蒙(モン)愛(アイ)は三世代にわたるクリスチャンで、ずっと教会で奉仕してきましたが、ここ数年、固い信仰と主への奉仕にもかかわらず、自分の夫に対してさえ寛容でも寛大でもいられないほど、自分がいまだ罪の束縛に捕らわれていることに気づきました。そして「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ記11:45)という神様の御言葉を読み、このまま頻繁に罪を犯し続ければ、主のお顔を拝見する資格が得られないと認識しました。これは彼女を本当に苦しめました。しかしいま、彼女は罪から自由になる道を見つけ、夫との関係も調和のとれたものになっています。蒙(モン)愛(アイ)はどのようにして罪から逃れる道を見つけたのでしょうか。彼女の経験を見てみましょう。
私は子どものころから教会に通い、主の御言葉について兄弟姉妹と交わるのがいつも大好きでした。結婚後も、夫と私は教会での働きを第一にし、教会への奉仕や大小の行事に積極的に参加していました。
しかし時が経つにつれ、兄弟姉妹たちがみんな罪の中で暮らし、主の教えを守れていないことに気づきました。例えば牧師の説教には光がなく、そのうえいつも私たちに献金させようとし、彼らの金銭に対する関心は私たちのいのちへの関心よりもはるかに大きいものでした。牧師と長老は個人的な地位や利益を巡って絶えず争いと口論を繰り広げ、兄弟姉妹はますます教会の奉仕に参加しないようになり、中には教会に来てもつまらないおしゃべりや遊びの話しかしない人もいれば、説教のあいだに居眠りする人さえいました。そのようにして、彼らは仕事のストレスを解消していたのです。
私自身も主のお導きを感じられず、働きに出かけることや教会への奉仕に参加することがいつも本当におっくうでした。中でも苦痛だったのが、自分が罪を犯しては告白するという悪循環の中で暮らしていたことです。帰宅した夫がオンラインゲームに没頭して、すべきことをしていないのを見るたび、私は夫に腹を立て、傲慢な口調であれこれしなさいと言わずにはいられませんでした。夫が私の存在を無視して私の言葉を真剣に受け止めていないように思われると、私はさらに腹を立てて本当にきつく怒鳴っていました。夫の行動があまりに遅いせいで堪忍袋の緒が切れてしまい、あなたは何をやっても下手で不器用と文句を言うこともありました。そのようなことが理由で、何年も信者でありながら何も変わっていないと、夫にたしなめられることがしばしばありました。
私は夫にたしなめられて罪の意識を感じ、主イエスの次の御言葉を思い浮かべました。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか」(マタイによる福音書7:3-4)主は私たちに、他人の短所や欠点にばかり目を向けるのではなく、自分自身の欠点をもっと見つめるよう教えられました。しかし夫が私の気に入らない言動をするたび、私は夫に我慢できなくなり、そのうえ頻繁に腹を立てて夫の文句を言っていました。そのせいで私たちのあいだに亀裂が生まれたのです。それを考えるのは本当につらいことでした。神様は「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ記11:45)とおっしゃいました。神様は聖くていらっしゃり、聖くない人は主のお顔を拝見できません。しかし私はいつも罪を犯していて、主の教えを守れませんでした。私のような罪人が天国に入れるのか。いつもこの疑問を考えては、本当に不安な気分でした。
私は苦痛の中で主に訴えました。「ああ主よ、私は罪を犯したくないのですが、自分を抑えることがまったくできません。罪の中で暮らすのは本当につらいのに、そこから逃れる方法がわかりません。主よ、私には何ができるでしょう。私がこのまま進めば、あなたは私をお捨てになりますか」
牧師は罪の問題を答えられない
苦痛と無力感の中、私はこの問題を追求しようと牧師のもとへ向かいましたが、牧師はこう言うだけでした。「心配いりません。私たちはいま多くの罪を犯しますが、主イエスはすでに私たちの罪をすべてお赦しになりました。だからどんなときでも、私たちは主に祈って告白するだけでいいのです。そうすれば主がお戻りになるとき、私たちは天国に入ることができます。あなたはご主人といるのがつらく、あまりに多くの欠点があると感じています。私たちは寛容と忍耐をもっと実践すべきなのですよ……」牧師の答えは私にとって受け入れがたいものでした。主の教えを守れずにいつも罪を犯しているのに、主がお戻りになるとき本当に天国へ入れるでしょうか。その後、私は次の聖書の言葉を読みました。
「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙12:14)
