最近何となく思った事が、「不完全な自分で生きよう」という事です。
人間生きていれば、うまくやりたい、失敗したくない、なるべくカッコつけたいと思ってしまうものです。自分は、「恥ずかしい思いをしたくない」「他人から怒られたくない」というような考えが割と根強くあります。
ですが、うまく取り繕って器用に生きる事って、難しいもので、なかなか思い通りにはなりません。思い通りにならない事が起こるたびに、「自分はなんてダメなやつなんだ」と、繰り返し考え続けてきました。そうやって、無意識にのうちに「自分はダメな人間」という考えを自分自身に刻み続けてきました。
でも、最近こんな風に思います。
思い通りにならない、失敗した、と言う事は自分が描いている理想から外れていると言う事を大袈裟に表現しているだけなのだ、と。そして、思い通りにならない、失敗したと言う事は絶対的な事実ではなく、自分自身の基準で作られている幻想でしかないという事に気づいたのです。
私に限らず、多くの人は出来事と感情を結びつけてしまいます。
例えば、大事な手続きのために書類を持参しなければいけないのに、忘れてしまったとします。その時起こっている事実は、「書類を忘れたため、手続きができない」事であって、「書類を忘れた俺はだめなやつ」という事実ではありません。「書類を忘れた俺はだめなやつ」というのは、自分の頭の中で自分をそのようにジャッジしているだけであって、それは事実ではなく、自分自身の考えにもとづいて何かをジャッジしているだけです。
頭の中では、その思考が発生しているかもしれませんが、現実には、ただ書類を忘れただけです。人というのは、ある出来事にいろいろな思考や感情を結びつけて考えるものですが、それは良い面もあり、悪い面もありますね。
そんなわけで、失敗など恥ずかしい体験というのは、自分自身の価値判断にもとづいて「恥ずかしい体験」という思考が導き出されるのだと、私は思っています。
そう考えると、恥ずかしい、ダサい、かっこ悪いというのは、とるに足らないものだと思えてきますね。その事に気づいたなら、あえてカッコ悪い自分を生きるという選択に意味が見出せるようになります。そんな風に生きる事によって、周りの人も、自分自身を生きる事に勇気を持てるようになる、と思うのです。
人間一人で孤軍奮闘している状況は辛く悲しいものです。
周りに一人でもカッコ悪くても、自分を生きている人間がいればそれが大きな励みになるものだと思います。
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