東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

VIII どのようにサタンが人を堕落させるかとサタンの邪悪な本質を明らかにする神についての言葉

2019-12-11 16:24:05 | 書籍

Ⅷ サタンがいかに人類を堕落させるかを明らかにする代表的な言葉
1.地がまだ存在していなかったとき、大天使は天国の天使の中で最も偉大だった。大天使は、天国のすべての天使に対する権限を握っていた。それは神から大天使に与えられた権威だった。神を除いて、大天使は天国の天使の中で最も偉大だった。神が後に人間を創造したとき、大天使は地上において神に向けて大きな裏切りを行った。大天使は、人間を支配し、神の権威を超越したかったため、神を裏切ったとわたしは言うのである。エバを誘惑して罪に陥れたのは大天使だった。大天使が神を裏切ったのは、地上に自分の王国を建設し、人間に神を裏切らせて、代わりに自分に従わせたかったからである。大天使は自分に従う者がたくさん存在することを知った。天使たちは、地上の人々と同じく、大天使に従った。鳥と獣、木々、森、山、川、および地上のあらゆるものは、人であるアダムとエバの管理下にあり、アダムとエバは大天使に従った。大天使はそのようにして神の権威を超越し、神を裏切ろうと考えた。後に大天使は多くの天使たちに神を裏切らせ、それが汚れた霊となった。今日までの人間の発展は、大天使の堕落に影響されているではないか。人間が今日あるような状態なのは、大天使が神を裏切り、人間を堕落させたからである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」より

2.はじめに神はアダムとエバを創造し、また蛇も創造した。全ての被造物の中で、蛇は最も有毒だった。その体は毒を含み、サタンはその毒を利用した。エバを誘惑し罪に落とし入れたのは蛇だった。アダムはエバが罪を犯した後に罪を犯した。そして2人はそれから善と悪の区別ができるようになった。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」より

3.「女を惑わす蛇」について話しましょう。この蛇は誰ですか。(サタンです。)神の六千年にわたる経営(救いの)計画において、サタンは引き立て役であり、…サタンの言動から、サタンがどのように行動し、どのように人間を堕落させ、どのような本性を持ち、どのような表情であるかを見ることができるからです。では、女は蛇に何と言いましたか。女はヤーウェ神が女に言ったことを蛇に説明しました。女の言葉に従うなら、女は神が女に言ったことすべての有効性を確認していましたか。女はそれを確認できませんでした。そうですね。新たに造られたばかりの者として、女には善と悪を見分ける能力も、自分の周囲の何かを認識する能力もありませんでした。女が蛇に語った言葉から判断すると、女は心の中で神の言葉が正しいと認めていませんでした。それが女の態度でした。だから、神の言葉に対して女が確固たる態度がないことを見てとった蛇は、「あなたがたは必ず死ぬ訳ではない。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」と言いました。この言葉には、何か間違いがありますか。この一文を読み終わったとき、あなたがたは蛇の意図を感じ取りましたか。この蛇は、どのような意図をもっていますか。(人間を惑わして罪を犯させようとすることです。)蛇はこの女を惑わして神の言葉に耳を傾けるのをやめさせたいのですが、そのままを話しませんでした。ゆえに、蛇は極めて狡猾であると言うことができます。蛇は、人間に気付かれないよう心の中に秘めた意図する目的を果たすために、その旨をずるくて曖昧な方法で表現します。これが蛇の狡猾さです。サタンは常にこのように話し、行動してきました。蛇は「必ず~訳ではない」のように言い、こうなるとも、ああなるとも断言しません。しかし、この話を聞いて、この無知な女の心は動かされました。言ったことが望みどおりの効果をもたらしたので、蛇は喜びました。これが蛇の狡猾な意図でした。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 4」より

4.初めて社会科学の考えを持つようになってから、人の精神は科学と知識に占領されてしまった。それからすぐ、科学と知識は人類を支配する道具となり、もはや人が神を礼拝する充分な余地はなくなり、神を礼拝する好ましい条件もなくなった。人の心の中で占める神の位置はどこまでも低められていった。人の心の中に神の居場所が無い世界とは、暗く、何の希望も無く、空虚である。そこで、人の心と精神を満たすために、多くの社会科学者、歴史家、政治家が現れて、社会科学の理論、人類進化の理論等、神が人を創造したという真理に反する理論を述べた。こうして、神が万物を造ったという真理を信じる人はますます少なくなり、進化論を信じる人の数は増加の一途をたどっている。神の働きの記録と旧約の時代の神の言葉を、神話や伝説として取り扱う人々はますます多くなっている。人々の心は、神の威厳と偉大さに対して、また神が存在し、万物を支配しているという信条に対して無関心になっている。人類の生存、そして国家と民族の運命はもはや彼らにとって重要ではない。人は飲食と快楽の追求にしか関心のない虚しい世界に生きている。…神が今日どこで働きを行っているのか、あるいは、神が人の終着点をいかに支配し、定めているのか、それを自らすすんで探し求める者はほとんどいない。こうして、人間の文明は、人の知らないうちに、ますます人の望みどおりには行かなくなり、多くの人々がこんな世界に生きている自分達は、亡くなった人々に比べて不幸せだと感じてさえいる。過去に高度の文明を築いた国々の人たちでさえそのような不満をあらわにしている。何故なら、神の導きなしには、支配者たちや社会学者たちが人類の文明を維持するためにどんなに頭を悩ませても何の役にも立たないからである。誰も人の心の中の空洞を埋めることはできない。誰も人のいのちとなることはできず、どんな社会学的理論も、心をむしばむ虚しさから人を解放することはできないからである。科学、知識、自由、民主主義、余暇、快適な暮しは、つかの間の慰めに過ぎない。これらのものがあっても、人は必然的に罪を犯し、社会の不公正を嘆く。これらのものは、人の探求への欲求や願望を抑えることはできない。人は神によって造られたからであり、人の無意味な犠牲や探索はさらなる苦悩につながるだけである。人は常に恐怖に怯えて存在し、人類の将来にどのように向き合うべきか、目の前にある進路にどのように対峙すべきか分からない。人は科学や知識に脅かされるほどになり、自分の中にある空虚感をそれらのもの以上に恐れるようになる。この世であなたが自由な国に住もうと、人権のない国に住もうと、人類の運命から逃れることは決してできない。あなたが支配者であろうと、支配される者であろうと、人類の運命、奥義、そして終着点を探求しようとする願望から逃れることは到底できない。ましてや、途方にくれるほどの空虚感から逃れることはできない。全人類に共通するこの現象を、社会学者は社会現象と呼んでいる。しかし、このような問題を解決できる偉大な者が現れることはない。

