東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

神様を褒め称えて証しする私の実践はとても馬鹿げていた

2020-01-03 23:55:33 | 文章

張誠(山東省)

教会の一部の指導者や同労者が、いつも自分の証しをして自分の前に兄弟姉妹を連れてきたせいで反キリストになり、神様によって淘汰されるのを見るたび、私は自分に警告しました。万事においても必ず神様を褒め称え、神様の証しをしなければならない。敗者の道に足を踏み入れないよう、どんな状況でも自分を誇示したり褒め称えたりしてはならない。そのため、私は交わりを行なうたび、自分の堕落を露わにすることだけに集中し、実践や入りについて好ましい側面から語ることはありませんでした。私に小さな入りや変化があったと他の人たちが言っても、すぐさまそれを否定しました。このように実践することが神様を褒め称えて証しすることだと信じていたのです。

ある日の交わりで次のような話を聞きました。「神様を褒め称えて証しすることについて、一部の人の認識は不完全です。そのため、そのような人の実践することは完全に正しいとは言えません。そのような人は、神様の働きの経験について話すとはおもに自分の堕落を知っていること、自分の堕落を露わにすること、己をさらけ出すことを実践することについて語り、露わになった自分の堕落を解剖することだと考えています。それだけが神様を褒め称えて証しすることだと考えているのです。そのような経験の側面と証しを、自分における変化や自分が変わる過程、あるいは自分の現実への入りとして語ることは、神様ではなく自分への証しをしているようなものです。この認識は正しいですか。自分が変化を経験した過程について語るのは、自分の証しをすることに相当しますか。しません……私たちが理解しなければならないのは、最も効果的に人々を神様の御前へと導くためには、否定的な経験しか語らず、好ましい入りについて何も言わないなら、その効果は限られ、理想的でなく、人々には道がないままであるということです。交わりのあいだ、他の人はあなたがどのように自分をさらけ出し、どのように自分を解剖し、どのように自分をむき出しにするかしかわかりません。あなたの好ましい入りについてはどうですか。あなたの実践についてはどうですか。どのような実践の道を人々にもたらしますか。今からどのように実践すべきかを、あなたは人に語っていません……自分への証しをするとはどういうことかがわからない人がいます。そのような人は、自分の好ましい側面や現実への入りの側面について語ることが、自分への証しをすることだと考えます。しかし実際には、こちらの方が神様へのよりよい証し、より完全な証しなのです。私たちがわずかでも現実を得、いくらかの善行をなし、本分を尽くすにあたって忠実でいられることは、神様の愛ではないでしょうか。神様のお恵みではないでしょうか。聖霊の働きの成果ではないでしょうか。こうしたことについて語ることで、神様の全能性、神様の働きがいかに人間の救いの働きであるのか、神様の御言葉がいかに人間を変え、完全にし、救えるのかについての証しをもさらにできるようになります。ゆえに、神様の働きの証しをするには、自分自身の好ましい入りについて、それまで入れなかったのが、どのようにして最終的に入れるようになったのかについて、自分を認識できなかったのが、どのようにして最終的に認識できるようになり、また自分の本性の本質を認識できるようになったのかについて、神様に抵抗したり反抗したりしていたのが、どのようにして神様に従い、満足していただき、神様の証しをできるようになったのかについて話すことも求められます。こうした経験や証しをそっくりそのまま交わりにおいて語ることができれば、あなたの神様への証しは完全無欠です。それだけが、本当の意味で神様を褒め称えて証しすることなのです……自分の堕落や醜さばかり話し続けて、それから十年以上経っても自分の変化について何も話せないなら、それは神様を褒め称えて証しすることでしょうか。神様を讃えることでしょうか。神様の働きの全能性を証しできるでしょうか……あなたの証しによって人々が否定的になって神様から離れるなら、それは証しではありません。あなたの働きは神様に反対するものであり、サタンの働きです。神様に反対する働きなのです」(『いのちに入ることに関する交わりと説教(3)』の「問答集」より)私はこれを聞いて、頑なに自分を暴いたり、自分の堕落が明らかにされたことについて語ったりすることは、神様を褒め称えて証しすることではないと突如気づきました。真に神様の証しをして神様を褒め称えるのは、神様の裁きと刑罰の働きを経験する中で、自分の堕落した本質を知るようになったことを語ることだけではありません。それより大事なのは、自分の好ましい実践や入りについて何かを語ることなのです。例えば、自分はどのような真理を知るようになったのか、神様について何を知るようになったのか、神様の働きがどのような成果を自分にもたらしたのか、自分の古い性質がどのように変化したのか、などです。経験や認識のこのような側面を誠実に語れば、あなたが話す実際の経験を通じて、兄弟姉妹は神様についての認識を得、神様の働きが本当に人を救って変えることができることを知るようになり、かくして彼らの中に神様への真の信仰が生じると同時に、実践と入りの道を彼らに与え、いかにして神様に満足していただくか、いかにして神様の御言葉の現実に入るべきかを教えるのです。これだけが真に神様を褒め称えて証しすることであり、そのような証しだけがサタンに恥をかかせることができます。一方、神様を褒め称えて証しすることに関する私の認識はあまりに偏り、あまりに馬鹿げていました。兄弟姉妹が自分を軽んじるよう、彼らの前で自分自身の堕落についてもっと語ることが神様を褒め称えて証しすることであると思い、自分の入りの好ましい側面について語るのは、自分を褒め称えて自分自身に証しすることだと考えていたのです。私は何と愚かだったのでしょう。神様を褒め称えて証しする自分の実践とその成果について、ここで考えずにはいられません。

