櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

レッスン報告・西荻〈踊り入門〉

2017-09-28 | レッスン・WSノート
きのう9/26は西荻のフリークラス「踊り入門」でした。

楽曲から踊る日、リズムから踊る日、動きのモチーフから踊る日、いろいろな日がありますが、きのうは、詩の朗読とダンスのセッションをたっぷり体験していただきました。

詩を読むときは一人で読むことが多いかもしれないけれど、
声にすること、ひたすら聴くこと、さらにエモーションを動きに解放しながら言葉を味わうのは、やはり独特な体験だと思います。
僕自身、ダンスと言語との関わりについては長年試行錯誤しているのだけれど一喜一憂し迷いつづけていますが特別な面白さを感じてイます。

他者の言葉に、他者の声に、他者の息に、身を寄せてゆくこと。

きのうは作者の異なるいくつもの詩を読み、思い思いに踊ってもらいましたが、一人一人の佇まいから動きはまさに聴く人ならではの感じが溢れていました。

音楽の波に身体をまかせるときならではのフォルムやグルーヴがあるように「言葉が聴こえる」ことから呼び醒まされるものが、やはりあると思います。

呼吸の共有感、間合い、サウンドとしての味わい、意味の拡がり深まり、共感や違和感や分かること分からないことまで、言葉に対する関わりかたイマジネーションの発露は、個人個人を際立たせます。多様さそのものと思います。そこが面白くもあります。

聴く体験は、表すことよりも遥かに原初的なのではないかと僕は考えています。

お母さんの体内で、胎児はさまざまな人の声に耳を澄ませているそうです。赤ちゃんは、この世に出て最初にまず受け止められる体験をしますが、その前に、たくさんの言葉を受け止めながら人の姿になってゆく。

知らない国に行くと、とても集中して話し声をききます。なにを言ってるんだろう。飛行機のなかで、列車のなかで、まず言葉から国境が移り変わってゆく。

言葉を聴くこと、あるいは、声に耳を傾けること、それは他人の心の動きを受け止めようとする時間とも言えるから、ダンスではすこぶる大切な練習になると思うのです。

いい時間を味わっていただけたなら幸いなのですが、、、。



※櫻井郁也のダンスクラスは、ダンスの基礎となる「からだづくり」から創作・即興まで、お好きなクラスにどうぞ。

ダンスクラス詳細


ダンス公演情報 Stage info.




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レッスン報告・9月はじめ

2017-09-10 | レッスン・WSノート
金曜夜のコンテンポラリーダンスでは、音の響きと身体がどれだけ親密に関わることができるだろうか、というようなことをしばしば探っています。特に生の楽器演奏で行うセッション練習では、グルーヴ、イメージ、技術、呼吸、思索、などなどダンスのさまざまな側面が現れ、試行錯誤や対話が時間を満たしていきます。

また、水曜のオイリュトミークラスではインターヴァル(音程)を表現する動きを練習に加えています。こちらは決まった仕方がある踊りなので所与の振付を使いますが、それでも音に対する感動の深さによって、また動きかたによって、決まりきった形式が見違えるように生命感が感じられるようになります。音への共感共振を通じて身体の活力を沸き立たせてゆく側面が、このオイリュトミーという稽古方法には強くあります。

いずれも知覚と想像と運動との相互作用ということですが、これは同時に身体の柔らかさやリラクゼーションとも関連します。

土曜日のクラスではレギュラークラスでのエリック・サティ、基礎クラスでのクロード・ドビュッシーが最近は印象的で、これらもやはり音の響きを楽しむほどに活き活きした踊りになっています。

ドビュッシーは流動するような音の変化や余韻や間の豊かさが、いやおうなしに身体の内部空間を拡げてくれる感じがしますが、サティはより音の数が少なく(私たちの同時代の例えば以前書いたウォルフやフェルドマンもそうだと思いますが)音そのものへの味わいが非常に深くなります。

踊りを通じて聴くと、いや体験するとねえ、聴き慣れた曲がまるで新しい音楽みたいに新鮮に感じますね。と仰ったクラスメンバーがいらっしゃいましたが、まったくだなぁと共感します。

音楽の聴こえかたが広がって豊かになるというのは踊りの幸福の大きなひとつだと思います。

ダンスを通じて僕らは音と動きの関係性を楽しむことができますが、それは響きと空間、空間と身体ということにやはり結びつきますが、もしかしたら、音というのはさらには知覚と認識の関係についても考えさせてくれるのではと、たとえば、音の知覚をデリケートにしてゆくことは感情の深まりと同時に認識の広がりに結びついつゆくなではないかなあ、などあれこれ思ったりもします。