『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より

5.科学が人にするのは、対象物を物理的世界において見ることができるようにすることだけで、単に人間の好奇心を満たすに過ぎません。それは人間に神が万物を支配している法則を見せてはくれません。人間は科学に解答を見出しているようですが、その解答は不可解で、一時的な満足感、人間の心を物理的世界に閉じ込めることだけに役立つ満足感をもたらすだけです。人間は科学に解答を見出したと感じているので、どのような問題が起きようとも、科学的意見に基づいてそれを証明したり受け入れようとします。人間の心は科学に取りつかれたようになり、科学に魅惑されるあまり、もはや神を知り、神を拝み、万物は神から来て、解答を得るには人は神に向かうべきであると信じる心をもたなくなります。そうではありませんか。人が科学を信じれば信じるほど、人は愚かになり、全てに科学的な解決策があり、研究によって何もかも解決できると信じるのです。人は神を求めず、神の存在を信じません。長年神に従って来た人でさえ、気まぐれに細菌の研究を始めたり、問題の答えを求めて情報を調べたりします。このような人は、問題を真理の視点から検討せず、ほとんどの場合、科学的な見解と知識か問題解決のための科学的解答に頼りますが、神に頼らず、神を求めません。このような人の心に神はいますか。(いません。)科学と同じ方法で神について研究したい人さえいます。例えば、大洪水の後に箱舟がたどり着いた場所に行った宗教専門家が多くいます。彼らは箱舟を見ましたが、箱舟の外観に神の存在を見ないのです。彼らはただ物語と歴史を信じ、それが彼らの物理的世界に関する科学的研究の結果です。物理的なものを研究すれば、それが微生物学であれ、天文学であれ、地理学であれ、神が存在する、あるいは神は万物を支配するということを示す結果を見つけることは決してありません。では、科学は人に何をするのですか。それは人間を神から遠ざけるのではありませんか。科学は人が神について研究するようにしていませんか。科学は神の存在について人をますます疑い深くしているのではないのですか。(そうです。)では、サタンは人間を堕落させるためにどのように科学を用いたいのですか。サタンは科学的結論を用いて人を騙し麻痺させ、曖昧な解答を用いて人の心にしがみつき、人が神の存在を追及したり信じたりしないようにしたいのではありませんか。(その通りです。)ですから、これがサタンが人を堕落させる方法の一つであるとわたしたちは言うのです。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 5」より

6.人のいわゆる知識に、サタンはその人生哲学と思想をかなり浸み込ませています。またサタンはそれをしつつ、人間にサタンの思想、哲学、視点を取り入れさせて、人間が神の存在を否定するように、神の万物の支配と人間の運命の支配を否定するようにしむけようとします。だから、人間の勉学が進み、より多くの知識を把握するにつれ、神の存在が曖昧になるのを感じ、神は存在しないとまで感じることもあります。サタンが人間の頭脳に視点、観念、思想を追加するにつれ、これらの思想を人間の頭脳に入れ、人間はこれにより堕落させられるのではありませんか。(そうです。)そのとき人間の生活の基盤は何ですか。人間はその知識に本当に依存していますか。いいえ。人間はその知識に隠されたサタンの思想、視点、哲学を自らの生活の基盤としています。ここがサタンによる人間の堕落の核心が起こるところであり、これがサタンの目的で、人間を堕落させる方法なのです。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 5」より

7.サタンは知識を餌として用います。注意して聴くように。知識は餌の一種に過ぎません。人間は「学習に励み、日々向上」し、知識を武器のように身に付け、知識を科学の扉を開くのに用いるよう誘惑されます。つまり、身に付ける知識が多ければ多いほど、より多くの物事を理解するようになるのです。サタンは、人間にこのようなことを言います。また、サタンは人間に、知識を身に付けるとともに、高尚な理想を育み、大志と理想を持つよう命じます。人間に知られることなく、サタンはこのようなメッセージを数多く送り、無意識のうちにそれが正しい、あるいは有益であると人間に感じさせます。人間は、知らぬ間にそうした道を歩み、知らぬ間に自分自身の理想と大志に導かれて進んでゆきます。人間は、サタンに与えられた知識、偉人や有名人の考えから徐々に気付かぬうちに学びます。また人間は、英雄とみなされる人々の行動から学び続けます。こうした英雄の行動によって、サタンは人間に何を奨励していますか。サタンは人間に何を吹き込もうと望んでいますか。人間は愛国心に溢れ、自国に忠誠であり、勇敢でなければならない。歴史や英雄の伝記から人間は何を学びますか。それは、人に対して忠義心を持つこと、あるいは友達のために尽くすことです。こうしたサタンの知識の中で、人間は無意識のうちに多くの良からぬ物事を学びます。サタンが人間のために用意した種は、知らぬ間に未熟な人間の心に植え付けられ、その種は、人間に偉大な人物になる必要がある、有名になる必要がある、英雄になる必要がある、愛国心を持つ必要がある、家族を愛する人間になる必要がある、友人のためならば何でもする、忠義感を持つ人間になる必要があると感じさせます。サタンに魅惑された人間は、サタンが人間に用意した道を知らず知らず進んでゆきます。その道を歩んでゆくうちに、人間はサタンによる生活の規則を受け入れることを強要されます。人間は、自分で全く気付かぬうちに独自の生活規則を作り出しますが、それはサタンが人間に強制的に吹き込んだ生活規則に過ぎません。この学習過程において、サタンは、物語や伝記など、サタンの餌を人間に少しずつ食べさせることのできる全ての手段を用いて、サタンの物事を人間に吹き込むと同時に、人間に独自の目標を目指し、独自の人生の目標や生活規則、人生の進路を決めさせます。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 6」より

8.人間が知識を習得する過程において、サタンは、それが物語の説明であったり、ただ一つの知識を与えることであったり、人間に自分の欲を満たし理想を実現させるようなことであったりと、あらゆる手段を用います。サタンはあなたをどの道に導きたいと思っていますか。人間は知識を習得することは自然であり、何も悪いことが無いと考えています。おだやかな言い方をすれば、高尚な理想を育むことや、大志を抱くことは、向上心があると言うことであり、それは人生において正しい道のはずである。人間が自らの理想を実現したり、人生において出世できたりするとしたら、そのように生きる方が素晴らしいのではないか。そのようにして自分の祖先に栄誉をもたらすのみならず、おそらく歴史に自分の名を残すことは、良いことではないか。こうしたことは、世俗的な人々から見れば、良いことであり、適切で前向きなことです。しかし、サタンは邪悪な動機をもって、人間をそのような道へと導き、それで良しとするかというと、無論そのようなことはありません。実際には、人間の理想が如何に高尚であったとしても、また人間の願望が如何に現実的であり、適切であったとしても、人間が成し遂げたい事、求める事は、二つの言葉と不可分な関連性がある。その二つの言葉は、人間それぞれの生涯にとって極めて重要であり、サタンが人間に吹き込みたいことです。その二つの言葉とは、何でしょうか。「名声」と「利得」です。サタンは極めて温和な方法、人間の観念に極めてうまく適合する方法を用います。その方法には、全く過激さが無いのです。人間は、無意識のうちにサタンの生き方や生活の規則を受け入れるようになり、人生の目標や方向性を決定し、またそうすることにより無意識のうちに人生の理想を持つようになります。そうした人生の理想は、どれほど高尚な響きがあったとしても、名声や利得と複雑に関連している建前に過ぎません。偉人や有名人のみならず、全ての人々が人生において従う全ての事柄は、「名声」と「利得」のふたつだけに関連するものです。人間は、名声と利得を手に入れれば、それを利用して高い地位や莫大な富を堪能し、人生を楽しむことができると考えます。名声と利得を手に入れれば、それを悦楽の追求と不徳な肉の快楽に利用できると考える。人間は、自分が求める名声と利得のために、無意識ではあるが率先して、自分の心身や所有する全ての物事、将来、運命をすべてサタンに引き渡します。人間はこの引き渡しにあたり、実に一瞬たりとも躊躇することが無く、それを奪回する必要性を省みることも一切ありません。このようにして人間がいったんサタンを頼りにし、サタンに忠義を尽くしたなら、人間は自分自身を支配していることができるでしょうか。無論できません。こうした人間は完全にサタンに支配されます。彼らはすっかり泥沼に沈み込んだのであり、そこから抜け出すことは一切不可能です。ひとたび名声と利得の泥沼に陥いると、人間は明るいもの、義なるもの、美しく良いものを求めなくなります。これは、人間に対する名声と利得の魅力が強すぎるため、それが人間にとって人生を通して終わり無く永遠に追求するべきものとなってしまうからです。これが真実ではないですか。中には「知識の習得とは読書することや知らない事を幾つか習得することで、時勢や世の中に遅れを取らないようにするためである。知識を習得するのは、ただ生活の糧を得るため、自らの将来のため、必需品のためである」と言う人もいます。必需品や食糧の問題を解決するためだけに、十年におよぶ辛い学習を行う人間がいるでしょうか。そんな人は一切いません。それでは、辛い学習を長年にわたり続けるのは何故ですか。それは、名声と利得のためです。名声と利得がはるか前方に待っており人を呼んでいるため、自らの勤勉と辛苦と努力をもってその道を進むほか無く、それによって名声と利得を得られるものと信じているのです。自らの将来の道のため、将来の快楽と生活向上のために辛苦を味わう必要があるのです。そんな知識とは、いったい何なのか、わたしに教えてくれませんか。知識とは、人々が知識を習得する過程で、サタンが人々に教えた生存の法則ではないでしょうか。サタンにより人間に吹き込まれた、人生の高尚な理想ではないでしょうか。たとえば、偉人の考えや、有名人の操守さ、英雄の気概、武侠小説の侠客や剣術家の俠骨や親切心を考えてみましょう。(その通りです。)これらは世代を超えて影響を及ぼし、各世代の人々はそうした思想を受け入れて、そのために生存し、永遠にそれを求めるよう仕向けられます。これがサタンが知識を用いて人間を堕落させる方法であり、手段です。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 6」より