あるとき、私を自宅に招いてくれていた姉妹がこう言ったのを覚えています。「指導者の皆さんは家族と仕事を捨てて家から離れた場所で本分を尽くし、多くの苦しみを受け、多くのことを経験し、多くの真理を理解するようになられました。皆さんには入りと変化が生じています。でも、自宅にとどまっている私は肉体に束縛され過ぎで、神様の御前で心が落ち着くこともほとんどなく、何の変化も生じていません。私も皆さんのようになりたいです」私はこれを聞いて考えました。「神様を褒め称えて証ししなければならない。自分の堕落について話し、自分の変化を語ってはいけない。さもないとこの姉妹は私を尊敬してしまう」その結果、自分がかつてはどのように傲慢で、本分を尽くすときも教会の采配に従わず、兄弟姉妹と仲良くできなかったこと、自分の言葉にどれほど偽りが混じっているかということ、どのようにして人を騙し、人を疑ったかということを語るようにしました……私の交わりを聞いたあと、姉妹は言いました。「指導者の皆さんはほぼ完全に変わったのだと思ってましたが、実は変わっていなかったんですね。なんだ。誰も変わっていない。ということは、私はもっとひどいんですね」その後、その姉妹はもはや私を尊敬せず、仰ぎ見ることもありませんでしたが、結果として否定的になってしまい、自分が救われる望みはないと考えてしまいました。ある集まりで、私は自分の堕落の一側面、つまり神様について観念を抱いていたことを兄弟姉妹に語ったことがあります。そのときは神様について観念を抱いていたことについて語っただけで、その観念をどのように解決したかは語りませんでした。その結果、そのような観念など抱いていなかった兄弟姉妹が、私の交わりを聞いて観念を抱くようになってしまいました。そうした例は他にもあります。これが、神様を褒め称えて証しすることだと自分で思い込んでいたことの効果だったのです。神様を褒め称えて証しする私の実践は、神様の御言葉の権威と威厳を証ししなかっただけでなく、人々を救い、変え、完全にする神様の働きについて、兄弟姉妹に疑いと観念を抱かせてしまいました。彼らは救いへの信仰を失ったばかりか、真理を追い求める動機も積極的に協力する決意も持たなくなりました。神様を褒め称えて証しする私の実践は、神様の優しさや美しさや義を人々に証しすることなく、人を救い、人にご自身の愛を示し、人がご自身を知るようになさろうとする神様の愛情深い意図の証しもしませんでした。その代わりに神様への観念と誤解を兄弟姉妹に生じさせ、彼らは間違った状態の中で生きるようになりました。どうして私が神様を褒め称えて証ししていたのでしょうか。私は単に消極性を広め、死を放っていたのです。実質的には、人を傷つけ破壊をもたらしていたのです。外面的には明らかな悪事など何一つしていないように見えるものの、私の行為の本質は神様への反抗であり、人と神様との関係に不和の種を蒔き、兄弟姉妹の積極性を攻撃し、彼らが神様から離れるようにしていました。私は純然たる悪事を働いていたのです。これはまことに神様に嫌われ、憎まれる行ないです。