「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない」(ヘブル人への手紙10:26)
私はこれら二節から主の御心を理解しました。罪深い本性をもつ人は誰ひとり主に認めていただけず、主のお顔を拝見する資格がまったくありません。罪だと知りながらそれをわざと行なうなら、罪のためのいけにえはありません。牧師の言葉を基に考えれば、頻繁に罪を犯し、主や友人を売り渡し、献金をくすね、放蕩を行ない、嘘をついて騙し、悪しき流行を追う人であっても、本当に主に祈って告白するだけで、天国に入ることができるのでしょうか。この疑いが私から離れませんでした。
私は罪から自由になるためにどうすればよいかわからなかったものの、夫との関係をよくしようと、牧師の言葉に従って寛容で忍耐強くなろうとしました。しかし私たちの関係は何も変わりませんでした。苦痛の中で再び牧師のもとへ向かいましたが、牧師はいらだたしげに首を振ってこう言うだけでした。「いつも罪を犯しては告白するという問題について、私にはよい解決法がありません。聖書にはこう記されています。『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている』(ローマ人への手紙7:18-19)私たちはどうしても罪を犯してしまいます。だから、もっと頻繁に悔い改めて主に告白しなさい。私もあなたのために祈りましょう」牧師がこう言うのを聞いて、私は希望をすっかり失いました。私にできるのは祈り、罪から自由になる道へと導いてくださるよう、主にお願いすることだけなのです。
2018年5月28日、私はインターネットでスーザン姉妹と出会いました。私たちはしばしば聖書の文章について交わり合いましたが、彼女は聖書についてまったく独自の見解をもっていました。彼女の話は光に満ちており、教会が荒廃した根源を説明することができました。それは教会で聞いたことがないものでした。その後、私は何年ものあいだ困惑していた問題をスーザン姉妹にぶつけました。「姉妹、私は長年にわたる信者ですが、いまだにいつも罪の中で暮らしています。忍耐と寛容を実践することさえできません。聖書にはこう記されています。
『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』(レビ記11:45)
『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない』(ヘブル人への手紙10:26)
主は聖くていらっしゃいますが、いつも罪の中で暮らして清められていない私たちのような人が、天国に入ることはできるでしょうか。私はこれについて牧師に質問しましたが、私たちは頻繁に罪を犯すものの、主はすでに私たちの罪を赦されており、私たちが主に告白して悔い改める限り、おいでになったときに私たちを天国へ連れてくださると言うだけです。私はこれに疑問をもっています。スーザン姉妹、これについてあなたの考えを聞かせてください」
スーザン姉妹はこのように話しました。「あなたの質問は本当に重要で、私たちが完全に救われて天国に入るという重大な問題に直接関係しています。たいていの場合、宗教界の牧師や長老は、主イエスが十字架につけられて私たちの罪を残らず赦されたので、私たちは頻繁に主に祈って告白する限り、主がおいでになったとき期待どおり天国に入ることができると信じています。しかし、この認識は真理と一致しているでしょうか。主の信者である私たちの罪は赦されてきましたが、そのことは主がおいでになるとき、私たちが天国に直接入れることを意味しているでしょうか。私たちは罪を赦されたので天国に入れると、主イエスがおっしゃったことはありません。それとは逆に、主は私たちにこうおっしゃいました。『すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる』(ヨハネによる福音書8:34-35)また、ヤーウェ神ははっきりとこうおっしゃいました。「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ記11:45)神様は義にして聖く、汚れたすべてのものをお嫌いになります。頻繁に罪を犯して神様に反抗する人や、完全に汚れた人を、神様は絶対に天国へとお連れになりません。自分の堕落した性質を完全に捨て去り、清められ、本当に神様を崇拝し、神様に服従し、神様を愛する人になって初めて、私たちは天国へ入る資格を得られるのです」この話は私に深く鳴り響きました。私はこう考えました。「本当だわ。こんなに汚れた私たちが、どうして天国に入れるでしょう。神様の義と聖さが、どうしてこのような形であらわされるでしょう」