9.サタンは名声と利得を用いて人間の思想を支配し、人間が名声と利得しか考えられないようにします。人間は名声と利得のために努力し、名声と利得のために苦労し、名声と利得のために恥辱に耐え、持てる全ての物事を犠牲にし、名声と利得のためにすべての判断と決断を下します。このようにして、サタンは目に見えない足かせを人間にかけます。足かせは人間の身体に付けられ、人間はそれを外す力も勇気もありません。したがって、無意識のうちに、人間は足かせをかけられ、極度の困難の中を歩んでゆきます。この名声と利得のために、人間は神を避け、神を裏切り、ますます邪悪になります。人間はこのようにして世代を追うごとにサタンの名声と利得により破壊されてゆきます。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 6」より

10.数千年に及ぶ古代文化や歴史に関する知識により、人間の思考や観念、精神的観念は極めて固く閉ざされ、浸透不可能かつ分解不可能なものとなっている[1]。人間は、あたかも神により地下牢に追放されて二度と光を見ることが無いかのように、十八層地獄で生活している。封建的思想が人間を迫害し続け、人間は辛うじて呼吸するほどまで息が詰まっている。人間には反抗する力が全く無く、ひたすら黙して耐え続けている。義と公平のために敢えて戦い、立ち上がる者は今まで一人もいなかった。人間は毎日領主の虐待と暴挙の下で動物同然に生活して年を重ねてゆくだけである。人間は神を求めて地の幸福を享受しようと考えたことが無い。それは、ひからびて色がくすんだ枯れ葉のように人間が打ち倒されたかのようである。人間は遙か昔に記憶を失い、人間の世界という陰府で絶望的に暮らし、自分が陰府もろとも滅びるよう、最後の日の到来を待っており、人間が待っている最後の日は、あたかも安らかな平和が人間に授けられる日であるかのようである。封建的倫理は、人間の生活を「ハデス」へと陥れており、人間が反抗する能力は一層少なくなっている。様々な虐待により、人間は徐々にハデスの深い所、神から一層遠い所へと強制的に陥れられた。現在、神は人間にとって全く知らない存在であり、人間は依然として神と会うと神を急いで避けようとする。人間は神を心に留めず、あたかもそれまで人間が神を知る事も神に会うことも無かったかのように、神を孤立させる。神は人生の長い旅路を通して待ち続けているが、神の抑え難い怒りを人間に向けることは、決して無かった。神は人間が悔い改めて再出発するのを、ひたすら黙して待ち続けている。神は、遠い昔に人間の世界へ来て人間と同じ苦難を受けた。神は長年にわたり人間と共に生活したが、彼の存在を見出した者はいなかった。神は人間の世界の惨事に黙して耐えつつ、自身が負う業を行っている。父なる神の心と、人間の必要性のため、神は人間が嘗て経験したことの無い苦痛を受け、それに耐えている。神は、父なる神の心と、人間の必要性のために、人間の前で黙して人間のために尽くし、自らを慎んだ。古代文化の知識は、神の前から何も言わずに人間をさらって魔王とその末裔に引き渡した。四書五経は、人間の思想と観念を新時代の反逆へと導き、人間が四書五経を記した者達を一層崇拝するようにして、人間が抱く神の観念を助長した。魔王は冷酷に、そして人間が気付かぬうちに、人間の心から神を排除しつつ、面白がって人間の心を奪った。その時以来、人間は魔王の顔をした醜く邪悪な霊に取り付かれている。神への憎しみが人間の胸を満たし、魔王の凶悪さが日々人間の中に広がってゆき、ついに人間は完全に滅ぼされた。人間は自由を失い、魔王の呪縛から逃れる事が出来なくなった。ゆえに、人間は1か所に留まり、囚われることを余儀なくされ、魔王に降伏し、服従した。魔王は人間の若い心に無神論の腫れ物の種を植え付け、「科学技術を学び、四つの近代化を実現せよ。この世に神はいない。」など、人間に偽りを諭した。それだけでなく、魔王は「私達の勤勉な労働により素晴らしい国を建てよう。」と繰り返し宣言し、全ての者に対して、幼少時代から自国のために仕える訓練をするよう要求した。人間は無意識のうちに魔王の前へと導かれ、魔王は(あらゆる人間を掌握している神を名乗り)躊躇無く人間を我がものとした。魔王は、一度も恥じらうことは無く、恥辱を覚えることは一切無かった。さらに、魔王は厚かましくも神の選民を自分の家の中に捕らえ、ねずみのように机上に飛び乗り、人間に自分を神として崇拝させた。魔王は、何という無法者であろうか。魔王は「この世に神はいない。風は自然の法則が原因である。雨は凝結して水滴となって地表に落ちる水分である。地震は地質学的変化に起因する地表の振動である。干ばつは太陽表面の原子核工学的障害により起こる大気の乾燥である。これらは自然現象である。そのうちどれが神の業だというのか。」などという衝撃的な中傷を唱える。その上魔王は、「人間は古代の類人猿から進化したもので、現在の世界は、約10億年前の原始社会から進化したものである。ある国家の栄枯盛衰は、その国家の国民の手により決まる。」などという恥知らずな事を呼びかける[a]。後ろの方では、人間に魔王を上下逆にして壁に掛けさせ、机上に鎮座させて崇拝させる。魔王は「神はいない。」と唱えるが、魔王は自らを神とみなし、真の神を執拗に地の果ての外へと追いやろうとする。魔王は神の地位に立ち、魔王として君臨する。何と途方も無く馬鹿げたことであろうか。魔王は、有害な憎悪により人間に滅びをもたらす。神は魔王の宿敵であり、神は魔王と折り合いを付けることが不可能であると思われる。魔王は神の駆逐を謀り、罰を受けることも捕らわれることも無いまま[2]の、まさしく魔王である。どうして私たちが魔王の存在を容赦できようか。魔王は、神の業を阻止し、打ち砕いて台無しにする[3]まで休むことが無く、それはあたかも最後に魚が死ぬか網が破けるかするまで、魔王は神に反抗し続けたいかのようである。魔王は、故意に神に反抗し、常に神に近付く。魔王の忌まわしい顔は、完全に仮面を剥がされて久しく、打ちのめされてあざが出来[4]、窮状にあるが、それでも神への憎悪が衰えることは無く、それはあたかも魔王が神を一口に呑み込んで自分の心の憎しみを癒やすことを望んでいるかのようである。こうした憎むべき神の敵を、どうして人間は容赦出来ようか。人間の生涯の望みを叶えるには、魔王の根絶と完全な駆除によるほか無いであろう。どうして魔王を意のままにさせるのを許しておけるであろうか。魔王は、人間が天日を知らず、行き詰まって愚鈍になるまで人間を腐敗させた。人間は正常な人間の理知を失った。私達の全てを捧げて魔王を打ち焼き払い、未だに残る危険性に対する恐れを解消し、神の業が早急に嘗て無い輝きに達することが出来るようにしようではないか。この悪党どもは人間の中に来て、徹底した騒動と混乱を引き起こした。そうした悪党どもは全ての人間を断崖の縁へと追い詰め、粉砕してその屍をむさぼることを密かに企んでいる。そうした悪党どもは、愚かしくも大博打を打って[5]神の計画を阻止し、神と争うことを望んでいる。それは決して容易ではない。最も憎むべき罪に咎められるべき魔王のために、遂に十字架が用意された。その十字架は、もはや神が架けられるものではなく、神は既にそれを悪魔が架けられるものとして、譲り渡している。はるか以前に、神は勝利し、人間の罪に対する悲しみを感じなくなっている。神は、全人類に対して救いを授ける。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(7)」より