真に神様を褒め称えて証しするとはどういうことなのかを私に照らし、神様を褒め称えて証しすることについての私の理解がどれほど馬鹿げていたかを知らしめ、神様を褒め称えて証しすることだと自分で思い込んでいたことが実質的には神様への深刻な抵抗であると気づかせてくださった神様に感謝いたします。以前のまま続けていたならば、私に起こり得たことは最終的に淘汰され、懲罰されることだけだったでしょう。神様に仕えながら神様に抵抗していたからです。その日以来、私は自分の馬鹿げた実践の方法を変えようと望みました。自分を知ることについて話すときは、好ましい入りへの道や、神様の御言葉を経験して実践することの証しについてもっと語らなければなりません。そして自分が知るようになったことを残らず証ししなければなりません。それにより、兄弟姉妹は私の経験と認識に助けられ、神様の御心を認識し、神様の働きを経験し、神様についての認識を獲得することができ、真に神様の御前へと導かれることでしょう。

 


第6章 神への信仰において備えるべきいくつかの識別

2020-01-02 18:55:50 | 信仰と生活

4. 真の道と偽りの道、真の教会と偽の教会の識別
関連する神の言葉

真の道を探求する上での最も基本的な原則は何だろう。あなたは、この道に聖霊の働きがあるかどうか、それらの言葉が真理を述べているかどうか、誰について証しされているのか、それが何をもたらすか、といったことを調べなければならない。真の道と偽りの道とを判別するには、いくつかの基本的な知識が必要だ。最も基本的なことは、そこに聖霊の働きがあるかどうか、ということである。人間の神への信仰の真髄は神の霊を信じることであるからだ。そして、受肉した神への信仰でさえ、その肉が神の霊の体現であることに基づいている。だから、そうした信仰はなおも聖霊への信仰であるということになる。霊と肉の間には違いがある。しかし、この肉体は霊から来たものであり、肉となった言葉であるのだから、人間が信じるのは、なおも神に内在する実質なのだ。そこで、それが真の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。この真理は正常の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)正常の人間性すべてである。即ち、この道が人間を正常な人間性の生活に導けるのかどうかを見極めなければならない。述べられている真理が正常の人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的で現実的であるかどうか、また、それは最も時宜にかなったものであるかどうか、といったことを見極めなければならない。もし真理があるのなら、それは人間を普通の現実的経験へと導くことができるはずだ。更に、人間はいっそう正常になり、人間としての理知はより完全になる。人間の肉体における生活と霊的生活とはさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽はより正常なものとなる。これが第二の原則である。もうひとつの原則がある。それは、人間は神についてより多くの認識をもっているかどうか、そのような業と真理を経験することは神への愛を呼び起こすかどうか、その人をより親密に神のもとへ近づけるかどうかということだ。このことによって、それが真の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間にいのちを与えるものであるかどうかということだ。もしそうした原則にかなうものであれば、この道が真の道であると結論づけられる。わたしがこれらのことを述べるのは、あなた方の将来の経験において別の道を受け入れさせるためではなく、また、もうひとつ別の新時代の業が将来現れると予言するためでもない。わたしがこれらのことを述べるのは、あなた方が、今ある道が真の道であると確信でき、今日の業をただ半信半疑で信じ、その業について不確かで見通すことができないようなことのないようにするためである。自分では確信を持ってはいても、まだ惑いの道を辿っている人々さえいる。そのような確信は信条に基づいたものではないから、彼らは遅かれ早かれ、除かれなければならない。とりわけ熱心に従っている者たちでさえ三割は確かだが、五割は不確かである。このことは、その人たちには基礎がないことを示している。あなた方の能力はあまりに貧弱であなた方の基礎が浅すぎるために、区別することがわかっていないのだ。神は同じ業を繰り返しはしない。現実的でない働きは行なわない。神は人間に過分な要求をしない。また、神は人間の理知の外にある業は行なわない。神が為す業はみな、人間の正常の理知の範囲内で行われ、本来の人間の理知の外には及ばない。また、神の働きは人間の正常な必要に沿ったものである。もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人間はサタンのような堕落した自分の性質、人間の本質についての認識を増し、真理への渇望は更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。もし、ある道が、人間の本質であるこれらのものを明らかにすることができないのなら、また人間の性質を変えることができないのなら、さらにまた、人間を神の前へ導き、神についての真の理解を与えることができないのなら、あるいは、人間性をさらに卑しめ、その理知をますます異常なものにするのなら、その道は真の道ではあり得ず、悪霊の業、あるいは、古い道なのだ。要するに、それは聖霊が現在為している働きではないということだ。

