Kの理論 「華麗なるブレイクアウト」 Breakout Magnificent.

脱走・・・ただ道は一つ。いつも道に一人。万人は来ない。脱線し続けるサイボーグ社会からの脱出。

ジャスト・ロード・ワン  No.27

2013-10-07 | 小説








 
      
                            






                     




    )  午の骨  ②  Umanohone


  古事記の中巻に倭健命(やまとたけるのみこと)の望郷歌で「 倭(やまと)は国のまほろば・・・ 」とある。
  この健命の人生こそ悲劇そのもので、この歌は彼の辞世である。
「 この歌は大御葬歌だ。天皇の葬儀に歌われる 」
  富造はおもむろに東へと向き直り、足を止めて伊勢・亀山の能褒野(のぼの)の地を泛かばせた。
  久しく足が遠のいていたが、古事記の舞台をはるばる訪ね、あるいは対峙するようにたたなづく青垣を望郷する人の肖像を描き出そうとすると、今はひからびてみえる奈良の盆地が、いかにも瑞々しく見えてくるではないか。
  ここのところが古事記という作品の中巻を成す富造にとっての要(かなめ)なのだ。
  その源泉は現在までの阿部家に息づいていた。
  子代にしか見えぬ風景がある。それは現代人に、あたかも直じかに創世の絵巻を見せつけているかのようで、まことに迫力に満ち、息継ぎさえ許してくれないほど、不易なる時の筆捌(さば)きが感じられ、異国にて白鳥となって果てるしか手立てのなかった人の哀しみが鮮やかによみがえるのである。
               


  八瀬童子はそれと同じく小さな哀しみに生きている。これが一つには古事記のもつ底力であり、ひからびた奈良の魅力なのであろう。富造がそうしたことを確かめるための法輪寺とは、法隆寺の夢殿、中宮寺の前から北へ約10分ほどのところにある。
  しかし、斑鳩(いかるが)の里の小道を歩き、法輪寺、法起寺をたずねる人影は、今はあまりないようだ。やはり法隆寺にて見疲れをして、その多くが奥を見過ごしにして戻るのであろう。春の斑鳩は、まず虚空蔵(こくうぞう)をみて、春の芽ぶく法輪寺あたりから、きた春泥の道をみかえれば法隆寺の塔がひときわ輝いてみえるのだ。
  この哀しみには誰もが、この次はきっと、法隆寺を素通りして法輪寺を志した方が、どれほどのびやかであろうかと思うはずだ。そうした哀しみは、北に座して朱雀(すじゃく)を守護する天使の哀しさであった。
  そして虚空蔵は淡々として掴みどころのない表情で立っていた。
  虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)という修法は、頭脳を明快にし、記憶力を増大させる法力をもっているという。大和法輪寺の虚空蔵は、大変すなおな六等身の立ち姿である。だから、他の飛鳥像よりその法力もさらに自由自在なのであろう。飛鳥(あすか)の匂いは面ざしに濃いが、相変わらず斑鳩のそれは、まったく素朴な木像であった。



  このうつし世に立ち、その何気なく上むけてさし出した右のてのひらに、今まで有ることも知らないでいた、虚空とやらが確かにのせられていた。富造はのせられている虚空を確かに見た。そんな仏の法力に茫然として、ながめて苦しくなるような御光にくるまれていると、小石をぶつけられたように苦々しくさえ思う怠情さの中で、仏の仕事とは、人の心に石を投げつける仕事なのだ、と、それがわかる。
  するとその石を抱きながら、正しいことをくりかえし言う、この世にある人の言葉を、噛み刻みながら、石を投げた仏の前に衿(えり)を正して座ることになる。奈良とはそうした富造を蘇らせてくれる国なのだ。阿部家の先祖代々がそう教わってきた。
  538年( 日本書紀によると552年。元興寺縁起などでは538年 )、百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上したことが仏教伝来の始まりとされている。
  その後、公伝によると、推古天皇の時代に「 仏教興隆の詔(みことのり) 」が出され、各地で寺院建設も始まるようになる。命ある者がこの世で受ける恩の中でも最も大切な親の恩に対して、感謝をし冥福を祈るために仏像を身近に置きたいと考えた。これが日本における仏教信仰の始動であり、その仏教は、まず飛鳥から広まり斑鳩へと継がれた。
  そう語り詰めた扇太郎は、少し間を置くとかるく唇をなめた。すると虎哉は、その一瞬、鋭く眼を光らせた。
「 そうか・・・・・、午(うま)の骨か! 」
  虎哉はおのれの記憶と向き合うかの声を甲高くあげた。
「 えッ、どうして・・・・・それが・・・・・」
  扇太郎には虎哉のその声が、横紙破りのように響いた。
  法隆寺を総本山とする斑鳩の里の、法起寺、法輪寺、門跡寺院の中宮寺などの末寺は、聖徳太子を宗祖とする聖徳宗であるが、この宗派創建の基もといには係わる一冊の本があった。
  日本国内で現存する最古のその本は、かの聖徳太子の自筆だと伝えられる『 法華義疏(ほっけぎしょ) 』である。
  伝承によればこの本は、推古天皇23年(615年)に作られたもので、日本最古の書物だとされている。
  日本書紀によると推古天皇14年(606年)聖徳太子が勝鬘経・法華経を講じたという記事があることもあり、法華義疏は聖徳太子の著したものと信じられてきた。そうであるならば、この本は、現存する最古のモノであると同時に、残存する日本最古の写本形でもある。 つまり中国の書が600年ないし607年の隋との交流から日本にもたらされ、これらを聖徳太子が写し著作したことが推察される。
  また、このようにして太子が写し執った法華義疏とは『 三経義疏(さんぎょうぎしょ) 』の一部でもある。