11.上から下まで、そして最初から最後まで、魔王は神の業を阻害し、神に協調しない行動を取り続けてきた。古代文化遺産や貴重な古代文化の知恵、道教や儒教の教え、儒教の五経と封建時代の礼に関する話が、人間を陰府に陥れた。現代の先進科学技術も、発展した農工業、そして商業も、全く見当たらない。むしろ魔王は、故意に神の業を阻害し、それに反対し、それを破壊するために、古代の「類人猿」により広められた、封建時代の礼をひたすら強調する。魔王は現在に至るまで人間を苦しめてきたが、それだけでなく人間を完全に食い物にする[6]ことを望んでいる。そうした封建時代の倫理規定に関する教え、古代文化の知恵の継承が、人間を長年にわたって蝕み、大小の悪魔へと変貌させて来た。神を快く受け容れ、神の降臨を歓迎するであろう者は、ごく僅かである。人間の表情は殺気に満ち、至る所で死の気配が感じられる。そうした者は、神をこの地から排除することを求め、神を抹消するために、刀剣を持って陣を組んでいる。悪魔の地全体において、偶像が広まり、人間は、神はいないと教えられ続けている。この地の上には、吐き気を催すような紙と香の焼ける臭いが強く漂っており、窒息するほどである。それはへびがとぐろを巻く時に放つ汚泥の臭いのようであり、人間は嘔吐ずにはいられないほどである。それに加えて、悪魔達の読経が、かすかに聞き取れる。その声色は陰府の遠い所から聞こえるようであり、人間は背筋が凍るのを感じずにはいられない。虹色の偶像がこの地全体に散在し、それがこの地を幻惑の世界へと変え、魔王は自分の邪悪な謀りが成就したかのように、常に薄笑いを浮かべている。その一方、人間はそれに全く気付かず、自分の理性が無くなり、自分が打ち倒されるほどまでに悪魔が自分を腐敗させたことに気付かない。悪魔は神の全てを一撃打破し、再び神を侮辱し、暗殺することを望み、神の業を打ち壊し、阻害しようとする。どうして悪魔は神が同等の地位にあることを甘受出来ようか。どうして悪魔は、人間の中で行う業を神が「邪魔する」のを許すことが出来ようか。どうして悪魔は神が自分の醜悪な顔を暴くのを許すことが出来ようか。どうして悪魔は神が自分の業を阻止するのを許すことが出来ようか。そう酷く怒っている悪魔が、どうして神が地における権力の宮を治めるのを甘受するであろうか。どうして悪魔が敗北を認めることを望むであろうか。悪魔の醜悪な表情は悪魔の在り方を示しており、それゆえ人間は自分が笑うべきか泣くべきか分からなくなり、悪魔について語ることは極めて困難である。それが悪魔の本質ではなかろうか。悪魔は、醜悪な霊で、自分が驚異的に美しいと信じている。全くけしからぬ共犯者集団である[7]。悪魔は人間の中に来て享楽にふけり、混乱を助長する。悪魔の阻害行為により、世界的な日和見主義的風潮が興り、人間の心を狼狽させる。また、悪魔が人間を歪めたため、人間は見るに堪えない醜悪な獣のようであり、元来の聖い人間の姿は皆無である。悪魔は、地における暴君としての権力を掌握することさえ望む。悪魔は神の業を妨害しており、それにより神の業は辛うじて前進し、銅と鋼の壁のように、人間を封じ込めることが出来る。極めて多くの罪を犯し、極めて多くの問題を引き起こしてきた悪魔には、どうして罰を待つ以外に何か期待出来ることが有るだろうか。悪魔と悪霊は、地上を暴れ回り、神の心と丹精を込めた努力を封じ込めて、それらを浸透不可能なものとしている。何という大罪であろうか。どうして神が不安にならずにいられようか。どうして神が怒らずにいられようか。悪魔は、神の業に対して重篤な妨害や反対を引き起こしている。まったく反逆的過ぎる。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(7)」より