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

神の働きの各段階において、それに対応する人間への要求がある。聖霊の流れの中にいる者たちは皆、聖霊の臨在と鍛錬を備えており、聖霊の流れの中にいない者たちはサタンの支配下にあり、そうした者には聖霊の働きがまったくない。聖霊の流れの中にいる人々は、神の新たな働きを受け入れ、神の新たな働きの中で協力する者である。現在において、その流れの中にいる者たちが協力できず、神に要求された通りに真理を実践できないとすれば、そうした者は鍛錬を受け、最悪の場合は聖霊に見捨てられるであろう。聖霊の新たな働きを受け入れる者は聖霊の流れの中で生き、聖霊の配慮と守りを授かるであろう。真理を実践することを望む者は、聖霊により啓かれ、真理を実践することを望ましない者は、聖霊から鍛錬を受け、罰を受けることさえあるだろう。そうした者がどのような人間であれ、そうした者が聖霊の流れの中にいる限り、新たな働きを神の名において受け入れる者全てについて、神は責任を負うであろう。神の名を讃美し、神の言葉を実践することを望む者は、神の祝福を得るであろう。神に反抗し、神の言葉を実践しない者は、神の罰を受けるであろう。聖霊の流れの中にいる人々は、新たな働きを受け入れる者であり、新たな働きを受け入れたのであれば、神との適切な協力を行うべきであり、自らの本分を尽くさない反逆者となってはならない。神の人間に対する要求は、これだけである。しかし、新たな働きを受け入れない人々には、この限りでは無い。そうした者は聖霊の流れの外にいるので、聖霊の鍛錬や咎めは、そうした者に適用されない。そうした者は終日肉の中で生活し、自分の心の中で生活し、そうした者の行動は、全て自分の脳による分析と研究により生み出された教義に従っている。それは聖霊の新たな働きにおける要求ではなく、ましてや神との協力などではない。神の新たな働きを受け入れない者には神の臨在がなく、その上、神の祝福と守りが欠如している。そうした者の言動は、殆どが聖霊の働きの過去における要求に固執している。それらは教義であり、真理ではない。そうした教義や規則は、そうした者が集う理由が宗教だけであることを十分に示している。そうした者は選ばれた者たちでも神の働きの対象でもない。そうした者の会合は、宗教の総会としか言いようがなく、教会とは呼べない。これは変えようのない事実である。そうした者には聖霊の新たな働きが無い。そうした者の為すことには宗教の匂いがあり、そうした者が行動で示している事は、宗教で満ちている。そうした者には聖霊の臨在と働きが無く、ましてや聖霊から鍛錬や啓きを受ける資格など無い。これらの人々は、全員いのちの無い屍であり、霊の無い蛆虫のようなものである。そうした者には人間の反逆性や反抗性、人間による様々な邪悪な行いに関する認識が全く無く、ましてやそうした者は神の働きや神の現在における心など知らない。彼らはみな無知で下劣な人間であり、信者と呼ばれるに相応しくない人間のくずである。彼らの為すことには神の経営に関連する事は一切なく、ましてや神の計画を損なうことはできない。彼らの言動は過度に不快であり、たいへん惨めであり、まったく語るにも値しない。聖霊の流れの中にいない者の為すことは、一切が聖霊の新たな働きと無関係である。そのため、そうした者がどう行動するかを問わず、彼らは聖霊の懲らしめを欠いている上、聖霊の啓きにも欠けている。何故なら、彼らはみな真理への愛を持たない人々であり、聖霊から忌み嫌われ、見捨てられたからである。彼らは悪を行う者と呼ばれる。何故なら、彼らは肉にあって歩み、神の看板の下に、自分が満足するあらゆる物事を行うからである。神が働きを行う間、そうした者は神に対して故意に敵意を抱き、神と反対方向に向かって走る。人間が神と協力しないことは、それ自体が最も反逆的であるので、故意に神に逆らうそうした人々は特に然るべき罰を受けるのではないだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より

