わたしと向き合う

2020年初頭、自分本位に生きる事の虚しさに気づき心機一転。

SNSの悪い傾向に目がついてしまう最近。

2019-11-20 23:13:54 | 日記
私はツイッターをやっているけれど、最近はそれほど積極的には投稿をしていない。
そんな事もあってか、知り合いがデマや怪しい情報をリツイートやいいねによって拡散している様子がとても気になってしまう。
最近、自分が見た中でひどかった事は、薬物に関する投稿を、知り合いがリツイートによって拡散している事だった。薬物に関する啓発ならともかく、薬物摂取した時の気持ち良さに関して言及しているツイートを拡散しており、ともすればこのツイートをきっかけに興味を持ってしまう人もいると思える内容だった。

ところで、普段怪しい情報をむやみに拡散している人は、デマの拡散に言及する投稿もリツイートやいいねで拡散していたりする。そういった情報にも関心があっても、内容確認せずに衝動的に拡散してしまっているようなので、あまり内容は確認していないのかなと思う。

あまり内容を確認していない、という点についてはSNS使うようになってから自他共にそういう傾向が強くなっているように思う。なんというか、例えると、自分のキャパも無視して、ごはんを全く噛まずに次々に飲み込むような感じかなと思う。

SNSとは一定の距離を置いて、目的をはっきりもって利用するのが良いと思う。


閉じたハート

2019-11-15 23:16:30 | 日記
なんだか最近ハートを軸に色々な事を感じる事が増えたように思う。
その昔、Tシャツと同化してしまった某カエルの漫画があったけれど、
何かあるとそんな感じでハートの部分がぐっ、ぐっ、と飛び出てくるような感触
(胸がドキドキするとか苦しいとかそこまで強い感じではないけれど)がある。

そんでもって、今日仕事帰りの電車の中、座席に座って目をつぶってぼーっと頭に浮かんでくる思考に意識を向けていた時に、某有名人T(薬物所持でまた世間を騒がせた人物)の事が思い浮かんだ。
苦しいんだろうなぁ、本人なりに必死に生きているのだろうけど、なかなか思うようにはいかないのだろうなぁ・・・それでも、死ねないんだろうなぁ。僕も苦しいよ。絶望しないで生きてくれよ、と思っていたらちょっと泣けてきて、目を開けると涙がこぼれそうだったので、しばらく目をつぶってやり過ごした。
それから、最寄り駅の花屋で若い店員さんに、「何かお探しですか?」と声をかけられたので、部屋に飾る花を選んでもらった。話すのが苦手そうで不慣れな感じの人だったけど、丁寧に花を選んでくれた。ちなみに、お会計の時にその人の花の包み方がよくなかったらしく、ベテランの人が無言でばさっと包装を解いて、包みなおした時に、若干その光景がきついなぁと感じて、若干若い店員さんが不憫になった。

そういえば、最近ハートのところがぐっ、ぐっと飛び出ようとするような??感触がある。
お風呂に入って、ゆっくりしていたらハートを開きたいのに開けない、という思いがじわりと込み上げてきた。この時は素で泣いていた。




理由

2019-11-10 12:58:27 | 日記
人は理由に依存する。

今、苦しみの渦中にある人であれば、何故今自分がこんなに苦しいのか。
その理由や原因を知ろうとするだろう。そして、知る事で安心したいのだ。
一方で、一見して幸せな人を見ても、同じように今の状態に至る理由や要因を知ろうとする動きが見て取れる。
苦しんでいる人であろうと、幸福な人であろうが、今自身が置かれている状況を理解したい、それに至った原因を知りたいという欲求が常にあり、それを知らずにいては不安というか、落ち着かない気持ちになるように思う。

説明が拙いので、端的にまとめると、人は『因果関係』そのものに対する依存をしているという事。これは、本当に微妙でそれを自覚している人はあまりいないのではないかと思っている。

思考を作り続ける事の理由?

2019-11-10 11:00:23 | 日記
普段あれこれ考える事に煩わしさを感じていたとしても、考えは止まらない。
考えが静まった、と考えている時も「考えが静まった」という思考は起きていて、
言語化されていなくても思考の塊みたいなものは意識にあり続けている。

何気ない一瞬(秒単位)に思考がない事は1日の間になんどもあるけれど、思考のない瞬間に、思考がない事にむずむずするような感触がある。
そのむずむずを乗り越えられた事は今の所なく、それを乗り越えたら何が起こるのか興味はある。が、心は落ち着きなく動き回っているように感じているので、今の自分にはどうも難しい事のように思う。

自分自身は、生きるのも煩わしく、何もかもかったるく感じていて、仕事するのも日常を過ごす事だけでも、難儀をしているけれど、心の落ち着きのなさを見るに、まだまだ自分の心は、まだ色々な体験が必要なこどもなのだと思う。

大切な物は多分共有できない。

2019-11-09 23:49:49 | 日記
同じ製品を所有する事はできるし、同じ場所にいく事はできる。
同じ音楽を聴く事もできるし、同じ本を読む事もできるし、同じ時間を過ごす事もできる。でも、本当に同じ事を共有できているかというと、実は違っていたりする。
そういった体験を、言葉である程度補足する事はできるけれど、言葉は想いを切り取った表した写真のようなものだ。そこに表しきれない物は切り落とされてしまう。
共有を試みる事はできるけれど、同じものを共有している気分になるだけで、実際は全くかけ離れた、個々人の解釈による「相手の想い」を共有しているに過ぎない。