姿を現しました。「私の力ではこれが精一杯よ。私なりに最善を尽くしたわ。不十分なら誰かほかの人を探せばいいのよ・・。」私はひどく落ち込み、どうしてよいか分からなくなり、彼がその後何を話しているのか分からなくなりました。その兄弟と会った後の数日間で、自信にあふれていた私は憂鬱になり、落ち込み、数日前まで自分を誇らしく思っていた私の心は悲しみでいっぱいになってしまいました。私は喪失感に包まれました。その暗闇の中で、私は神の御言葉を思い出しました。「ペテロは、神を愛する人の姿を生きること、神に従い、神による刈り込みや取り扱いを受け入れ…」(『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)「それに比べて私はというと、成果が不十分なことを少し批判されただけで腹を立て、辞めたくなっている。これが、自ら進んで神による刈り込みや取り扱いを受け入れようとしている人間か。これがペテロのように神を愛そうとすることか。私の態度は神が嫌われるようなものではないのか。人から仕事ができないと言われたくない、賞賛されたい、褒められたいという思いだけではないのか-これは最も卑しい目的ではないのか。」そう思った瞬間、私の心の中に一筋の光が差しました。そこで『言葉は肉において現れる』を開き、読んでいくと、次の個所が目に留まりました。「あなたがたにとっては、自己を知るという真理にさらなる努力を捧げるのが最善であろう。なぜあなたがたは神に気に入られていないのか。なぜあなたがたの性質は神に嫌われるのか。なぜあなたがたの話す言葉は神にとっていまわしいのか。少々の忠実を示したとたんに、あなたがたは自分を称賛し、わずかな犠牲に対する褒美を要求する。ほんの少しの従順を示しただけで、他者を見下し、ささいな業を達成しただけで、神を軽蔑する。…あなたがたのそのような人間性は、話すのも聞くのも正に不快である。あなたがたの言動に何か称賛に価するものはあるのか。…これを可笑しいとは思わないのか。自分は神を信じていると十分に知りつつ、あなたがたはそれでも神と相容れることができない。自分には全然とりえがないことを十分に知りつつ、それでも自慢することにこだわる。あなたがたはもはや自制心をもたないところまで自分の理知が劣化してしまったとは感じないのか。そのような理知しかなくて、どうして神と関わる資格があるのか。あなたがたはこの重大事に自分のことが心配ではないのか。あなたがたの性質は既に、神と相容れることができないところまで劣化している。このような状態で、あなたがたの信仰は滑稽ではないか。あなたがたの信仰はばかげていないだろうか。あなたは自分の未来にどのように向かって行くつもりなのか。歩くべき道をどのように選ぶつもりなのか。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より)神の御言葉は私の本質を刺し通し、私は言葉を失いました。私は自分の姿に深く恥じ入りました。私の理性、そして心の中の葛藤は煙のように宙を舞って消えていきました。その瞬間、私は神の御言葉の力と権威を心の奥底で自分のものとして理解できました。御言葉の啓示を通して、私はやっと知りました―自分に与えられた働きをするなかで、私は、神に満足して頂くために常に精一杯働き、最高の結果を出そうとしていなかった。現状に満足し自己満足に浸っていただけだったと。私は、自分の置かれた状況が神に嫌われると自覚せず、誰かに批判されると、不当な扱いを受けたと感じてさえいました。私は実に無知で分別に欠けていました。いつも僅かな実績にも称賛を求め、すぐに称賛を得られなければやる気が失せました。自分のした事を感謝されずに疑問視されればイライラと不機嫌になりました。そう思った瞬間、自分の顔は偽善に満ちていると気づきました。私の働き方は自分の要求と取り引きを伴うもので、不純物でいっぱいであると気づきました。神に満足していただくためでも、神の愛に報いるためでもなく、隠れた動機によって働いていました。