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レッスン報告(基礎クラス8/26)

2017-08-26 | レッスン・WSノート
土曜日は午後に2つのクラスがあります。

午後1時からの「レギュラークラス」は音楽や詩に合わせて踊ります。火曜や金曜のクラスでは各自が自由にイメージして即興的に踊るのに対して、このクラスでは、簡単な振付を踊ることでリズムや呼吸のとりかたを体感したり、全身のさまざまな動きを楽しみます。

3時からの「基礎クラス」は、からだづくり。姿勢・柔軟・筋力・リズム・ダイナミズムなど、身体を整えるための基本的な練習を全てお手本と一緒に動いていきます。

前半は、かなり緩やかなストレッチと筋力トレーニングから呼吸と姿勢の関連を。後半はそれらを使ってダンサブルな全身運動を、、、。

どちらのクラスも夏から秋にかけては、呼吸に注目したいと思っています。

吐く吸う止めるのリズム変化、様々な動きと呼吸の組み合わせ、などなど、ダンスの稽古で面白いのはやはり呼吸から生まれる運動と感情のダイナミックな関係性かと思います。

さいきん(7月公演の作品がきっかけですが)呼吸に対する興味がまた膨らみ、稽古の仕方を再構築し始めているのですが、その一端をレッスンにも反映できればと思います。

(誕生してから今まで本当に何回も何回も呼吸をして、もう当たり前のことなのに、年を経るたびに、呼吸というものに興味が広がり始めているのは不思議です。歌う呼吸、語る呼吸、があるように、踊る呼吸というのもやはりありますが、踊り呼吸というのは、感情であり他者との関わりそのものなのではないかとも思う。また呼吸の仕方は時間や空間の体験を大きく変える実感があります。
息、呼吸、というものについて、さてこれから、、、。)

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レッスン報告です

2017-08-24 | レッスン・WSノート

火曜日にフリークラスを行いましたが、さいごのほうでドビュッシーの曲を踊ってもらった時間が印象的でした。

時間をかけて身体を温めたり対話をしたあと、音楽を聴いて思い思いに踊ってもらいました。

この日は特に親しまれている「月の光」を踊ってもらいましたが、外の新鮮な空気や光線が身体の中に入って、それが身体のなかを満たしてゆく、そして内部にできた空間が広がって、その広がってゆく力が、身体から外に向かってもう一度、にじみ出るように出てゆく、そのように見えてきました。

リラックスを促す力と高揚感を呼び醒まさしてゆく力が、こまやかに往復して身体に働きかけてくるような、対流のようなものをドビュッシーの音楽から感じることがしばしばあり、ちかごろは、あらためて興味が深まっています。

ドビュッシーの音楽を聴いていると、とりわけ、身をほぐして音楽に気持ちを深く傾けてゆくと、音や静寂と一緒にからだの質が変化してゆくように感じることがあります。
また、音楽の体験を通じて、それを紡ぎだした作曲家や演奏家の精神に自分の内部が洗われてゆくような感じがしてなりません。

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レッスン報告(櫻井郁也ダンスクラス)

2017-08-20 | レッスン・WSノート
クラス報告です。

金曜のダンスクラス(毎金19〜21時)では、新しい楽曲に取り組み始めました。

ストラヴィンスキーの「春の祭典」です。

このクラスでは数年前にオーケストラ版を踊りましたが、今回はツインピアノ版をやります。

オケ版では完全振付でアンサンブルを組みましたが、今回は音を聴き取りながら各自のセンスで探って踊る練習を進めます。

この曲の音には運動が埋め込まれています。

ニジンスキーによる初演はスキャンダラスだったそうですが、今では、ダンスをする人には一生聴き続ける音楽の一つだと思います。

多数の人々が踊り続け、いくつもの振付が生まれた曲です。練習しながら、こんな人はこんな振付をしたよね、というようなことも話したりできれば楽しいかもと思います。

響きの豊かさ、細やかなリズム、多様な変化、構造の緻密さ、感情変化の多様さ、とても沢山の味わい方があり、呼び醒まされるものがあり、宝のような楽曲です。
当面じっくり取り組みたいと思います。

