櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

鉄を打つ人

2014-12-06 | アート・音楽・その他
過剰な主題が表現されているのに、それら主題を超えて、充満しているのは素材の纏う気配。鉄。そして鉄と格闘する美術家の肉体の気配。言うならば作者自身と彼が向き合い続ける素材の存在感が、場に満ちている。

川崎市岡本太郎美術館『TARO賞の作家Ⅱ』展にて、藤井健仁の作品群。

鉄の匂い。鉄に囲まれている。なんでこんなに鉄なんだろう。そう思う。

僕には、鉄はカサブタのように見える。匂いからは尖った酸味の味覚が喚起される。ふと、血を想像する。血を舐めたときのあれは鉄分の味。血には鉄が溶けこんでいるらしいが、反対に、鉄は外在化した血液なのではないかな、と思う。なんだか不穏な場所に迷い込んだような気がする。

彼は一貫して同じ物質に関わり続けている。いつも鉄だ。

それらは、具象的な像に設えてある。既知の像:ニュースで見たことがある人の顔、政治家や芸能人の顔。猫や少女は風のように姿態をくねらせ、あべそ~りダイジンも困り顔のまま固まっている。軽やかで、コミックのように近しさがある。笑ったり話したりしながら観ることができる。

しかし、それらが何かわかっているのだから却ってそれらが鉄製であることがハッキリ露出される。重く、ゴツゴツして、尖っている。暴力的なくらいに、主題の軽さは素材の重さを押し出す。
鉄を溶かし、叩き、削る、という肉体の行為が露出される。広く寒い工場跡のようなアトリエで一人で仕事をしている、その姿を思う。

素材はテーマよりも重要かもしれない。時として形式が内実を超える。

ダンスでも、何を表現するかは入れ替わってゆくが、ナニデ、というと、肉体で、踊るのだからそこは最初から最後まで一貫してゆく。

踊りの創作と彫刻は似ているなと、しばしば思う。実際、ひとつの作品を作ってゆくプロセスの大部分は、振り付けとか舞台構成よりも、肉体そのものを変化させることに費やしている。どんなダンスを踊ってどんな舞台にするか、それ以上に、どんな肉体を舞台に乗せるか、どんな身体になって立とうとするのか。それを求めて訓練や瞑想や試行錯誤を実行していると、肉体や神経を彫刻しているような気がする。

踊り続けてきたと同じ時間を、肉体を彫り続けてきたのではないか、とも思える。世界観や主題は変わってゆくが、この身体とは肉体とは何かな、という問いは変わらないどころか深まり続けてゆく。肉体との関係を大切に育ててゆくことがダンスの根っこになる。美術家も、やはり何か一つの事に向き合い続けているんだな、と、藤井の仕事から、思う。

ひとつの歌を歌い続けてきた。

という一文に深く感じ入ったことがある。たしかそれは、神沢俊子さんの文章だった。

ひとつの何かに向き合い続けてゆくこと。

それは、自分が生きていながら希求しているもの、自分という一個の生命に秘められた、宇宙の姿に出会う旅のような気がする。

僕の場合それは踊りであり自分自身の肉体そのものだが、藤井の場合は鉄だったんだろう。それを思い親近感を感じながら、呑んだ。

芸術と酒。しばしの酔いを共にした。
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