浅草『沖縄料理店』

2009-07-02 12:17:31 | Weblog
昨晩は浅草に出かけた。
バルーン業界の重鎮2名との食事でしたが、少し早く浅草に着いたので私にとっては今更の場所ですが
雷門から仲見世通りを少し歩いてみた。



浅草名物、『雷門』皆さん知ってました?この巨大提灯って松下幸之助さん寄贈のものだったのですね。



改めていろいろ見て歩くと新しい発見もあるものです。(知らなかったのは俺だけ?) 
仲見世は平日でもあったせいか人はまばらです、しかし、お店で売られているものは何十年も変わらずの
コテコテの日本文化グッツです、半天、侍がバックプリントのTシャツ、扇子、着物などなど。

そして昨日、食事をした場所は『沖縄料理』の店





海ぶどうをいただき、ラフテー、島豆腐チャンプルー・・・・・あとは忘れました。

そして沖縄料理と言えば泡盛が無くては始りません。

昨日いただいたのは熟成古酒、『龍』でした。



沖縄料理と泡盛古酒 ぬちぐすい   http://r.gnavi.co.jp/g748501/

1970年代

2009-07-01 12:42:46 | Weblog
最近、ディスカスで書く事があまり無いのでこんな話題ばかりですみません。

10代から20代前半はサーフィンに夢中になっていた時代でした。
今の私の「まいう~~体形」からは想像できませんでしょ!(笑)
大学に入り、ある理由で陸上競技もやめ、毎日サーフィンに明け暮れていた時代です。
日体大は当時、海洋に関するクラブや部は一切無く、体操やその他のスポーツではオリンピック選手育成大学のような感じでした。学生課に行きサーフィンのクラブを立ち上げたいと交渉に行った時『お前!なに考えているんだ!』ここは日体大だぞ、そんな遊びのクラブや部は作れる訳ないだろう!』
では、クラブや部にするための条件はあるのですか?

1. 部員数 20名以上
2. 全国規模の学生の連盟に所属している事。
3. その連盟が主催する全国大会で団体入賞する事。

まったく持って、こんなふざけた条件を学生課があげて来た。
当時のサーフィンに対しての一般的な見方は遊びだろうと見ている人が大半で、陸サーファーなる女の子をナンパするためのファッションとして海にも行かず街中で車にボードを積んで走っている者も多かった。なかなか真剣にスポーツとしてまじめに取り組んでいた人は海が近くの人がほとんどでしたね。
それから、仲間数人で神の毛の少し長い(日体大で髪の毛の長い学生を捜すのが難しい)学生を片っ端から声をかけ勧誘。
そして、日本学生サーフィン連盟に加入。同じ世田谷区にサーフショップを構えていたタウン&カントリーがクラブのスポンサーについてくれたのです。今では、タウカンも一般的なTシャツなどになってしまいましたが、当時はサーフィン界においては高級ブランドでしたからね。
加入初年度、後輩が湘南でテストライダーをしている子が運良く入ってくれたのでその力も借り、その後輩が1年ジュニアの部優勝、一番激戦の500名が出場する部門で一つ上の先輩が3位、そして運良く私が6位入賞と3人の入賞者を出し、結局、その大会で初参戦でいきなり団体4位を勝ち取った。(その後、この3名は一般の全日本サーフィン選手権にシード枠で出場、私も3回戦まで進み、後一歩で準々決勝のところで大敗)良い経験でした。その後輩はその後プロとなりいまでも湘南茅ヶ崎でサーフショップを営んでます。  http://www.hosoii.com/

そして数日後、大学の学生課にこの結果を提出。
学生課としては『認めざるを得ない結果』に部としての承認を出してくれた。
日体大に初めて海洋に関する部が出来たのです。
その後、ウィンドサーフィン部などの部ができたのも事実です。
サーフィン部のその後、あれから30年が経ちますが、風の噂ではその後、ライフセービング部と名を変え、今でも活動しているそうです。当時の仲間は今でも年2~3回は会って飲んでます。(東京マラソンの血判状もその仲間です)
そんな時代、よく聞いていた歌です。懐かしく思う人もいるのではないでしょうか?