説教と交わりの参考箇所

宗教界全体がそれに敵意をもって反対していなければ、それは真の道ではありません。真の道なら確実に大多数の人々が、更に言えば、世界が反対するはずだということを覚えておいてください。主イエスが働き、説教するために初めて出現された時、ユダヤ教全体が主に反抗しなかったでしょうか。神が新たな働きを始められる時、それは常に堕落した人類には到底受け入れがたいのです。神の働きが人々の観念と合致せず、否定するものだからです。人々は理解力に欠けており、霊の領域を見極めることができません。聖霊の働きがなければ、人々は真の道を受け入れることができません。それが神の働きであると信じられていても、宗教界から反対されず、世界からの反抗と敵意もなければ、この神の働きは偽りであるという証拠になります。人類はどうして真理を受け入れられないのでしょうか。第一に、人は肉のものであり、物質的な存在だからです。物質的なものは霊の領域を見極めることができません。「霊の領域を見極められない」とはどういうことでしょうか。それは霊そのものも、霊とその領域の活動も見えない、神のなさることも仰ることにも気付けないということです。霊の領域での出来事が見えないということです。物質世界では人には物質的なものしか見えません。どの霊が人にどの働きをするかも、神の霊が何をしに、何を語りに来たのかも見せません神の声が聞こえることもありますが、どこから来たのかわかりません。書物から神の御言葉を読むことはできても、神がこの御言葉をどのように、いつ語られたのかも、それが何を意味するのかも分かりません人には霊の領域を見極めることも、神の御言葉の出所を把握することもできません。そのため、真理を理解するには、聖霊の啓きと照らし、聖霊の働きを必要とするのです。第二に、人類はあまりに根深く堕落しており、その内面はサタンの無数の毒と無数の知識で満たされています。サタンの様々な哲学と知識ですべてを評価するならば、人は真理が何であるかを確立させることは決してできません。聖霊の啓きと照らしなくして、真理を理解することはできないのです。そのため、真の道は必然的に人による迫害と拒絶の対象になります。人はなぜ、サタンの知識と哲学を容易に受け入れてしまうのでしょうか。第一に、それが人の肉にまつわる観念や利益と合致しており、人の肉にとって有益だからです。「こういった知識を受け入れたら自分のためになる。これで昇格できる。成功できるし、物事を達成できる。こうした知識があれば、人に尊敬してもらえる」と人は自分に言い聞かせます。自分にとって有益なものであれば、自分の観念と合致するのです……これ程までに堕落して、霊の領域を見極められない人は、神に反抗することしかできず、そのため神の働きは人による拒絶、反抗、断罪に遭ってしまうのです。これは当然のことです。もし神の働きが世界と人類の断罪と反抗に遭わなければ、それは真理でないという証拠です。もし神の語られたことがすべて人の観念と合致していれば、人はそれを断罪するでしょうか。反抗するでしょうか。もちろんしないでしょう。