生演奏によるインプロヴィゼーション、前シーズンからやっているミニマルダンスの体験も継続していきます。

この金曜クラスの練習は、さまざまな音楽のなかで、ひたすら無心に踊ります。たくさん試行錯誤し、身体と対話する場としていただければ幸いです。

他クラスの内容も、近日ご報告します。


クラス案内

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レッスン報告 8/2

2017-08-03 | レッスン・WSノート
ソロ公演を終えてすぐのレッスンでは、言葉と踊ることをたっぷり練習しました。

きのうのクラスで踊ったテキストは、まえにも紹介したオウィディウスの 『変身物語』からでしたが、中村善也氏の日本訳が美しいので、もう長くなりますが毎月一度はここから踊っています。

ほかにも、日によって、機会によって、言葉から踊ることはたくさんあります。

言葉は日本語の場合48音ですが、
くにによって多少ちがうとしても、限られた音声で出来ている。限られた幾つかの音声を何万年も呟いたり叫んだりして生活のあらゆる苦楽を伝えあってきた、そこが実に面白いと思います。

数えきれない自然の音のなかから、あるいは無限の静寂からかもしれない、いずれにしてもとてつもなく広いところから、この僅か48の音を、わたしたちのたましいをのせる舟として聴き分けた祖先の鼓膜は、すごいものだと思えてきます。


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レッスン再開(櫻井郁也ダンスクラス、オイリュトミークラス etc)

2017-08-01 | レッスン・WSノート


あす8月2日(水)から、櫻井郁也のダンスレッスンが再開になります。

ゆっくりと身体に集中し、踊りの感覚を身につけていきます。

曜日ごとに内容を組んでおりますので、下記をご参照の上、参加して下さい。

レッスンの種類と内容

スケジュール

_________________________________________________

STAGE information
ダンス公演情報はコチラです
ダンスアートユニット〈櫻井郁也/十字舎房〉・公式ホームページ

参考リンク:櫻井郁也の作品歴など


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レッスン報告・ダンスクラス

2017-06-24 | レッスン・WSノート
きのうのダンスクラス(金夜)で、こんな曲って踊れますか、と、持ってきてくれた人がいました。

これは嬉しいことでした。音を通じて人は少し近くなるからです。

すぐ、その音で皆んな思い思いのダンスを探ってみました。

たまたま、僕にも思い出が深い音でした。だから、その音についてかなり話もしちゃいました。
皆、口々に感じたことが出ました。そしてまた踊りました。何度もやるうち、曲がカラダに入って、熱に変わってゆく。
なかなか面白いレッスンになりました。

音を探すのもダンスだし、音と出会うのもダンスだし、何よりも、誰かが好きな音を一緒に踊る、というのはダンスならではのこと。

私は私、アナタはアナタ、となればなるほど、互いを知りたくもなる。

ダンス、黙って一緒にいて、黙って同じ音を聴いて、黙って動いて、、、。たぶん、言葉以上の言葉がダンスから響いてくると思います。

いろんなことを体験し合えるクラスにしたいです。


レッスン案内2017


櫻井郁也ダンスソロ新作公演
7月29〜30(土・日)上演




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あいだ、なる・クラス報告6/13

2017-06-14 | レッスン・WSノート
あいだ、けいか、
うごきとうごきの、音と音の、しじまの、間と経過と。

そのようなことの味わい深さを、感じさせられる稽古だったかも、と、昨夜の西荻フリークラスは思えた。

取り分け、レッスン最後のほうでは、参加された方々のうごき、立ち居振る舞いが、デリケートに、また穏やかに見えた。

この日は、規制曲はいっさい鳴らさず、ゴングとクラップのリズムだけで、シンプルにセッションを進めた。

踊る身体のこと。音を味わうこと。身体を味わうこと。時を味わうこと。さまざま、いろいろ、言葉も出たけど何よりも沢山の「うごき」が出てきた。

動くうごき、蠢くうごき、止まるうごき、留まるうごき、、、。

試して、休んで、話して、悩んだりもして、最後には、うごき、というより、おどり、に、近く近づいていたかもしれない。自然だった。すぐに2時間が過ぎた。

音や静寂を聴き込んでゆくとき、身体の状態次第で聴こえかたがかなり変わってくる。当然、イマジネーションも情動もかわる。とくに豊かさにおいて、柔軟さやフレキシビリティにおいて。

音はいろいろなことを教えてくれるが、音の声が心の耳に届くには、何よりも素直にならなくては、と、よく思う。

だから希み、求めているのだと思うし、探し続け、迷い続けているのだと思う。探し迷うのは面白い。こうだ、という言葉はダンスには今のところ見当たらない。人生にも、やはり。

