移住に向けて、お世話になった人たちに挨拶をしなければならない。
私達は、関東を脱出して九州に移住する。
移住自体は今年のGWくらいには考えていたが、九州に住む発明家の飯山一郎先生に会いに行き、お話を聞いてから決意が固まった。
ちょうど妊娠がわかったので、それを理由に…という感じ。
ほぼ同時期だし、こうなる事は運命だったのかもしれない。
このまま関東に住み続けていたら、どんどん弱っていってあっという間に命を落としてしまう。
九州に移住したからと言って、必ず助かる訳では無い。
けれど、関東に住み続けるより数年は寿命が伸びる筈である。
私達は、その数年間を子育てに費やしたいと願い、住み慣れた故郷に別れを告げる事にしたのである。
私と彼は、結婚を前提に付き合った。
お互いに片親で、穏やかな家庭を築きたくて、何より子供が欲しくて、それが全てだった。
私の家は多産系で、お陰ですぐに妊娠した。
たった1回で出来てしまったのだ。
出会いも出会いだったし、これは最早運命としか言いようがない。
看護学校のクラスメイト40人ちょっと、誰一人として原発事故を気にする人が居なかった。
放射能のホの字…くらいは出たかなぁ。
レントゲンとかCTとかの言葉は授業に出てきたから。
呼吸器の先生が、原発事故の一ヶ月くらいは患者の中にはレントゲン拒否をした人も居たと話していたが、それだけだった。
気にしていたのは最初だけで、あとは忘れ去られたという。
勤めていた病院の副院長も原発の話をした事はあるが、自然界にも放射線は存在しているので気にする必要はないと、そう言い切っていた。
高齢であり、どこまで本音なのかは分からないが、医者の放射能に対する認識はその程度なのかと愕然とした。
まぁ、同じ患者に連日レントゲン検査を受けさせるような事をしていた病院だったから、仕方ないのかもしれない。
授業で先生が話していた事。
このエピソードは忘れられない。
癌の生存率についての話だった。
クラスメイト全員が胃癌の末期と仮定する。
告知後は死者は居ない。
1年後、1人2人が命を落とす。
3年後、10人が命を落とす。
5年後には、クラスは半分になっている。
私はその話を聞いた時、この国の未来と重ね合わせて戦慄した。
これから、どんどん人口が減って行くだろう。
少しずつ少しずつ…。
気付いた時には、既に手遅れだろう。
私は毎日Twitter等で原発事故についての情報を集めている為、TVでは放送しない若しくは隠蔽しているだろう事を認知している。
しかし、これを大声で叫んだ所で、誰も耳を貸さない事は今迄の経験で既に悟っている。
つまり、逃げたい奴は黙って勝手に逃げろと。
そういう事なのだ。
彼は、あまり原発について気にしては居なかった。
出会ってから少しずつ心を開いていって、紆余曲折あってTwitterアカウントを交換、飯山先生のアカウントを紹介し、そうして危ないと認識したらしい。
あの大地震の時、逃げなくても良いのかと疑問を抱いたそうだが、誰一人として危機感を持たなかったので、そのままズルズル東京に住んでいたと言う。
私もそうだった。
ずっと群馬に居て、原発事故後すぐにこの国の未来は無いと悟った。
その時は、郷土愛が強かったし大切な人は家族だけだったので群馬に骨を埋めるのを覚悟した。
ただ、もしかしたら。
朽ち果てる迄に、旦那になる人が現れて、私が母親になるような事があったら…。
その日の為に、健康に気を使うようになった。
そして、その日は訪れた。
一目見てこの人だと思える人に出会った。
そして、このタイミングで子供を授かった。
残りの人生を一緒に過ごしたい。
そう思える人に出会えたのは、本当に幸せな事だと思う。
愛し愛される人と家族になり、一緒に子育てをする。
そんな当たり前のような、でも私には叶える事は不可能とさえ思われた夢が、叶うのである。
移住は決して楽では無いと思うけれど、それでもそれは私達の意志であり、一筋の希望である。