スーザン姉妹は話を続けました。「たいていの場合、私たちは心から主に祈りを捧げて告白し、主の教えを実践することに全力を尽くしていますが、どれだけ懸命に働いても罪の拘束から逃れることはできません。私たちは昼間に罪を犯して夜に告白するという、自分ではまったく逃れられない悪循環の中で暮らしています。いったい何が起きているのでしょう。次の二節を読めばその問題がはっきりします」スーザン姉妹は一冊の本を開いて読み上げました。「人は贖われ罪を赦されたが、それは神が人の罪を思い出さず、人の罪に応じて人を取り扱わないからである。しかし、人が肉に生き、罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからだ。…」 (『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より) 「人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)
これらの御言葉を読んだあと、スーザン姉妹は話を続けました。「いまの二節を読んで、私たちが罪の足かせという束縛から決して逃れられない理由が少しははっきりしたのではないでしょうか。それはおもに、私たちがサタンによってあまりに深く堕落させられてきたためであり、たとえ主イエスに贖っていただいたとしても、私たちに罪を犯させるサタン的な本性がいまなお深く根ざしているのです。私たちが頻繁に罪を犯して神様に反抗せずにいられないのはそれが理由です。私たちはみな、主イエスが恵みの時代に肉となられ、贖いという働きの段階をなさって人類を罪からお救いになり、私たちが律法による断罪と拘束から逃れられるようになさったことを知っています。そのようにして、私たちは神様の御前へ出る資格を得られたのです。主イエスは私たちの罪を赦されましたが、傲慢、利己心、不誠実、邪悪といった私たちのサタン的性質を贖われたわけではありません。私たちはいまなお罪を犯しては告白するという悪循環の中で暮らし、そこから解放されることができません。例えば、私たちの本性は信じられないほど狡猾で、不誠実で、利己的で、卑劣なものであり、私たちが何をしようとそれは自分の利益のためです。他人との交流においても、自分の利益や地位や体面を守るために嘘をつき、不誠実に行動せずにはいられません。私たちは主のお求め通りに生きられません。つまり、幼子のように純粋かつ正直ではいられないのです。私たちの本性は信じられないほど傲慢であり、何事においても他人が自分の思い通りに行動するよういつも望みます。自分を不快にさせることを誰かがしたとたん、私たちは腹を立て、その人を叱ったり押さえつけたりします。しかも、私たちは主を信じながら、主の御言葉や要求を実践することに集中しません。その代わりに世間の悪しき風潮に従うほうを好み、非信者と同じく、金銭や名声や地位といった肉体的な快適さと快楽を追い求めます。これだけではありませんが、私たちにはサタン的な性質が実に深く根ざしているので、主の教えに背かずにはいられませんし、本当にたびたび告白したとしても、私たちの本性そのものは神様に反抗したままです。私たちはいまだに天国へ入ることができません。神様は私たちを完全に罪からお救いになれるよう、終わりの日にさらに多くの真理を表現なさっています。神様は私たちの堕落した性質をお裁きになり、正しくない動機や不純さを取り除いて、私たちが完全に清められ、変わるようになさっています。神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れ、神様が表現なさる真理を得ることでのみ、私たちは自分の堕落した性質を完全に捨て去り、神様の御国に入る資格を得られるのです」
スーザン姉妹が読んでくれた御言葉と彼女の話を聞いたあと、夫が気に入らないことをするたび、どれだけ必死に自分を抑えようとしても腹立ちを我慢できないのは、ひとえに自分の罪深い本性のせいだと理解しました。主イエスは贖いの働きをなさりましたが、それは単に私たちの罪をお赦しになるためであり、私たちの罪深い本性をお赦しになったわけではありません。私たちはいまだ罪深さに操られているので、頻繁に罪を犯して神様に反抗します。神様と相容れることができず、いまだに御国へ入る資格がないのです。では、私たちは罪を捨て去るために何ができるでしょうか。その考えが頭に浮かんだとき、私は自分の当惑を彼女に伝えました。
蒙(モン)愛(アイ)(台湾)
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