12.人間が行う迷信的な行為は、神が最も忌み嫌うものであるが、そうした行為が神により定められたものであると考え、それを捨て去ることが出来ない人が多く、そうした行為は現在も完全には捨て去られていない。若者が手配する婚礼や嫁入り道具、祝儀、披露宴や、それと同様に祝われる慶事、継承されてきた古代の風習、死者のために行われる無意味な迷信的行為や葬式などは、それにも増して神が忌み嫌うものである。日曜日(ユダヤ人が励行する安息日)でさえ、神にとって忌み嫌うべきものである。それにも増して、神は人間同士の社交関係や世俗的付き合いを嫌悪し拒絶する。皆が知っている春節やクリスマスは、神が定めたものではなく、ましてこうした祝祭日の玩具や飾り付け(二行連、新年の菓子類、爆竹、灯籠、クリスマス・プレゼント、パーティー、聖餐式)は神が定めたものなどでは全くない。これらは、人間の心にある偶像ではなかろうか。安息日にパンを分け合うことやぶどう酒、亜麻布の衣服などは、それにも増して偶像である。龍擡頭、龍舟節、中秋節、臘八節、新年など中国で一般的な伝統的祭日、そして復活祭、洗礼日、クリスマスなどの宗教的祭日は、どれも正当化しようのない祭日であり、昔に制定されてから多くの人々により現在まで受け継がれてきているが、神が造った人類と全く相容れないものである。これらの祭日は、人間の豊かな想像力と巧妙な観念により、現在まで受け継がれることが可能となったものである。そうした祭日は全く欠点が無いように思われるが、実際にはサタンの人間に向けた謀である。その地にサタンが多ければ多いほど、またその地が廃れて時代遅れであればあるほど、そこには封建的風習が一層深く根ざしている。そうした物事は人間を堅く拘束し、そのために全く身動きをとる余裕がない。宗教界の祭祀の多くが、高い独創性を示し、神の働きへの架け橋を築いているように思われるが、実はそうした祭祀はサタンが人間を拘束し、神を知ることを阻む目に見えない紐であり、それらは全てサタンの狡猾な策謀である。事実、神の働きのある段階が完了すると、神は既にその時代の手段や方法を跡形もなく破壊し終えている。しかし「敬虔な信者」は、そうした有形の物体を崇拝し続ける。その一方で、彼らは神のもつものを心の奥へしまい込み、それ以上学ばず、神への愛で満ち溢れているかのような素振りであるが、実際は神を遥か以前に追い出し、祭壇にサタンを据えている。人々はイエスの肖像、十字架、マリア、イエスの洗礼、最後の晩餐などを、天の主として尊びつつ、「父なる神よ」と繰り返し呼び続ける。これは全て冗談ではなかろうか。現在まで人類が受け継いで来た同様の文言や実践は、神にとって憎むべきものである。そうした物事は神の前途を阻み、さらに人間がいのちに入るのに大きな障害となる。サタンが人間を堕落させた範囲を除いても、人々の内面はウイットネス・リー(李常受)の掟やローレンスの経験、ウオッチマン・ニー(倪柝聲)の調査、そしてパウロの働きのような物事で満たされている。神が人間に対して働きを行うすべが全くない。なぜなら人々の内面には個人主義や掟、規則、規制、制度などが多過ぎるからである。人々の封建的迷信の傾向に加え、そうした物事は人間を捉えてむさぼって来た。それはあたかも人々の考えが想像上の生き物が雲に乗って旅をする寓話を極彩色で物語る興味深い映画のようであり、極めて独創的であるために人々は驚き、茫然として言葉を失う。実のところ、神が来て今日行う働きは、主として人間の迷信的態度を取り扱い、払拭して、その精神的姿勢を完全に変化させることである。神の働きは何世代も受け継がれて今日まで人間により保存されてきたものではなく、霊的な偉人の遺産を継承する必要も、他の時代に神が行った代表的な業を継承することもなく、神自らが開始し、完了させるものである。人間はそうした物事に一切関与する必要がない。現在の神は、それらとは別の方法で語り、働きを行う。それならば、なぜ人間が自ら苦労する必要があるのであろうか。人間が自分達の「祖先」の遺産を継承し続けながら、この流れの中で今日の道を歩んだ場合、終着点にたどり着くことはないであろう。神は、特にこの人間行動形態を、人間界の年月や日々と憎悪するのと同様に、大いに忌み嫌っている。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(3)」より

13.サタンは民間伝承や歴史書にある物語を数多く作り上げて、人間に伝統文化や迷信の登場人物などを深く印象付けています。例としては、中国の八仙過海、西遊記、玉皇大帝、ナーザの大暴れ、封神演義など。これらの例は、人間の心に深く根ざしていませんか。あなたがたのうちには詳細をすべて把握していない人もいるでしょうが、あらすじは知っており、そうした内容の概要が心や頭に残って忘れることが出来ないのです。これらの例は、サタンがはるか昔に人間向けに作り、サタンの様々な思想や伝説を異なる時期に何度となく流布してきたものです。こうした事柄は人間に直接的な危害を加え、人間の魂を蝕み、人々に次々と呪文をかけます。つまり、こうした伝統文化、伝説、迷信から生まれた事柄を受け入れ、こうした事柄が頭の中で確立された存在となり、心から離れなくなった時点で、あなたは呪文にかけられたようなものであり、そうした文化、思想、伝説に捕らわれ、影響されるようになるのです。こうした事柄は、生活や人生観、物事の判断力に影響を与えます。とりわけ、人生における真の道の追求に影響を与えるので、これはまさしく呪文です。その呪文を捨て去ろうとしても捨てられず、切っても切り捨てられず、打っても打ち倒すことが出来ない。さらに、人間が無意識のうちにこの種の呪文にかかった場合、人間は知らぬうちにサタンを信仰するようになり、心の中にサタンの像を育てます。つまり、サタンを偶像、崇拝対象として、過度の場合は神としみなします。こうした物事は人間の心に無意識のうちに存在し、人間の発言や行動を支配します。さらに、あなたはこうした物語や伝説を虚偽とみなしますが、そのうちその存在を無意識のうちに認め、そこから実在の人物を作り出し、実在する物事に変えていきます。あなたは、無意識の領域で、これらの思想や物事の存在を受け入れるのです。また、あなたは無意識のうちに悪魔、サタンそして偶像を自宅や心に受け入れるのです。これはまさしく呪文です。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 6」より

14.サタンが社会動向を利用して人間を堕落させることです。この社会動向には様々なものがあります。「それは衣服のことですか。最新ファッションや化粧品、ヘアスタイルやグルメに関することですか」などと言う人がいます。社会動向とは、そうした物事に関することですか。それらも社会動向の一部ですが、ここでそうした物事については取り上げません。ここでは、社会動向が人間にもたらす考えや、社会動向が世間における人間の行動にどう影響するか、そして社会動向が人間にもたらす人生の目標や人生観についてのみ話し合います。社会動向は、人間の精神状態を支配し、影響を与えることがあるので、極めて重要です。こうした社会動向には、それぞれに人間を継続的に堕落させ、良心、人間性、理知を失わせ、人間の倫理や人格をますます低下させる邪悪な影響があり、それゆえ現在、大部分の人々に誠実さや人間性、良心、さらには理知さえ欠如している状態にまで達しているとさえ言えるほどです。それでは、そのような社会動向とは何なのでしょうか。それは裸眼では見ることが不可能です。社会動向が席巻すると、その創出者となるのはごく僅かな人たちです。その人たちは、ある種の行動を始めたり、ある種の考え方や物の見方を受け入れたりして始めます。しかし大部分の人々は、無意識のうちに、そうした社会動向に継続的に汚染され、捕らわれ、魅惑され、やがてそれを知らず知らずのうちに、無意識のうちに受け入れるようになり、それに呑み込まれて支配されるようになります。こうした社会動向で、心身の健全さが欠如し、真理とは何かを知らず、肯定的なものと否定的なものの区別が出来ない人間は、そうしたサタンに由来する社会動向や人生観、価値観を次々と進んで受け入れてしまいます。この種の人々は、どのような人生を送るべきかに関してサタンが教えることや、サタンにより「授けられた」生活の道を受け入れます。彼らには強さ、能力、またことさらに拒否する意識が欠乏しているのです。…

…サタンはこうした社会的動向を用いて、少しずつ人間を誘惑して悪の巣窟へと誘い、社会的動向に捕らわれた人間は、気付かぬうちに金銭や物欲、邪悪と暴力を擁護するようになります。ひとたびこうした物事が人間の心に入ると、人間はどうなりますか。人間は邪悪なサタンと化すのです。それは、人間の心のどのような心理的傾向に起因しますか。人間は何を擁護しますか。人間は邪悪と暴力を好むようになるのです。人間は美や善を嫌い、またそれ以上に平和を嫌います。人間は通常の人間性による質素な生活を送ろうとせず、高い地位や大きな富を得ることを望み、肉の享楽に耽溺し、自分の肉を際限も制約もなく満足させるために努力を惜しまず、すなわち自分の求めるあらゆる事を行います。それならば、人間がこうした動向に没頭した場合、取得した知識はあなたが自由になるのに役立ちますか。あなたが知る伝統文化や迷信は、この窮地を投げ捨てるのに役立ちますか。人間が把握している伝統的な倫理や儀式は、人間が自制する上で役立ちますか。例として、『三字経』を考えてみましょう。三字経は、人間がこうした社会動向の泥沼[b]から抜け出す上で、役立つことがありえますか。(ありえません。)このように、人間はますます邪悪で、傲慢で、尊大で、自己中心的で悪意に満ちてゆきます。人間同士の愛情も家族同士の愛情も無くなり、親戚や友人同士の理解も無くなり、人間関係は暴力に満ちたものとなっています。誰もが暴力的方法を使用して、他の人間のそばで生活することを望み、自分自身の生活を確保するために、暴力を使います。地位や利益を得るためにも暴力を用い、また暴力や邪悪な方法を用いてしたい放題です。このような人類は恐ろしいものではないですか。(その通りです。)今わたしが述べた事を聞いて、サタンが人を堕落させるこの環境、この世界、このような群衆の中で暮らすのは恐ろしいと思いませんか。(思います。)