「 富造さんは・・・・・、それらの書と、八瀬に伝承される諸紙を、重ね合わせるために、法起寺あるいは法輪寺を尋ねたのではないのかい。どうもそんな気がする・・・・・ 」
  塗炭に扇太郎を圧倒させた虎哉の喋りは、数多くの臨終に立ち会ってきた医師が説く最期の匙でも投げる宣告ような鋭い響きを伴って扇太郎の耳を叩いた。虎哉のそういう三経義疏とは、「 法華義疏(ほっけぎしょ) 」、「 勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ) 」、「 維摩経義疏(ゆいまきょうぎしょ) 」この大乗仏教経典三部作の総称であるが、この、それぞれ法華経、勝鬘経、維摩経の三経を写し、注釈書( 義疏・注疏 )として書き表したモノの一部が法華義疏なのである。
  現在では法華義疏のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存しているが、勝鬘経義疏、維摩経義疏に関しては後の時代の写本のみ伝えられている。虎哉はそろそろ確信を得たようだ。こうなると、虎彦は逆説的に語りはじめた。 厩戸皇子(うまやどのおうじ)である聖徳太子は、このように仏教を厚く信仰した。聖徳太子自筆とされている法華義疏の写本(紙本墨書、四巻)は、記録によれば天平勝宝4年(753年)までに僧行信(ぎょうしん)が発見して法隆寺にもたらしたもので、長らく同寺に伝来したが、明治11年(1878年)、皇室に献上され御物となって秘蔵の品されている。
  元来、「本」という漢字は、「 物事の基本にあたる 」という意味から転じて書物を指すようになった。古くは文(ふみ)、別に書籍、典籍、図書などの語もある。そんな虎哉の解き明かしに、逆に扇太郎が身を乗り出してきた。
  英語のbook、ドイツ語のBuchは、古代ゲルマン民族のブナの木を指す言葉から出ており、フランス語のlivre、スペイン語のlibroはもともとラテン語の木の内皮(liber)という言葉から来ている。日本で作られた本、いわゆる和書の歴史は、洋書の歴史とは異なり、いきなり紙の本から始まっている。
  日本書紀によれば610年に朝鮮の僧曇徴が中国の製紙術を日本に伝えたと言われ、現在残っている最古の本は7世紀初めの聖徳太子の自筆といわれる法華義疏であるとされている。また、奈良時代の本の遺品は数千点にのぼり、1000年以上昔の紙の本がこれほど多数残されているのは世界に例が無い。また、日本では製紙法の改良により、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)などで漉(す)いた優れた紙の本が生まれている事も特筆すべき点である。
「 さて・・・・・、そろそろ、山背大兄王(やましろのおおえのおう)だね! 」
  と、そう言うと、扇太郎はさらに眼をグィと光らせた。
  推古天皇の時代(7世紀前半)、聖徳太子と蘇我馬子の娘・刀自古郎女とのあいだに生まれる。
  誕生の地は岡本宮( のちの法起寺 )で、三井の井戸の水で産湯をつかったと伝えられる。異母妹の舂米女王( 上宮大娘姫王 )と結婚して7人の子をもうけ、聖徳太子没後は斑鳩宮(法隆寺夢殿の辺り)に居住した。
  太子および推古天皇薨去後、皇位継承をめぐる政争に巻き込まれ、蘇我氏より迫害をうけたのち、皇極2年(643年)に、蘇我入鹿らの軍によって生駒山に追い込まれた。
  しかし大兄王は、聖徳太子の遺訓「 諸悪莫作、諸善奉行(すべての悪いことをするな、善いことをなせ )」を守り、蘇我の軍に戦を挑んで万民に苦を強いることをいさぎよしとせず、斑鳩寺で一族とともに自害した。
  富造の訪れた法輪寺は、推古30年(622年)に聖徳太子の病気平癒を祈って山背大兄王とその子由義(弓削)王が建立を発願したとするほか、聖徳太子が建立を発願し山背大兄王が完成させたという伝承も伝えられている。
「 この気魄!、これでは・・・・・、私が攻め陥落(おと)されるようだ!・・・・・ 」
  虎哉の導こうとする結論に、息をつめてその先を聞き急ぐかに居る自分であることにハッとした扇太郎は、それでも古文書の「ぬめり感」を手堅く攻立てる虎哉のそんな口調が、どうにも時代ぶる風神のようで、逆に圧倒されそうであった。
  不動の姿勢で虚空蔵菩薩を、たゞじっと見据えていた。
  法輪寺を訪ねた阿部富造の目的は、虚空蔵求聞持法を修めることにあった。だが、これは、そうそうに会得できるものではない。修法は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというものだ。
  空海が室戸岬の洞窟「 御厨人窟 」に籠もって虚空蔵求聞持法を修したという伝説がある。空海のように、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。富造は、この現世利益を京都八瀬に持ち帰るため法輪寺へときた。
  日蓮もまた12歳の時、仏道を志すにあたって虚空蔵菩薩に21日間の祈願を行っている。
  虚空蔵菩薩の像容は、右手に宝剣左手に如意宝珠を持つものと、右手は掌を見せて下げる与願印(よがんいん)の印相とし左手に如意宝珠を持つものとがある。後者の像容が求聞持法の本尊となる。