イヤなのは力みだ。たとえば、こわばり、あせり、自意識、といった一種の「力み」から、どうやって抜けるか。力みの原因て何だろう、こんどは、そんなことにもレッスンを進めてみたい。

ある身体を仕切っている力みが抜けて、新しい力に入れ替わってゆくプロセスが始まってゆく。古い力と新しい力。呼吸のように、力が入れ替わる、その「あいだ」に現れる動きや蠢きの多様さ、また表情の変化が、とても面白く感じることが、ときにある。

力みが抜けるとき、聴こえてくる音がかわる。ひびきもしじまも、ひろさが変わってゆくみたいに思う。

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レッスン2017

櫻井郁也ダンスソロ新作公演 7/29〜30開催



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レッスン報告・6/9 コンテンボラリーダンス

2017-06-09 | レッスン・WSノート
音が人を解き放つのだろうか、
人が音を解き放つのだろうか。
音と人は、なぜこんなにひかれあうのだろうか。
まだ、かたちある何ものも無かったとき、私たちは音としてただただ響きあっていたのではないだろうか。
音というのは私たちの故郷なのではないだろうか。
毎週の金曜日におこなっているダンスクラスでは、つい、そんなことを思ってしまう。
そう思えてくるような様子が、動きが、ときに現れ、伝えあって広がることがある。
柔らかくなる、よくひびく、からだを、試行、錯誤、する。
音のなかに入ってゆくことは音という運動体のなかに入ってゆくことだし、自らが光ならばスペクトルや色彩に分解してゆくことだろう、しかし人は光ではない、ならば、いかに。

固まりかかったチカラを、
決めつけかかっていたことごとくを、
細胞単位で、
緩め、もみしだき、粉々にして、新しい空気や水を注ぐこと、かもしれない。
音はそれだけのエネルギーを与えてくれるはずだ。
自らに風穴を開ける作業でもあるように思う。
サウンド、エコー、しんどう、きょうめい。本当は人も、、、。
2時間がすぐ過ぎてしまう。
たくさん聴き、たくさん動き、たくさん話し、しかしムリに蓄積してはならないと思う。
何度も、何回も、たくさん聴き、たくさん動き、たくさん話してゆくなかで、忘れても忘れきらない何かがカラダに残る。
そこからが本当に楽しいのだと思う。

明日は土曜日なので、基本のレッスン日。お手本と一緒に。ゆっくりと心身をほぐしに来てください。
_______________

レッスン案内2017
各クラスとも参加できます。


櫻井郁也ダンスソロ新作公演webサイト
7月29〜30(土・日)上演。最新作です。ぜひ。



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レッスン報告・5/31 オイリュトミー

2017-06-01 | レッスン・WSノート
水曜日のレッスンは、聴く、ということにかなり重点を置いていますが、きのうは、イヤートレーニングと、それからスケールを動く練習をたっぷり行いました。後半はバッハのソナタを踊る練習を繰り返しました。
バッハの音楽は音の織物みたいですから、あまり主観を強くしないで、繊細に音の変化に寄り添うように踊りたいねと、メンバーの方々と話し合ったことがあり、そこから振付を発想しています。
そういう取り組みもあって、なるべく音に敏感になっていきたくて、ときどきイヤートレーニングを取り入れています。
水曜は月4回のうち、2回は言葉を聴いて踊り、2回は楽曲を聴いて踊り。例えば言葉を聴く、例えば楽曲を聴く、同じ「聴く」でもやはり何かが変わります。音はたくさんあります。沈黙という音さえあります。静寂もあります。聴く、というのはとても広いです。

しかし、きのうは、まず非常に単純なことに帰ってみました。楽音。音階。音程。自然の音とは少しちがう、昔の人がつくった音です。

音の高低や強弱やリズムを聴きとりながら即座に動く。音列の流れにひたすら溶け込んでなめらかに動く。音楽家のトレーニングとも重なる点が、ダンスにもあります。単純ですが、何年か繰り返し行っているとやはり身体が変わってきます。

敏感になる。繊細になる。正確になる。ということに向かってゆくのはご想像通りですが、これは、運動センスのみならず音に対する受容を拡大してゆくようでもあります。

聴く、というのは神経を目覚めさせることでもあり、即座に反応することは一種のバランス感覚だと思います。以前、レッスンに参加していた方が、これは内面から身体をほぐしているのよね、と言っていたのですが、確かにそういう側面もあるかもしれません。