とにかく、生きる。
ただそれだけだ。
私達は、関東を脱出して九州に移住する。
移住自体は今年のGWくらいには考えていたが、九州に住む発明家の飯山一郎先生に会いに行き、お話を聞いてから決意が固まった。
ちょうど妊娠がわかったので、それを理由に…という感じ。
ほぼ同時期だし、こうなる事は運命だったのかもしれない。
このまま関東に住み続けていたら、どんどん弱っていってあっという間に命を落としてしまう。
九州に移住したからと言って、必ず助かる訳では無い。
けれど、関東に住み続けるより数年は寿命が伸びる筈である。
私達は、その数年間を子育てに費やしたいと願い、住み慣れた故郷に別れを告げる事にしたのである。
私と彼は、結婚を前提に付き合った。
お互いに片親で、穏やかな家庭を築きたくて、何より子供が欲しくて、それが全てだった。
私の家は多産系で、お陰ですぐに妊娠した。
たった1回で出来てしまったのだ。
出会いも出会いだったし、これは最早運命としか言いようがない。
看護学校のクラスメイト40人ちょっと、誰一人として原発事故を気にする人が居なかった。
放射能のホの字…くらいは出たかなぁ。
レントゲンとかCTとかの言葉は授業に出てきたから。
呼吸器の先生が、原発事故の一ヶ月くらいは患者の中にはレントゲン拒否をした人も居たと話していたが、それだけだった。
気にしていたのは最初だけで、あとは忘れ去られたという。
勤めていた病院の副院長も原発の話をした事はあるが、自然界にも放射線は存在しているので気にする必要はないと、そう言い切っていた。
高齢であり、どこまで本音なのかは分からないが、医者の放射能に対する認識はその程度なのかと愕然とした。
まぁ、同じ患者に連日レントゲン検査を受けさせるような事をしていた病院だったから、仕方ないのかもしれない。
授業で先生が話していた事。
このエピソードは忘れられない。
癌の生存率についての話だった。
クラスメイト全員が胃癌の末期と仮定する。
告知後は死者は居ない。
1年後、1人2人が命を落とす。
3年後、10人が命を落とす。
5年後には、クラスは半分になっている。
私はその話を聞いた時、この国の未来と重ね合わせて戦慄した。
これから、どんどん人口が減って行くだろう。
少しずつ少しずつ…。
気付いた時には、既に手遅れだろう。
私は毎日Twitter等で原発事故についての情報を集めている為、TVでは放送しない若しくは隠蔽しているだろう事を認知している。
しかし、これを大声で叫んだ所で、誰も耳を貸さない事は今迄の経験で既に悟っている。
つまり、逃げたい奴は黙って勝手に逃げろと。
そういう事なのだ。
彼は、あまり原発について気にしては居なかった。
出会ってから少しずつ心を開いていって、紆余曲折あってTwitterアカウントを交換、飯山先生のアカウントを紹介し、そうして危ないと認識したらしい。
あの大地震の時、逃げなくても良いのかと疑問を抱いたそうだが、誰一人として危機感を持たなかったので、そのままズルズル東京に住んでいたと言う。
私もそうだった。
ずっと群馬に居て、原発事故後すぐにこの国の未来は無いと悟った。
その時は、郷土愛が強かったし大切な人は家族だけだったので群馬に骨を埋めるのを覚悟した。
ただ、もしかしたら。
朽ち果てる迄に、旦那になる人が現れて、私が母親になるような事があったら…。
その日の為に、健康に気を使うようになった。
そして、その日は訪れた。
一目見てこの人だと思える人に出会った。
そして、このタイミングで子供を授かった。
残りの人生を一緒に過ごしたい。
そう思える人に出会えたのは、本当に幸せな事だと思う。
愛し愛される人と家族になり、一緒に子育てをする。
そんな当たり前のような、でも私には叶える事は不可能とさえ思われた夢が、叶うのである。
移住は決して楽では無いと思うけれど、それでもそれは私達の意志であり、一筋の希望である。
とにかく、生きる。
ただそれだけだ。