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 6」より

15.「地獄の沙汰も金次第」はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりの心に染み込み、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。人はこの格言を受け入れない状態から、それに慣れ親しんでいく状態に移行したので、現実生活を知るようになったとき、格言を暗黙のうちに徐々に認め、その存在を認知し、最終的には一人ひとりが格言に承認印を押したのです。この過程は、サタンが人間を堕落させる過程ではありませんか。おそらく人々はこの格言を同じ程度に理解しておらず、人々の周辺で起きたことや個人的な経験にもとづいて、一人ひとりがこの格言について程度のことなる解釈や認識をしています。そうですね。この格言について誰かがどれほどの経験があるかにかかわらず、これが誰かの心に及ぼすことのある否定的な効果は何ですか。皆さん一人ひとりを含め、この世にいる人々の人間的性質を通して、何かが明らかにされました。これはどのように解釈されますか。それは金銭崇拝です。それを誰かの心から排除するのは困難ですか。極めて困難です。サタンによる人間の堕落は相当に徹底的なようです。サタンがこの社会動向を用いて人を堕落させた後、それは人にどのように表れますか。皆さんは金がなくてはこの世で生き残っていけない、一日でさえも不可能であると感じませんか。人の地位は、体面と同様に、その人がどれだけ金をもっているかにもとづいています。貧しい人々は恥ずかしさのあまり背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。人々はもっと金を得るために自分の尊厳や高潔さを犠牲にしていませんか。多くの人が、自らの本分を尽くして神に従う機会を、金のせいで失っていませんか。これは人にとって損失ではありませんか。(損失です。)この方法と格言を用いて人間をここまで堕落させるサタンは邪悪ではありませんか。これは悪意に満ちた策略ではありませんか。この広く流布している格言に反対する状態から最終的にそれを真理として受け入れる状態に移行するにつれて、人の心は完全にサタンの掌中に落ち、そのため気付かないうちにこの格言により生きるようになります。この格言は、どの程度あなたに影響を与えましたか。あなたは真の道を知り、真理を知っているかもしれませんが、それを追求するには無力なのです。神の言葉を明確に知っているかも知れませんが、代償を払う覚悟がなく、代償を払うために苦しむ覚悟もありません。その代わり、あなたは自分の将来と運命を犠牲にして、最後の最後まで神に逆らう方がいいのです。神が何を言おうと、神が何をしようと、あなたへの神の愛が深く偉大であることにあなたがどれほど気づいていようと、あなたは頑なにこの格言のためにひたすら代償を払うのです。つまり、この格言は既にあなたの行動や思想を支配しており、それをあきらめるよりも、むしろそれに自分の運命を支配されることを望んでいるのです。人はこのようなことをし、この格言に支配され、操られます。これは人間を堕落させるサタンによる効果ではありませんか。これはあなたの心に根ざしているサタンの哲学と堕落した性質ではありませんか。もしあなたがそうすると、サタンはその目的を達成したことになりませんか。(なります。)サタンがこのように人間を堕落させてきたことが見えますか。感じることができますか。(いいえ。)あなたはそれを見も感じもしなかったのです。ここにサタンの邪悪が見えますか。サタンはあらゆる時にあらゆる場所で人間を堕落させます。サタンは人間がこの堕落に対して防御することを不可能にし、それに対して人間を無力にさせます。うっかりしていたり、自分に何が起きているかを認識していない状況において、サタンはその思想、観点、サタンから来る邪悪な物事をあなたに受け入れさせます。人はそれらをすっかり受け入れ、それに苦情を言うこともありません。それらを宝のように大切に抱えて、それらが自分を操り、もてあそぶままにします。このようにしてサタンによる人間の堕落はますます深まるのです。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 5」より

16.ひどく汚れた地に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、「高等教育機関」で教えを受けてきた。時代遅れの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣、これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。人の性質は日ごとに悪質になり、神のために進んで何かを投げ出そうという者は一人としておらず、進んで神に従う者は一人としておらず、さらには神の出現を進んで探し求める者も一人としていない。それどころか、サタンの支配下で快楽を追求しているだけで、泥の地で肉体の堕落にふけっている。真理を耳にしたときでさえ、暗闇に生きる人々はそれを実行に移そうとは考えず、たとえ神の出現を見たとしても、神を探し求める気持ちにはならない。こんなにも堕落した人類にどうして救いの可能性があり得ようか。どうしてこんなにも退廃した人類が光の中に生きることができようか。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より

17.人間を堕落させるためにサタンが用いる手段は、おもに六つある。

第一の手段は支配と威圧です。つまり、サタンはあなたの心を支配するために、あらゆることを行ないます。「威圧」とは何ですか。脅迫と強制的な戦術を用いてあなたに言うことを聞かせ、従わなかった場合の結末を考慮させることを意味します。あなたは恐れて、逆らうような真似はせず、サタンに服従します。

第二の手段は騙しとごまかしです。「騙しとごまかし」には何が伴いますか。サタンはでっち上げた伝説や嘘で人を騙して人にサタンを信じさせます。サタンは人間が神に造られたとは決して言いませんが、人間は神に造られたのではないとも直接的に言いません。サタンは「神」という言葉を全く用いず、あなたを惑わすために言い換えの言葉を用いるので、あなたは神の存在については基本的に何も知りません。このごまかしには当然、これ以外にも様々な側面があります。

第三の手段は強制的な教化です。何についての強制的教化ですか。強制的な教化は、人間自身の選択により行なわれますか。人間の同意のもとで行われますか。(いいえ。)人間が同意しなくても無関係です。あなたの無意識のうちに行われ、サタンの思想や生活法則、本質があなたに吹き込まれます。

第四の手段は脅迫と誘惑です。つまり、サタンは、あなたにサタンを受け入れさせ、あなたをサタンに付き従わせ、サタンのために行動させるために、様々な手段を用います。サタンは、目標達成のために必要とあらば、手段を選びません。サタンはあなたに僅かに恩恵を施すことがあるが、あなたを誘惑して罪を犯させます。あなたがサタンに従わなかった場合、サタンはあなたを苦しめ、あなたに罰を与え、あなたを攻撃して罠にかけるために様々な手段を用います。

第五の手段は惑わしと麻痺です。「惑わしと麻痺」とは、サタンが、人間を騙すことが本当の目的なのに、あたかもサタンが人間の肉や生活、将来を考慮しているように考えられるよう、人間の考え方と合致するような甘い言葉や思想をでっち上げることです。サタンはそうして人間を麻痺させるので、人間は善悪の判断がつかなくなり、人間は知らないうちに騙され、サタンに支配されてしまうのです。

第六の手段は、心身の破壊です。サタンは人間の何を破壊しますか。(精神など人間のすべてです。)サタンは人間の精神を破壊し、あなたを無力にして反抗させないようにします。つまり、あなたの心は、自分の意思に反してとてもゆっくりサタンへ向いてゆきます。サタンは、これらの考えや文化などを用いて、これらの事柄を日常的に人間に吹き込み、人間に影響を及ぼし、教化し、極めてゆっくりと人間の意志を滅ぼし、もはや善人になりたくないと考えさせ、人間が義と呼ぶものを堅持する意志をくじきます。知らないうちに、人間は流れに逆らって上流へと進む意志の力を失い、下流に流されていきます。「破壊」とは、サタンが人間を苦しめるあまり、人間でも幽霊でも無いほどの状態にした上で、その機会に人間を食い尽くすことです。