聴く、耳を傾ける、澄ます。
というのは踊りにはいわゆる身体能力(嫌な言葉です)なんかよりも遥かに課題なのではないかと僕は考えています。


レッスン案内2017
曜日ごとの内容ほか、くわしい案内です。

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7月29〜30(土・日)上演。最新作です。ぜひ。



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レッスン報告:オイリュトミー

2017-05-25 | レッスン・WSノート
詩と踊る、その振付をした。
オイリュトミーは視える詩・視える歌とも呼ばれる。20世紀初頭のドイツで創案され主にヨーロッパに拡散した。

言葉に踊るカラダ、というものを探す。さがしつつ、文字の発明の前に、音声言語の長い時代があったのではないか。と思う。いや思い出す。
文字の言葉とはちがう、目の前に、少なくともその声の届くところに、誰かがいる。また聴く人がいる。人と人がそばにいなければ成立しない。そういうなかでの言葉だ。
反芻することも、それは発話者を直接思い出すことになるし、そもそも、言葉は容易に完結するものではなかっただろう。

言葉とは息吹である、とも思う。
言葉を手がかりに踊るを試みようとするというのは、他者の息吹に触れようとすることに他ならないのではないか、と想う。
触れようとする、つまり、振れであり、震えであり、奮えでもあるだろう。

言葉のかたち、とでもあらわせばいいのか、を、探している。オイリュトミーに関わっていると、そんな気分になってくる。
探しながら、私は、私たち自身の声を聴こうとしているのだろうか、言葉というものに込められた、文字より古い昔からの声を聴こうとしているのだろうか。とも。


開講中のレッスン

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クラス報告・3/3

2017-03-03 | レッスン・WSノート
レッスンをしていると、色んなカラダに出会います。色んな人の身体、というより、一つの身体に沢山のカラダが眠っている、というようなことです。

一つの身体に眠っている沢山のカラダ、沢山の可能性。
それらが日によって、あるいは響く音によって、あるいは傾聴される言葉によって、あるいは、、、。
と、様々な瞬間に目覚めて、色んなカラダの姿が場所に現われてくる。

柔らかさと硬さのあいだを、重さと軽さのあいだを、駆け巡りながら、変容してゆく身体。新しく、新しく、、、。

きょうはピアノ演奏とのセッションでした。半分くらいは動きや言葉によるインストラクションでやりますが、あと半分は即興音楽の演奏によって、説明や手本を挟まずにやる、今夜はそれでした。

僕は即興でピアノを弾きながら踊りを誘発するイメージを促してゆくのですが、ピアノから踊りに、あるいは踊りからピアノに、という受け応えのなか、動きと音が互いに互いを刺激し合います。

こんなふうにやってみよう、という前提が互いにないから、感性と感性だけで関わることになる。
直感のまま、衝動のまま、動けるだけ動いて、、、。

そのようななかで、裸というのかしら、ある身体に眠っているカラダがフツフツと熱を帯びて出てくるチャンスがあるようです。また、普段から蓄積されているその人のカラダの現在や感覚の開かれ具合がどのような状態なのかも、つかめるようになってきます。
音と身体のセッションは、ある意味、心身のバロメーターでもあるかもしれません。

そして、時として奔放さが出てくる人もいます。鼓膜の振るえがスイッチになっているように、音と動きの区別がなくなってゆくように、、。


理屈ぬきで、ひたすら音に身体を委ねてゆく、という体験を、繰り返し繰り返しやってゆく。
それはダンスならではの知覚体験の蓄積です。
あるいは脳の呼吸かもしれません。

聴くことから始まる何か、、、。
それはダンスならではの姿勢かもしれません。

ある意味、身体は楽器なのかもしれませんが、それ以上に、身体そのものが実は凍れる音楽なのかもしれません。未だ言葉になる前の言葉が胸の内を駆け巡り身を振るように、音楽もまた、身体の底で誕生を待つ胎児のようにあるのかもしれない。

そんなことを思ってしまう瞬間が、ときに、このレッスンのなかで訪れます。

明日は土曜日。基礎と身体のメンテナンスをやる日です。

レッスン

ステージ


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クラス報告・2/18 基礎クラス

2017-02-18 | レッスン・WSノート
きょうの基礎クラスでの稽古は半分以上は凝りや強張りをほぐす運動で、特に頸部とその周辺に注意を払ってみました。
また、立つ動作と頸部の関係や、姿勢を保つときの首や肩のリラックスに重点を置きました。