  明星をもって虚空藏の化身とし、ゆえに虚空藏求聞持法を修するには明星に祈祷する。
  富造はその明星を待たねばならなかった。
  またさらに、眼を巽(たつみ)の方角へ向いて祈祷する場所を富造は探さねばならなかった。
  心得として行者用心というものがある。
  行者は「 修行中は他の請待を受けず。酒、鹽(しお)の入りたるものを食はず。惣じて悪い香りのするものは食はず。信心堅固にして、沐浴し、持斎生活し、妄語、疑惑、睡眠を少なくし、厳重には女人の調へたものを食はず。海草等も食はず。寝るに帯を解かず。茸等食ふべからず。但し昆布だけは差し支えなしと云う。要するに婬と、無益な言語と、酒と疑心と睡眠と不浄食、韮大蒜(にらにんにく)等臭きものを厳禁せねばならぬ。浄衣は黄色を可とす。どんな場所が良いのかは、経中に、( 空閑寂静の処、或は山頂樹下・・・・・其の像、西或は北へ向かう・・・・・ )とある。見晴らしが良い東、南(西も開けていれば最上)は開けている。修行者は東方又は南方へ向かう 」とある。これは明星を虚空蔵菩薩の化身とし拝むためであった。
「 このとき・・・・・、空海には、口中に明星が飛び込む神秘体験が起こったのだ・・・・・ 」
  法輪寺の虚空蔵菩薩は飛鳥の古い仏像である。
  みつめると、しだいにその虚空に空海の姿が泛かぶように映る。
  富造は虚空の上の空海を現世へと引き出すために、五芒星と九字が描かれた安倍吉祥紋を虚空蔵菩薩の左手に押さえつけた。
  その富造の眼は鋭く輝いている。

           