それまでは、神の御言葉が人間の醜さを露わにするような時でも私の心に光が射すことはなく、神の御言葉は誇張され過ぎだと思っていました。私の目が開かれたのは、ひたすら神が示して下さったからです。今日私が自分の働きを全うできるのは、神が引き上げて下さったからで、神の素晴らしい愛によるものです。それでも私はその事実を大切で価値あるものとせず、何の価値も意味もないものばかりを追い求めていました。人に褒められ、称賛され、注目され、そして誰にとっても存在感のある人でいることを追い求めていました。そのようなものにどんな意味があるというのでしょうか。人はパンだけで生きるのではなく、キリストが語られる一つ一つの言葉によって生きると言われています。でも私は何に頼って生活していたでしょうか。他人が私にどのように振る舞うか、どのように私を見ているか、そればかりを気にして生きていました。そしてそのようなものが私にどのような損得をもたらすかをよく心配していました。僅かばかりの誉め言葉や称賛、慰めや優しい言葉で元気になり、そうかと思えば、非難の言葉を少しでも聞いたり、否定的な表情を見たりすれば意気消沈し、無気力になり、どの方向へ進めば良いか分からなっていました―結局のところ、なぜ私は神を信じているのだろう、人々に認められたいからなのだろうか、と。神の御言葉が明らかにしているように、私にとって重要だったのは、真理でも、人間として生きることの原理でも、神の偉大な働きでもなく、私の肉が愛するもので、私の人生に何の利益ももたらさないものだったのです。周囲が私に示す熱意など、神の私に対する称賛の証明となるでしょうか。私が神の御旨に叶わないなら、私の仕事は無意味ではないでしょうか。神様、私の目を開いて下さり、感謝します。私自身の啓示の体験から、私はキリストの存在と、人類を救うためにキリストが世に来られたことを思いました。人々の神に対する態度はどうだったでしょうか。神は聖なるお方であり、崇められるべきお方、栄光なる神ご自身であるのに、いったい誰が神を尊いお方とし、心の中に神を受け入れ、心から神に栄光を捧げているでしょうか。反抗心や抵抗だけでなく、人が現わすものはどれも神への拒絶です。それでもキリストは不平を言うことも、人をその罪に従って扱うこともなさらない。神はあらゆる困難を静かに耐え、人類のため無私に費やされます。しかしキリストの謙虚さや優しさ、寛容を心から褒めたたえる者がひとりでもいるでしょうか。キリストと比較することで、私は自分の心がいかに狭いか、何かあれば不平を言い、いつでも人に褒められたい、認められたいと思う自分に気づかされ、自分勝手で卑劣で、恥知らずな自分の振舞いに気づかされました。このような卑しい性格でも、自分は金と同じくらい尊いと考えていたのです。人間の理性はもはや人間には制御できないまでになってしまった、そう神が言われるのも当然です。私は神の御言葉に深く納得しました。この時、万物の主であるキリストの傍にいたいという強い思いが、私の心の奥深くで自然に生まれました。私は神に祈らずにはいられませんでした。「ああ神様、あなたのご性質、本質、そして善良さを羨望して止みません。あなたと比べることができる人間などいません。あなたが示し、明らかにされ、見せて下さったことはすべて、あなたの美しさ、徳、義、そして権威です。ああ神様!あなたは私の心を開き、私を恥じ入らせ、を垂れさせました。あなたは私の自尊心やうぬぼれを良くご存知です。あなたのすばらしい指揮と采配なしでは、私を扱うためにあなたが兄弟を送られなかったならば、もうとっくに自分がどのような人間かを忘れていたでしょう。あなたの栄光を盗んでおきながら自分を誇りに思う私は、何と恥知らずだったことでしょう。ああ神様。あなたの啓示と御守りに感謝します。自分の真の姿がはっきりと見え、あなたの素晴らしさを発見しました。ああ神様!私はもう後ろ向きでいたくありません。もう卑しいもののために生きたくはありません。私の唯一の願いは、あなたの刑罰と審判、あなたの鞭と鍛錬を通してあなたを知ること、あなたを求めること、そしてそれ以上に、あなたの取り扱いと刈り込みによって私のなすべき働きを成し遂げ、あなたに報いることです。」

 