「兄弟の交わり」より

教会は、神によって真に予定され、選ばれた人々から成り立ちます。教会を構成するのは真理を愛し、真理を追い求め、聖霊の働きを得た人々なのです。これらの人々が集まって神の御言葉を飲み食いし、教会生活を送り、神の働きを体験し、それぞれが神の被造物としての本分を尽くした時に初めて、その場は教会でありえるのです。仮にある烏合の衆が、自分たちは本当に神を信じていると言って祈り、神の御言葉を読んでも、真理を愛さず、追い求めることもなく、聖霊の働きなしに宗教儀式を行なうならば、それは教会ではありません。より正確に言えば、聖霊の働きのない教会は教会ではありません。単なる宗教施設であり、宗教儀式を行う人々に過ぎないのです。神に真に従い、神の働きを体験する人々ではありません。

…………

…教会は神を真に信仰して真理を追い求める人々の集まりであり、そこには悪しき者は決して含まれません。そのような者は教会には属さないのです。真理を追い求めず、真理の実践になることを何もしない人々が集まっても、それは教会とは言えません。それは単なる宗教施設、もしくは烏合の衆に過ぎません。教会を構成するのは、神を真に信仰し、真理を追い求め、神の御言葉を飲み食いし、神を崇拝し、本分を尽くし、神の働きを体験し、聖霊の働きを得た人々でなければなりません。これのみが教会なのです。したがって、本当の教会であるか評価する時、まずそこにどのような人がいるかを見る必要があります。第二に、その人たちが聖霊の働きを得ているかどうかを見なければなりません。その人たちの集会に聖霊の働きがなければ、それは教会ではありません。真理を追い求める人々の集まりでなければ、教会ではありません。もし真理を真に求める人が一人もいないなら、その教会には聖霊の働きがまったくありません。もしそのような教会に真理を求める意志のある人がいて、そこに留まるとしたら、その人は救われません。その人はなるべく早くその烏合の衆を離れ、教会を探すべきです。もし、教会の中に、真理を追い求める人が3人もしくは5人いて、単なる烏合の衆が30人もしくは50人いるとしたら、神を真に信仰し、真理を追い求めているこの3人もしくは5人が集まるべきです。その人たちが集まれば、その集まりは教会なのです。信者の数が最小であっても純粋な教会です。

『いのちの入りについての説教と交わり(VII)』の「教会の働きにおける五つの原則に従って働くことが重要である」より

宗教界の指導者や牧師たちは、神の働きを経験したことも、聖霊によって完全にされて育て上げられたこともないのに、神学校を卒業して卒業証書を受け取った後、宗教界の指導者や牧師になっています。彼らは聖霊の働きと承認を受けていないだけでなく、神に関する真の認識をまったく持っておらず、神学的な知識と理論しか語ることができないのです。彼らは実際に何も経験していません。このような人たちは神に用いられる資格がまったくありません。どうして彼らが人を神の前に導けるのでしょうか。彼らは神学校卒業を自分たちの特権の根拠とし、できる限りのことをして聖書の知識を誇示しようとします。耐え難い程に傲慢なのです。このため、彼らは神に断罪され、忌み嫌われ、聖霊の働きを失っています。これは疑う余地がありません。なぜ宗教界がキリストの不倶戴天の敵となったのかはとても示唆に富む疑問です。恵みの時代にユダヤ教が主イエス・キリストを十字架に磔にしたことは何を示しているでしょうか。世の終わりにおける神の国の時代に、宗教界は団結し、全力を尽くして世の終わりにおける神の働きに反抗し、断罪してきました。世の終わりに肉となったキリストを否定し、拒絶しています。肉となった神と神の教会に対して様々なうわさを捏造し、攻撃し、中傷し、冒涜してきました。そして戻られたイエス、世の終わりのキリストを、はるか以前から十字架に磔にしてきたのです。これは、宗教界がとうの昔から、神に敵対し逆らうサタンの勢力に成り下がっていたことを証明しています。宗教界は神が支配するものではなく、まして真理が支配するものでもありません。それは堕落した人、更に言えば、反キリストによって完全に支配されています。