ダンスの基礎となるのは、何よりも「踊れる」状態になること。
つまり、カラダの手入れとリセットの仕方かと思います。

特別な動きかたや強い表現の以前に、身体を最も自然で持てる力やイメージを発揮できる状態にすることや、デリケートに身体を意識することが大切だと思うからです。

疲れてこわばった状態では、なかなかですし、力まかせに何かを表わそうとしても、身体は混乱します。
また、ストレスや習慣や環境から、体はさまざまな抑圧を受けていることが多いと言われますが、自分の体はどうか、ということも丁寧にチェックする時間や知識がないとわかりにくいのでは、と思います。
全身の動きを確かめ、修正してゆく稽古は、身体の状態を発見し、バランスをとる時間でもあります。
僕自身も、それが楽しいというか、やはり疲れがとれて快に向かうので、基本的なトレーニングが好きになったのですが、実は、若い頃ほど無理が出来なくなりつつある最近のほうが、楽しさが増しています。

日常の体にまとわりついたものを削ぎ落としてゆく。
体のあちこちに溜まっている本当は必要のない力や強張りを、身体に関わる力や欲求や色々なものを、整理整頓したり、掃除したりする。そんな時間を参加者の方々と過ごせるので、貴重です。

このクラスの方によく言われるのは、声がけや注意を聴きながら動いていると気持ち良く動ける、ということで、単に夢中で動くのとも、覚えたものを淡々と動くのとも違って、第三者の声に耳を貸すことで適度に思考回路が刺激され、良い集中が生まれるというのです。これは面白いと思います。

稽古中は一つ一つの運動がもつ効果や気をつける点を詳しく話しながら進めますが、より重要なのは、実技中に手本と同時に声に出してゆく動きのテンポ、回数、ダイナミクス、呼吸のタイミング、力の入れ方と抜き方です。
これらは稽古場での直接のコミュニケーションでしか上手く伝わらないものですが、先程の「声がけ」を聴きながら、というのは、そのあたりの掴みをふくめたことかもしれません。

トレーニングという言葉は、鍛えるとか頑張るとかいうイメージで捉えられがちだけれど、これは全然違っている。動きながら自分の身体を温め、循環を促し、持てる力を活用するためのメンテナンスと考えてもらったほうが、いいかもしれません。

きょうの稽古はどうだったかなぁと思いながら、また来週も楽しみにしています。


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オイリュトミー:レッスン報告2/8

2017-02-08 | レッスン・WSノート
オイリュトミークラスの日だった。

もう何か月練習しているかな。次第に把握できつつある音楽や振付に関わりながら、ところで、個々の感情が充分に膨らんでいるかどうか、あなたはそこにいますか、ということが気になり、気持ちの広がりを再認識するように稽古を進めた。

出そうで出ない感情がある、わかったつもりが実際には出来てこない動きがある。
胸につっかえた何か、奥歯に挟まったようなもどかしさ。それを、どう突破するか。
というような空気感のなか、稽古が熱を帯び始めたのを感じた。

オイリュトミーは様々な踊りのなかでは形式をとるものなので、見た目はかなり違うがバレエはじめ伝統舞踊の数々とも通じる意識や知の伝承を僕は感じている。与えられたカタチのキモチを見つけ出す面白さがある。形には精神が宿っているはずだから。また、即興や創作とは少し異なる身体との出会いがある。自分の発想とは別の何かに、身体で触れる面白さというか。
また、伝承されてきたものを繰り返し稽古しながら、その背景にある世界への眼差しを読み解いてゆく面白さもある。

しかし、動きや形が先行しすぎると、えらくツマラナイ小難しい稽古になって気持ちが広がらない。カタや方法に囚われて、せっかくの音楽や詩のなかで働く心や、人と人の呼吸や、感情が孤立してしまう。

感情面が他者に伝わるくらいに充分に解放されないと動きの面でも活き活きしない。
動きの面でも一定の達成感がないと感情面でも不完全燃焼が起きる。

ウゴキがオドリになるには、気持ちと運動が求め合うように連動してゆかないと、という、これが意外と言うは易し成るは難しなのだと思う。

そこを工夫しながら納得がゆくまで稽古するプロセスが、周期的に来る。苦労だけど、これが面白いんですよね、と言われた。うれしい。

やはり気持ちと身体が納得ゆくまで何かをやる、という喜びは、やってみないと分からない。そこを感じてもらえるのはダンスならではかもしれない。

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