外見から人を識別することはできない

2020-01-06 21:40:10 | 信仰と生活

山西省ユイツー市 楊蕊

私はいつも、父は善人だと心の中で思っていました。しかしある日、父が教会から追放されたと突然聞きました。その時はすっかり驚いてしまい、なぜそのようなことになったのか見当もつきませんでした。私の心の中で、父は世界で一番立派な人でした。短気を起こすこともありましたが、私たち姉妹の面倒をちゃんと見てくれますし、私たちを叩いたり叱ったりすることもありませんでした。私たちの家庭にも苦労はありましたが、父はどれほどの苦しみに耐えなければならないとしても、私たちまで憤慨することがないようにしてくれていました。家族全員が神様の働きを受け入れると、父は本分を尽くすことによりいっそう熱心になり、私たちにも各自の本分を正しく尽くすようよく促しました。父は粗野になることも時折ありましたが、尽くすべき本分があればすぐに、風雨や困難の度合いに関わらず、それをやり遂げる方法を見つけていました。そのような善良な人物がどうして追放されるのでしょう。父が救われないならば、一体誰が救われるというのでしょうか。このことは、私の心を憤りと葛藤で一杯にしました。教会が父を公正に扱っていないと感じたからです。それを口に出すことはありませんでしたが、心を鎮めることは難しく、私は苦しみ悶えました。

数日前、私は神様の次の御言葉を目にしました。

「あなたの長年の神への信仰の日々において、あなたは誰ものろったことはなく、何も悪いことをしたことがないかもしれない。しかし、あなたのキリストとの関わりにおいて、あなたは真実を語れず、誠実に振る舞えず、キリストの言葉に従えない。そのため、あなたは世界で一番腹黒く邪悪な人である、とわたしは言う。あなたは親戚、友人、妻(あるいは夫)、息子や娘、両親には極めて親切で献身的で、決して他人を利用したりはしないかもしれない。しかし、キリストと相容れることができないのなら、キリストと調和して交流することができないのなら、たとえあなたが隣人を助けるためにすべてを捧げたり、父や母、その他の家族を細やかに世話したりしても、あなたはそれでも悪意があり、さらにずるがしこい策略に満ちている、とわたしは言う。他人と仲良くしているからや少しの善行を行うからというだけで、自分はキリストと相容れると思ってはならない。あなたは自分の親切な意図が天の恵みをだまし取れると思っているのか。少しの善行をすることが、従順になることの代わりになると思っているのか。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より)

神様の御言葉を反芻するうちに、次のことがだんだんと分かってきました。人が義であるか邪悪であるかを見分けるには、表向きの行いがよいか悪いか、または他人とどのような関係を築いているかを基準とすべきではありません。むしろ、神様とどのような関係を築いているか、神様に心から従順で、神様を畏れているかどうか、神様と相容れるかどうかを基準とすべきなのです。他人と良好な関係を築き、頻繁に助け、愛をもって接している人もいるかもしれませんが、神様と相容れることができず、自分の本分に個人的な動機が混じっていて、神様の働きが自分の観念と相容れないときに神様を裁いて抵抗するなら、その人は偽善者です。そのような人は悪賢く、裏表がある悪人なのです。それを理解したとき、私は父が外に表していたことをいくつか思い出しました。前に属していた教派で、父は指導者でした。今の段階の神様の働きを受け入れた後、教会の兄弟姉妹は、本性があまりに傲慢であることを理由に父を指導者に選出しませんでした。表向きは従順を装い、言われたことにすべて従っていましたが、その秘めた動機は指導者の「座」に返り咲くことだったのです。その後、自分の願いが叶わないとなると、父は本性を表し、教会でいつも高慢そのものに振る舞い、誰の意見にも耳を貸さず、何であろうと自分の意見を聞くように人々に強要しました。自分の好みに合わない同労者を見ると、その人を裁き、けなし、見下しました。また兄弟姉妹のあいだに不和の種を蒔き、教会生活をひどく妨げ動揺させました。指導者や同労者は何度も父と真理について交わり、父を刈り込んで取り扱い、警告を与えましたが、それでも父はまったく気に留めず、まして後悔の念を示すことなどありませんでした。これは悪人の振る舞いではないでしょうか。まさに神様が次のようにおっしゃった通りです。「人が人を判断する基準は人の振る舞いである。行いが善い者は義なる人であり、行いが悪い者は邪悪な者である。神が人を判断する基準は、その本質が神に従順であるかどうかである。つまり、その人の振る舞いが良いか悪いか、語る言葉が正しいかそうでないかに関わらず、神に従順な者は義であり、不従順な者は敵であり、悪者である。」(『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より)