人はこのような宗教施設、すなわちサタンに属し、悪魔と反キリストに支配され、管理されている施設で神を信仰していても、宗教的教義を理解することしかできず、宗教儀式と規制に従うことしかできません。決して真理を理解することも、神の働きを体験することもなく、救われることなどありえません。宗教施設には聖霊の働きがまったくないからです。このような場所は神に厭われ、忌み嫌われ、断罪され、呪われます。神は宗教をお認めになったことはなく、ましてや称賛されたことなどありません。宗教界は主イエスの時代から神に断罪されてきました。それため、神を信仰するならば、聖霊の働きのある場所を探さなくてはなりません。その場所のみが真の教会であり、人は真の教会でのみ神の声を耳にすることができ、神の働きの足跡を見出だすことができます。これこそが、神を求める方法です。

「兄弟の交わり」より


キリスト教映画「赤の家庭教育」抜粋シーン(5)キリスト教をどのように理解すべきでしょうか

2020-01-01 19:09:37 | キリスト教映画

キリスト教映画「赤の家庭教育」抜粋シーン(5)キリスト教をどのように理解すべきでしょうか
キリスト教、カトリック、東方正教会はすべて、主イエス・キリストを信じる宗教として知られています。全能神教会は、終わりの日におけるキリストの出現と働きによって誕生した、王国の時代のキリスト教会であり、キリスト教の一部です。ではどうして中国共産党は、全能神教会がキリスト教の教会であることを否定するのでしょうか?キリスト教とは一体何でしょう?

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キリスト教と全能神教会の違いは何か

2019-12-31 21:20:39 | 信仰と生活

キリスト教と全能神教会は同じ神を信じている。宗教の歴史を理解している人々は、イスラエルのユダヤ教はヤーウェ神が律法の時代に行った働きから生まれたことを知っている。キリスト教、カトリック教、東方正教はすべて肉となった主イエスが贖いの働きを行った後に現れた教会であった。全能神教会は、神が裁きの働きを行うために終わりの日に肉となった時に出現した。恵みの時代のキリスト教徒は旧約聖書と新約聖書を読み、神の国の時代の全能神教会の信徒は終わりの日に神が直接語った『言葉は肉において現れる』を読む。キリスト教は恵みの時代に主イエスが行った贖いの働きに従い、全能神教会は戻ってきた主イエス、つまり全能神の終わりの日の裁きの働きを受け入れる。キリスト教と全能神教会の違いは、キリスト教が律法の時代と恵みの時代に神が行った働きに従い、一方全能神教会は終わりの日に神が実行した神の家から始まる裁きの働きに従うことである。キリスト教と全能神教会の違いは、キリスト教とユダヤ教の違いに似ている。恵みの時代に主イエスは旧約聖書の律法の時代の働きを基礎にして人類を贖う働きを実行した。しかし、祭司長、律法学者、パリサイ人は主イエスが肉となったヤーウェであること、イエスは彼らが待っていたメシアであることを認めなかった。彼らは頑固にヤーウェ神が宣言した旧約聖書の律法と戒めに固執した。彼らは人類を救った慈悲深い主イエスも十字架につけ、したがって神の性質を犯した。そこで神は旧約聖書の律法に固執するユダヤ教全体を見捨て、救いを異邦人に向けた――異邦人は主イエスを受け入れ、従った後、新約聖書の教会を形成した。それらもキリスト教と呼ばれた。一方、ユダヤ人は旧約聖書の律法の時代のヤーウェ神の働きに固執するだけで、主イエスの贖いの働きを拒絶し、いわゆるユダヤ教を形成した。このことからキリスト教と全能神教会は同じ神――天と地とあらゆるものを創造した主――を信じていることがわかる。人々が固守する神の名前と働きが違うだけのことである。全能神教会は神の国の時代の神の新しい名前に従い、終わりの日に神が実行する新しい働きを受け入れる。一方キリスト教は恵みの時代の神の名を固守し、過去の時代に神が行った古い働きを受け入れる。これがキリスト教と全能神教会のもっとも重要な違いである。しかし、両者が信じる神は同じであり、天と地とあらゆるものを創造した唯一の本当の神である。この事実は誰もゆがめたり否定したりすることはできない。

