積ん読
読みまくる
その意気込みで
背をなでる
中学生の頃から、本集めが好きだった。本箱を買ってもらい、少しずつ並んでいく文庫本の背表紙をながめて、ひとり悦(えつ)に入っていた。買った本を片端から読んでいったという記憶がないから、読む喜びより、本がたまっていく喜びのほうが強かった気がする。
そのころから「積ん読」をしていたのだ。
私は衝動性の強い性格なので、本の衝動買いはずっと続いている。中身を調べて「読んでみたいかどうか」自分に確かめてから買うのではない。書評に載っていた、読んだ本に紹介されていた、という買い方から、タイトルがいい、表紙のデザインがいいというような買い方までする。ブログを始めるようになってから、他の方々のブログで紹介される本も買うようになった(これは結構良いガイドをいただいている)。
そして、買って満足する。
読むという意気込みはあるのだが、「ああ、この本が買えたなあ」という酔い心地で背表紙をなでる、それがどうにも嬉しいのである。
積み上げて
枕にするの?
妻は問い
「積ん読」を見抜いているのが、妻である。「また買ったの?」と白い目で見られる。
「電子書籍の器械も買ったでしょ? 本は増やさない約束だったじゃない」
「まあ、そうだけど。電子書籍だと、読み返したいところがあちこちすぐに飛べないんだよ。特に詩や俳句は」
「あちこち飛ばないで順繰りに読めばいいじゃない。とにかく、本が増えるのは困るんだから」
「……」
一冊買ったら一冊売る、という約束はした。が、なかなか守れない。
古書店に売るべく段ボールを用意し、これはもういいかなと思って箱につめる。だが、ニ三日後にまた取り出して眺める。パラパラとめくる。うん、これはもったいない、読もう、と思う。そして箱から正式に取り戻す。
そのくり返しである。何十年になるか。
衝動性のほかに多動性もあるので、興味が次々と広がりもするのである。それにつれて、買う本もあっち行ったりこっち行ったりして、「この一点」という絞りがしにくいのだ。
同じ傾向の本をしばらく読み、あるとき、違った種類の本と出会う。すると、そちらに好奇心や関心が急カーブする。前の傾向とそれほどつながっていなくても、切り替えができてしまうのだ。熱しやすく冷めやすいのである。
ただし、聖書一冊。
この本だけは私の中心からずっと逸(そ)れない。それだけは有難い。
●ご訪問ありがとうございます。
読書については、自分の右往左往ぶりがよくあらわれていると思います。骨がない読書スタイルです。
自分の性格とつき合いながら、ぼちぼちいこうと思っています。