神様の御言葉によると、父の行いは神様の指揮や采配に従うものではなく、教会に混乱をもたらすものでした。父は権力と地位を求めてありとあらゆる悪事を行ったのです。このような本質は神様に抵抗するものであり、悪人のものです。しかし私は、自分を可愛がってくれたり、面倒を見てくれたり、本分を尽くせたりするといった表向きの行いを基準にして父を善良な人だと判断し、教会は父を追放すべきではなかったと考えていたのです。しかし、表向き善良な父の行いは、神様に従うこととは異なります。もっと言えば、それは「義なるもの」とは呼べません。神様の指揮に心から従い、神様の刑罰と裁きを進んで受け入れ、性質の変化を求める人だけが救われるのです。父が現在の状況にいるのは、ひとえに父自身の責任でした。それは自分の恐ろしい本性のためであり、他の誰のせいでもなかったのです。さらにそれは、神様の義なる性質の現れでした。

ああ、神様。この環境をお使いになり、真理のこの側面を見せてくださることで、私の誤った見方を正してくださったこと、あなたの聖さを見せてくださったこと、そしてあなたの義にして威厳に満ちた性質に誰も背いてはならないと理解させてくださったことに感謝します。今回のことにより、真理がなければ物事を見分けることも見抜くこともできないと理解しました。今後、何が起こっても、外見で人を判断することは決してしません。真理の観点で物事を見て、あなたの御業を残らず受け入れなければならないのです。あなたの御業を見通せなくても、それはすべて正しいと信じます。人間の観点から物事を分析したり、検証したりすることはもうしません。私は真理の側に立ち、あなたの証しをすべく常に自分を戒めてまいります。


キリスト教讃美歌「人の子が現れました」神の祝福がゆえに本当の楽しみがある

2020-01-05 21:54:04 | 教会讃美歌

 

キリスト教讃美歌「人の子が現れました」神の祝福がゆえに本当の楽しみがある
世界の東から(東…東…)
一筋の光が現われ(光…光…)
西の果てまで照らします
人の子が地に降臨しました

救い主が戻られました、彼は全能神
真理を表し、新時代を始めました
人の子が現れました。(本当?)
神が来られました。(おお!)
神は人類に永遠のいのちの道をもたらします
新しい天と地、新しい時代
新しい人間、新しい道、新しい生活
新しいエルサレムが地に降臨しました

私達は神の家へ戻り
教会生活をおくり
神の言葉を毎日飲み食いし
神の愛の中で育ちます
さあ、来て歌いましょう!(よし!)
私は踊ります!(踊ろう!)
私達の生活はまことに楽しい。(真に楽しい)
私達は神と一緒にいます。(真に楽しみます。)
私達は神の祝福を得ています。(真に幸せ)
キリストの国は暖かい家庭です

全能神、終わりの日のキリスト
私達がお慕いする最愛の人
神が発するあらゆる言葉は真理で
私達を潤します
神は振る舞い方、正直になる方法を
私達に教えてくださいます
神の祝福の中で生き
私達は心から神を愛します

神の言葉の裁きは全ての人々の心を征服します
神の民は清められ、神を証しします
心を一つにし(本分を尽くす)
神の愛に報い(神を証しする)
神の国の福音を宣べ伝えよう。(神の国の福音)
神の言葉は世界中に伝わります
神の聖き名は皆に賛美されます
キリストの国はこの地に実現されます
心を一つにし(本分を尽くす)
神の愛に報い(神を証しする)
神の国の福音を宣べ伝える。(神の国の福音)
神の言葉は世界中に伝わります
神の聖き名は皆に賛美されます
キリストの国はこの地に実現されます
キリストの国はこの地に実現されます
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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礼拝賛美ダンス「教会生活の何という喜び」歌詞付き