キリスト教徒の多くは天国に入るには主イエスの救いの働きを受け入れることだけが必要で、終わりの日の全能神の裁きの働きも受け入れることは必要ないと信じている。このような考えは完全に間違っている。恵みの時代に主イエスは救いの働きを行った。人々は信仰によって救われ、律法によって罪に定められたり、宗教上の罪で処刑されたりすることはもはやなかった。しかし、主イエスは人の罪を赦すだけで、人の罪深い性質を赦したり、解決したりはしなかった。人々の中のサタンの性質――傲慢とうぬぼれ、わがままと強欲、歪んだ心とずる賢さ、神に対する反抗と反対――はまだ残っていた。人々はまだ神によって完全には清められていないし、救われても得られてもいなかった。したがって、主イエスは何回も自分は戻って来なければならないと言った。聖書の多くの箇所で、神は戻ってきて、裁きを実行し、天国に聖徒を引き上げると予言されている。肉となった終わりの日の全能神は人類の清めと救いのためにすべての真理を述べ、主イエスの贖いの働きを基礎にして神の家から始まる裁きの新しい働きを実行した。それは人類の罪深い性質を解決し、人類を罪の束縛と強制から完全に解放し、本当の人間らしさで生き抜き、神に得られるようにし、神が人類のために用意した美しい終着点に到達できるようにするためである。主イエスが実行する救いの働きは終わりの日の神の救いの働きの基礎であり、一方終わりの日の裁きの働きは神の救いの働きの核であり、中心であると言える。これは人類の救いにとってもっとも決定的で重要な働きの段階である。終わりの日の全能神の裁きの働きを受け入れる人々だけが救われ、天国に入り、神の前で引き上げられる人になる機会を持つだろう。今日、キリスト教界のさまざまな宗派の人々の中には全能神は終わりの日の主イエスであることがわかった人々がいて、彼らは全能神を受け入れ、従い始めている。一部の異邦人も全能神が述べた真理によって全能神を受け入れている。全能神を受け入れているこれらの人々は全能神教会を形づくる。終わりの日のキリスト、全能神の導きと牧養のもとに、全能神教会の信徒たちは全能神の言葉を経験し、実行することを通して次第に多くの真理を理解するようになり、人類の堕落の根源と本質をはっきりと目にした。神の言葉の裁きと刑罰のもとに、人々は神の義と犯すことのできない性質を本当に実際に経験した。彼らは神を知っているので、次第に神を畏れ、悪を遠ざけ、神の言葉に従って生きるようになった。真理を理解するにつれて、神についての人々の認識は次第に深まり、神への服従心はますます大きくなり、ますます多くの真理を実行に移すようになった。気づかないうちに、これらの人々は完全に罪から解放され、清められるだろう。その間、全能神の新しい働きを受け入れないキリスト教徒たちは相変わらずキリスト教を信じている。彼らは主イエスの名前を固守し、聖書の教えに従い、長い間神によって暗闇に投げ込まれており、神の配慮と守りを失っている。これは広く認められている事実である。人々が悔い改めないことを主張し、終わりの日に戻ってきた主イエス、全能神を盲目的に罪に定め、抵抗し、終わりの日の全能神の裁きの働きを受け入れることを拒むのであれば、その時には、全員神の働きによって除去されてしまうだろう。



キリスト教映画「赤の家庭教育」抜粋シーン(5)キリスト教をどのように理解すべきでしょうか

2019-12-30 18:13:28 | キリスト教映画

 

キリスト教映画「赤の家庭教育」抜粋シーン(5)キリスト教をどのように理解すべきでしょうか
キリスト教、カトリック、東方正教会はすべて、主イエス・キリストを信じる宗教として知られています。全能神教会は、終わりの日におけるキリストの出現と働きによって誕生した、王国の時代のキリスト教会であり、キリスト教の一部です。ではどうして中国共産党は、全能神教会がキリスト教の教会であることを否定するのでしょうか?キリスト教とは一体何でしょう?

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