サタンが人間を堕落させるこれらの手段は、どれもが人間を無力にして反抗できない状態に陥れることが可能です。どれもが人間にとって致命的なものです。つまり、サタンの行動とサタンが用いる手段は、すべてあなたを堕落させ、人間をサタンの支配下に陥れ、あなたを罪悪の泥沼に陥れることができます。以上が、サタンが人間を堕落させるために用いる手段です。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 6」より

18.神は人間に働きかけ、人間は神の態度と心の両方において大切にされています。一方、サタンは人間を大切にしますか。サタンは人間を大切にしません。サタンが考えるのは人間を傷つけることだけです。そうではありませんか。サタンが人間を傷つけることを考えているとき、サタンは喫緊の精神状態でそうしますか。(はい。)人間に対するサタンの業に関しては、サタンの悪意のある邪悪な本性を十分に言い表し、あなたがたがサタンの憎らしさを知ることができる二つの語句があります。サタンが人間に接近する際に、サタンは常に強制的に一人ひとりの人間を占有し、一人ひとりの人間に取り憑き、害を及ぼすところまで到達し、サタンの目的を果たし、無謀な野望を実現させようとします。「強制的に占有する」とはどういう意味ですか。それはあなたの同意の上で、それとも同意なしで起こりますか。あなたが知っていて、それとも知らないうち起こりますか。それはまったく知らないうちに起こります。あなたが意識していない状況において、おそらくサタンがまだ何も言っていないとき、おそらくまだ何も行っておらず、何の前提も脈絡もないとき、サタンはあなたを取り囲んでそこにいるのです。サタンは利用する機会を探しており、次にあなたを強制的に占有し、あなたに取り憑き、あなたを完全に支配し危害を加えるという目的を果たします。これが、サタンの人類を手に入れるための神との戦いにおける典型的な意図と振る舞いです。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 4」より

19.この地は数千年にわたり不浄の地となっており、耐えがたいほど汚れ、悲劇に溢れる。至る所に幽霊がはびこり、欺し偽り、根拠の無い告発を行い[8]、冷酷かつ残忍であり、この幽霊の街を踏みつけて屍の山を残した。腐った屍の悪臭が地を覆って充満しており、その地は堅く警護されている[9]。誰が空の彼方の世界を見ることが出来ようか。その悪魔は人の身体全体をがんじがらめにして両眼を見えなくし、両唇を堅く封じる。魔王は数千年にわたって現在まで猛威を振るい、幽霊の街を堅固に警備しており、それはあたかも難攻不落の悪魔の城のようである。その一方、警護に当たる番犬の群れが睨んでおり、番犬は神による不意討ちで完全に滅ぼされるのを強く怖れ、平和と幸福の余地は無い。こうした幽霊の街に住む人間が神を見たなどということが、どうして有り得るだろうか。そうした者は神の優しさや愛しさを享受したことが、嘗てあったであろうか。人間の世界の物事について、そうした者はどのように認識しているであろうか。そうした者のうち、誰が神の切なる望みを理解できるであろうか。肉にある神が完全に隠れたままであっても、不思議では無い。悪魔が残忍非道をはたらくような、こうした暗黒社会において、瞬く間に人々を殺す魔王が、愛しく懇切で聖い神の存在を、どうして容認出来ようか。どうして魔王は神の到来に喝采を送ることができようか。まったく卑屈な者どもである。そうした者は恩を仇で返し、神を侮って久しく、神を虐待し、残忍を極め、神を少しも敬うことなく、強奪や略奪を行い、良心を完全に失い、親切さのかけらもなく、純真な者を無分別な物事へと誘惑する。遠い昔の祖先はどうだろうか。愛された指導者はどうだろうか。そうした者は皆、神に反抗している。そうした者の干渉により、地にある者すべてが闇と混沌に陥れられたのだ。宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である。誰が神の業を受け容れたというのか。誰が神の働きのために命を捧げ、血を流したというのか。親から子へ、何世代にもわたって、奴隷とされた人間は不作法に神を奴隷としてきた。そうした物事がどうして怒りを買わずに居られるであろうか。数千年におよぶ憎しみが心に凝縮され、数千年におよぶ罪深さが心に刻み込まれている。こうした状態で、どうして憎悪感を覚えずに居られようか。神の仇を討ち、神の敵を掃討し、敵が二度と蔓延ることを許してはならない。また敵が意のままに問題を起こすことを許してはならない。今がその時である:人は随分前からこのために全力を振り絞り、努力の限りを尽くし、費やせるだけ費やしてきた。それは、この悪魔の忌まわしい顔をはぎ取り、盲目にされた人々、あらゆる苦しみと苦難に耐えてきた人々が痛みから立ち上がり、この邪悪な古い悪魔に背を向けることができるようにするためである。なぜ、神の業に対してそのような難攻不落の障害を建てるのか。なぜ神の民を欺く様々な謀りを用いるのか。真の自由や正当な権利と権益はどこにあるのか。公平さは、どこにあるのか。安らぎは、どこにあるのか。温もりは、どこにあるのか。偽りに満ちた謀りを用いて神の民を欺すのは何故か。神が来るのを武力で抑制するのは何故か。神が造った地の上を、神に自由に移動させないのは、何故か。神が枕するところが無くなるほどに神を追うのは、何故か。人間の温もりは、どこにあるのか。人間同士の歓迎は、どこにあるのか。それほどまで絶望的な思慕を神に引き起こすのは、何故か。神に何度も叫ばせるのは、何故か。神の愛する子を神に強制的に憂わせるは、何故か。この暗黒社会とその哀れな番犬が、神の造った世界を神が自由に出入り出来るようにしないのは、何故か。苦痛と苦難の中に生きる人間が理解しないのは、何故か。あなたがたのために、神は大いなる苦痛を受け、大いなる苦しみをもって神の愛する子、そしてその肉と血をあなたがたに与えた。それならば、あなたがたが依然として盲目を向けるのは、何故か。皆が見守る中、あなたがたは神の到来を拒絶し、神の友好を拒否する。あなたがたがそれほどまで非良心的なのは、何故か。そのような暗黒社会の不当さを、あなたがたは進んで受けるのだろうか。自分の腹を数千年におよぶ敵意で満たす代わりに、魔王の「糞」で満たすのは、何故か。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より

20.サタンは、一般大衆を騙すことにより、名声を得る。通常、サタンは義の先導者的かつ模範的存在として、自分自身の立場を確立する。義を守るという旗印のもと、サタンは人間を傷つけ、その魂を食い物とし、また人間を麻痺させ、騙し、扇動するためにあらゆる手段を講じる。サタンの目標は、自分の邪悪な行いを人間に認めさせ、それに人間を従わせること、サタンと共に神の権威と支配に反対させることである。しかし、その陰謀や策略、下劣な特徴についてわきまえるようになり、サタンの踏み台にされ、騙され、奴隷として仕えること、あるいはサタンと共に罰を受けて滅ぼされることを望まなくなると、サタンは従前の高徳な特徴を一変させ、仮面を破り捨て、真の邪悪で残忍で醜い獣のような素顔を現す。サタンは、自分に従うことを拒んだ者と、サタンの邪悪な力に反対した者全てを皆殺しにすることを、何よりも好む。この段階で、サタンは信頼のおける紳士的姿を装うことは出来なくなり、被っている羊の皮の下の醜い悪魔のような特徴を持つ正体を現す。サタンの陰謀が明るみに出た時、その真の特徴が現れた時、サタンは激怒してその野蛮さを現し、人間を傷つけ、食い物にするサタンの欲望が強くなって行く。これは、サタンが人間が目覚めることに対して激怒するからである。サタンは、捕らわれの身から解き放たれて自由と光を得ようとする人間に、強い復讐の念を抱いている。サタンの怒りは、サタンの邪悪さを保護するためのものであり、またその獣のような性質を真に披瀝するものである。