純真な人は必ずしも正直だとは限らない

2020-01-04 21:32:38 | 信仰と生活

私は自分を社交的で率直な人だと思い、人とはとても正直に話しをします。言いたいことは何でもそのまま口にしてしまいます。回りくどい言い方はしないタイプです。人とは正直に交流するようにしています。ですが、私はあまりにも簡単に人を信用してしまうので、頻繁に騙されたり、からかわれてしまうのですが、教会に行き始めてからは、やっと自分に合った場所を見つけたと感じていました。私は、「前は自分の純真さのおかげで不利な立場に置かれて、人に騙されやすくなっていたけども、教会に来たら、神は正直な人達、すなわち世間からバカにされてきた人達を好まれるから、純真すぎることはもう心配いらないいだろう」と思っていました。神は正直で真面目な人達を愛され、正直な人達のみが神の御救いを受けることができると聞いた時は得に安心しました。私は、兄弟姉妹達がそれぞれ不実の本性を持っていることに気が付いても、それを変えることができなくて頭を悩ませているところを見て、正直で率直な私はそんな心配をすることがないと思い、さらに安心していたのです。しかし、私はある日、神の御啓示を受け、私は自分が思っていたような正直な人ではなかったことに気が付いたのでした。

ある日、私は神がこう言われたのを耳にしました。「正直な人々は真理を持ち、惨めでなく、哀れでなく、愚かでなく、無邪気ではありません…それだから、あなたが社会で苦しみ、差別され、出会うすべての人に手荒に扱われ、欺かれているためにあなたが正直であると思って、この冠をあなたの頭に乗せないでください。これはまったく間違っています…正直であることは人々が想像するようではありません—人々は率直で公明正大であるという理由だけで正直です—それはありのままではありません。」(『キリストの言葉の記録』より)神の御言葉は私の状況と完全に一致していました。実際に、私は回りくどい話し方をしないし、頻繁に人から騙されるということは、私には不実な部分や悪賢い部分はないことを意味しているんだと常に思っていました。結果的に、私は神が暴露される人の不実さと悪賢さに対して個人的には共感したことが一度もなく、その代りに、自分が正直さの見本であるなどと思い上がっていたのです。他の皆は不実で、どう言う訳か私だけが違って、この誠実さをもって生まれたとまで思っていました。この私の考えは、神にとっては非常に不快なものだったのです。この時私は、神の他の御言葉を思い出しました。「正直であるということは、神に心を捧げるということである──何事にも神を偽らないこと、あらゆることについて、神に率直であること、事実を隠そうとしないこと、上の者に対して偽りなく、下の者を惑わすことがないこと、そして、神に取り入る為だけに物事をするようなことが決してないこと。つまり、正直であるということは、言行において不純でないことであり、神をも人をも欺かないということである。…もしあなたの言葉が言い訳と無価値な正当化だらけだとしたら、あなたには、真理を行おうという気持ちがないのだ。もしあなたが他人に言うことのできない秘密を多数抱え込んでいながら、光明を求めて自分の秘密──自分の中にあるやっかいな部分──を他人に打ち明けないでいるとしたら、あなたが救いを受けることは難しく、闇から抜け出すことも容易ではない。もしあなたが真理の道を求めることに喜びを感じるのなら、あなたはしばしば光の中に生きている。神の家で効力者であることを喜ぶ人で、人に知られなくとも勤勉に、良心的な仕事をし、決して何かを得ようとせず、常に与える者であるのなら、その人は忠実な聖徒だと言おう。報いを求めず、ただ正直であるのだから。率直であろうとし、すべてを与える心があり、神のために命を犠牲にして証しすることができるのなら、正直で、神が喜ぶことだけを願い、自分のことは考えず、自分のためには何も求めようとしないなら、そのような人は光に養われ、神の国で永遠に生きるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より)神の仰る正直な人とは、利己的な出世や将来の計画を考えずに、自分の心を神に委ねる人のことなのだと私は気づきました。神とは取引をしたり、報酬を要求することなどできません。正直な人は神にご満足いただくために生きるのです。正直な人は神に対してこの上ない程に忠実であり、決して神を欺こうとはしないのです。正直な人はそれぞれの本分を尽くすことに非常に熱心であり、決して仕事をさぼったり、仕事をしているふりをしたりもしません。正直な人は神の前では全てをさらけ出し、それぞれの兄弟姉妹達と自分の私的な事柄や個人的な苦難も共有するのです。正直な人は内容を薄くしたような話をせず、ありのままに話をするのです。正直な人は真実を持ち、人間味があります。一方私は、正直な人であることの意味など全く解っていませんでした。私の世俗的な判断では、神の仰る「正直な人」とは私達が俗世間で言う「純真な人」のことだったのですが、神の仰る「正直な人」と私にとっての「正直な人」は似ても似つかないものだったのです。私はとても無知で、非見識だったのです。

サタンは何千年にも渡って私達を汚し、私達は皆サタンの嫌悪と悪事に満ちた環境で育ちました。私達の発する言葉や行い、私達の社会における振る舞いはすべてサタンの思い通りなのです。「静かな舌は賢い頭をつくる」、「われ勝ちに逃げろ、悪魔は一番遅れた者を捕まえる」、「矛盾したことを言う」といったようなサタンの言葉は既に人の無意識の中に植え付けられているのです。これらは私達を不実と悪賢さに追いやるものでありながら、私達の生活の本質的な部分でもあるのです。全ての人達が不実と悪賢さに苦しむ中、なぜ私は不思議とその影響を受けないだとか、生まれつき正直であるなどと考えたのか?私は隠しだてをしない、率直な人間だからこそ、率直に、曖昧な言葉を使わずに喋るのです。私は無知で賢くないから人によく騙されるけども、だからと言って私は正直な人であるという訳でもないのです。振り返ってみると、私は自分の評判や地位を維持するためにごまかしや嘘をついたことが何回あっただろうか?純粋で纏まった心で神を信じる代わりに、将来の不安に浸ったことも今まで何回あったことか?神に全てを捧げ、結果的に全てを失うことを恐れた私は、神からの約束を常に欲していたのです。いつか神の国に入れるという保証が欲しかったのです。そうでない限り、私は心配せずに心から真理を求めることはできなかったのです。私は今まで自分の本分を尽くす課程において、神に対して不忠実になり、小さな損得について空騒ぎをしたことが何回あっただろうか?そして、私は、神の御機嫌を取ろうと、これ見よがしで口先だけの空言を発して決意をしてはそれを破るといったことを何度繰り返して来ただろうか?兄弟姉妹達に見下されることを恐れる中、心を開き自分の個人的な問題や私的な事柄を共有しなかったことが何回あったのか?利己的な利益につながるだろうと信じたことのみを口にし、自分の守りを固め、他人を疑うといったことを何回やってきただろう?。。。振り返ってみると、私自身の思考、言葉、行動がすべて不実と虚偽で満ちていたように思えます。結果的に、私の信仰における観念、貢献、他の人達や神との交流、そして私の本分の尽くし方すべてが不実さで染まっていたのです。私はまさに不実さの本質そのものに沿って絶えず生きていたのです。

神様、私はあなたの御啓示に感謝し、そして正直な人とはただ単に率直に喋る純真な人のことではなく、真理と人間味を持つ人なのであるということをお示しくださったことに感謝いたします。私が神の御定義に沿った正直な人ではなく、神様が明らかにされたサタンの不実な本性に苦しむ人であると明らかにしていただいたことにも感謝しています。神様、これから私は正直な人になれるよう努力をしていきます。私が自分を軽蔑し、自分の肉を拒み、すぐにでも真理と人間味を兼ね備えた正直な人になれるうように、どうか私という人をさらけ出して、私自身の不実な本性を深く理解させてください。

陕西省西安市 程明潔