サタンの行動は、万事においてサタンの邪悪な性質を示す。サタンが人間を惑わせて自分に従わせようとする初期の取り組みから、サタンが自分の邪悪な行いに人間を引きずり込む、サタンによる人間の搾取や、サタンの真の姿が現れ、人間がそれを認めて見捨てた後のサタンの執念深さまで、サタンが人間に対して行うあらゆる邪悪な行いのうち、サタンの邪悪な本質が披瀝されないものは無く、サタンは肯定的な物事と全く関係が無いという事実を証明しないものは無く、サタンはあらゆる邪悪な物事の根源であることを証明しないものは無い。サタンの行動は、すべてサタンの邪悪さを守り、サタンの邪悪な行いを継続し、正しく肯定的な物事に反抗し、人類の通常の存在の法則や秩序を破綻させる。サタンの行いは、神への敵意であり、神の怒りが滅ぼすものである。サタンには自分自身の怒りがあるが、その怒りはサタンの邪悪な性質を発散させる手段である。サタンが憤慨し、激怒する理由は、サタンの陰謀が明らかになったことや、その策略を成功させるのが困難であること、神の代わりとして君臨するというサタンの向こう見ずな野心と願望が打ち砕かれ、阻止されたこと、全人類を支配する目標が何の価値もないものとなり、永遠に達成出来なくなることなどである。サタンの陰謀が結実することや、サタンの邪悪が拡散するのを阻止して来たのは、神が度々召喚してきた、神の怒りであるため、サタンは神の怒りを嫌うと同時に畏れている。神の怒りが適用された時は常に、サタンの下劣な真の姿が披瀝されるだけでなく、サタンの邪悪な願望も明らかにされる。同時に、人類に対するサタンの怒りの理由が白日の下にさらされる。サタンの激昂は、サタンの邪悪な性質とサタンの謀略が、真に明示されたものである。無論、サタンが激怒した時は、毎回邪悪な物事の破壊を予告している。つまり、肯定的な物事に対する保護と維持、そして、反抗することが許されない、神の怒りの本質がその後に続く。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 2」より

21.サタンの「特別」な身分のために、サタンが様々な側面において表示する内容に対して、多くの人々が強い関心を寄せるようになる。なかには、サタンは奇跡を起こすことや、人間には不可能なことができるのであるから、サタンにも神と同様に権威がある、と信じている愚かな人々もいる。そうしたわけで、人間は神を礼拝する一方で、心の中にサタンの居場所を設け、さらにはサタンを神として礼拝することさえある。こうした人々は、哀れであると同時に、憎まれるべきである。こうした人々は、その無知さのために哀れであり、またその非道と生来の邪悪な本質のために憎まれるべきである。ここで、権威とは何か、権威は何を象徴するか、権威は何を表しているかを知らせる必要があるであろう。概して、神自身が権威であり、神の権威は崇高さと神の本質を象徴し、神自身の権威は、神の地位と身分を表す。そうであるとすれば、サタンは自分が神であるなどと敢えて言うであろうか。サタンは、自分が万物を造り、万物を支配していると敢えて言うであろうか。当然ながら、そのようなことは言わない。なぜなら、サタンは万物を創造することができないからである。現在まで、神が造った物と同じ物をサタンが造ったということは一度もなく、サタンが命あるものを造ったことは一切無い。サタンには神の権威が無いので、神の地位と身分をサタンが得ることはできない。これはサタンの本質により決定される。サタンには、神と同じ力があるだろうか。当然ながら、そのようなことは無い。サタンの行動や、サタンが起こした奇跡を何と呼ぶであろうか。それらは、力であろうか。それらを権威と呼べるであろうか。無論、それは力ではなく、権威とも呼べない。サタンは邪悪を率い、神の業のあらゆる側面を覆し、損なわせ、妨害する。現在まで数千年にわたり、人間を腐敗させ、虐待し、人間を誘惑し、欺して悪行を行わせ、神から拒否される存在にして、死の淵に向かわせたサタンは、かつて人間による祝賀や称賛、敬愛に値することを行ったことがあろうか。仮にサタンが権威と力を持っていたとすれば、人間はその権威や力により腐敗させられていたであろうか。仮にサタンが権威と力を持っていたとすれば、人間はその権威や力により危害を被ったであろうか。仮にサタンが権威と力を持つとすれば、人間はその権威や力により神を捨てて死へと向かうのであろうか。サタンには権威も力も無いのであれば、サタンの行為の本質は何であると判断すべきであろうか。サタンの行為全てを単なる謀略であると定義する人々もいるが、わたしはそうした定義はそれほど適切ではないと考える。人間の腐敗による邪悪な行いは、単なる謀略であろうか。サタンがヨブを虐げた邪悪な力と、ヨブを虐げ悩ませようとする激しい願望は、単なる謀略では得られないものである。思い出してみると、丘や山に広く群れていたヨブの動物たちは、一瞬にして消え去った。ヨブが所有していた大量の富が一瞬で消えた。これは謀略だけで成し得たことであろうか。サタンの業の性質は、損害、妨害、破壊、危害、邪悪、悪意、闇など、否定的な言葉に該当するので、そうした不正で邪悪な出来事の全てはサタンの行為と密接に繋がっており、サタンの邪悪な本質と不可分のものである。サタンの「力」や、大胆さ、野望がどれほどのものであったとしても、サタンの損傷を与える能力がどれほど優れていたとしても、サタンが人間を腐敗させ、誘惑する能力の幅広さがどれほどのものであったとしても、サタンが人間を威嚇する謀略や計略がどれほど狡猾であったとしても、またサタンが存在する形態をどれほど変化させることができたとしても、サタンには生き物を造る能力や、万物に対する法則や規律を定める能力があったことは無く、命のあるものかないものかを問わず、どのようなものも支配する能力があったことは無い。広大な宇宙の中で、サタンから生まれた人間や物、サタンのおかげで存在する人間や物、サタンに統治され、支配されている人間や物は、全く存在しない。それとは反対に、サタンは神の支配権の下で生活する必要があり、さらに神の指示と命令にすべて従う必要がある。神の許可なくしては、サタンにとってひとしずくの水やひと握りの砂に触れることさえ困難である。また神の許可なくしては、サタンは蟻を地に這わせることさえままならないのであるから、神の造った人間を動かすことなど到底できるはずがない。神から見ると、サタンは山のユリの花よりも劣り、空を舞う鳥や海の魚にも劣り、地のウジ虫にも劣る。万物の中におけるサタンの役割は、万物に仕え、人間のために仕え、神の業と神の経営(救いの)計画に資することである。サタンの本性がいかに悪意に満ちているか、その本質がいかに邪悪であるかによらず、サタンにできることは、神に仕え、神に対照を提供するという、その機能に従順に従うことのみである。これがサタンの本質であり位置づけである。サタンの本質は命や力、権威から切り離されており、サタンは神の手の中にある玩具のようなもの、神のための役立つ道具に過ぎない。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 1」より