  眼には、阿部晴明がある時、カラスに糞をかけられた蔵人少将を見て、カラスの正体が式神であることを見破り、少将の呪いを解いてやったことが一つ、また、藤原道長が可愛がっていた犬が、ある時主人の外出を止めようとし、驚いた道長が晴明に占わせると、晴明は式神の呪いがかけられそうになっていたのを犬が察知したのだと告げ、式神を使って呪いをかけた陰陽師を見つけ出して捕らえたことが二つある。
  十訓抄の記述から引きだしたその二つの故事を富造は泛かばせていた。
  このとき富造には、陰陽道によって占筮(せんざい)せねばならぬことが一つあったからだ。
「 11月1日・・・・・。知花昌一ちばなしょういち・・・・・ 」
  虚空蔵の文殊は、この男の行為をどうみなすのかを、阿部富造はしずかに考えた。
  11月1日とは、「大化改新」のはじまる2年前の643年、蘇我入鹿そ(がのいるか)が、聖徳太子の息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を自害させる事件がおきた日である。
  子代(こしろ)を今に継ぐ阿部一族は、代々この日を忌日として畏れてきた。
  昨年の11月1日、その6日前の10月26日に掲揚されていた沖縄国民体育大会会場の日ノ丸を富造は浮かばせている。
  国体は「 きらめく太陽 ひろがる友情 」をスローガンに開催された。



  読谷村のソフトボール会場に掲げられた日の丸が引き下ろされて焼き捨てられる。知花昌一は、天皇の戦後初の沖縄訪問により強まる日の丸・君が代の強制に対する抵抗だと主張した。彼は学生時代に自治会委員長として復帰闘争に参加した。そして沖縄戦の集団自決の調査などの平和運動を行っていた。1948年5月の戦後生まれの男である。建造物侵入、器物損壊、威力業務妨害被告事件の扱いとなる。 国内は地価狂騰のころ、この事件発生に、富造は忌日の前兆としての嫌な危うさを感じた。
  さらに何よりも9月23日には、皆既日食が起きていたからだ。
「 太陽が覆われる日食・・・・・その後に・・・・・日ノ丸の焼き打ち・・・・・ 」
  連続して重なると、富造にとって、それらはじつに暗い兆候であった。
  聖徳太子が亡くなって約20年後、蘇我入鹿は古人大兄皇子(ふるひとのおうえのおうじ)を独断で次期天皇にしようと企て、その対抗馬とされる山背大兄王を武力で排除しようと、巨勢徳太(こせのとくだら)に命じて斑鳩宮(いかるがのみや)を急襲した。大兄王と側近たちはよくこれを防ぎ戦い、その間に、大兄王は馬の骨を寝殿に投げ入れ、妃や子弟を連れて生駒山へと逃れた。宮殿を焼きはらった巨勢徳太は、その灰の中から骨を見つけて大兄王らは焼け死んだと思ったのだ。
  囲みを解いてあっさりと引きあげた。
  大兄王たち一行は生駒の山中に逃れるのだが、十分な食糧を持ち合わせていなかったため、部下のひとりが「 いったん東国に逃れて、もう一度軍をととのえて戻ってくれば、必ず勝つことができます 」と進言した。
  すると大兄王は「 一つの身の故によりて百姓を傷やぶり残そこなはむことを欲りせじ。是を以って、吾が一つの身をば入鹿に賜う 」 
 ( 自分は人民を労役に使うまいと心に決めている。己が身を捨てて国が固まるのなら、わが身を入鹿にくれてやろう)と答え、生駒山を出て、斑鳩寺に入った。
  大兄王たちが生きているという知らせを受けた入鹿は、再び軍を差し向けたところ、大兄王は、妃や子どもたち20人以上と共に自決して果てていた。この事件からおよそ80年後に編纂された『 日本書紀 』には、悲惨な上宮(かみつみや)王家である聖徳太子の家系の滅亡に同情して、「 おりから大空に五色の幡(はた)や絹笠が現れ、さまざまな舞楽と共に空に照り輝き寺の上に垂れかかった 」と、昇天の模様を記している。
  入鹿の父である大臣(おおおみ)の蘇我蝦夷(そがのえみし)は、山背大兄王の死を知ると、「 ああ、入鹿の大馬鹿者め、お前の命も危ないものだ 」と、ののしる。そして、2年後にそれが現実となった。
  中大兄皇子( のちの天智天皇 )や中臣鎌足らが、入鹿を殺害するクーデター( 大化の改新のきっかけとなった事件 ) により、古墳時代から飛鳥時代を通して巨大勢力を誇っていた蘇我一族が滅亡することになった。馬の骨とは、素性の解らない者をあざけっていう言葉である。どこの馬の骨か解らない、などと使われるが、八瀬童子もその馬の骨であった。
              
「 さて・・・・・、絹笠を掛けるか・・・・・ 」
  そう言うと富造は、脇にいる竹原五郎をチラリと見た。
  あらかじめ住職には許しを乞うている。おもむろに五郎は、笈の中から白絹の一枚取り出した。そして富造はその白絹で、さも虚空蔵菩薩を包み隠すかのように包んだ。
「 一時間ほど・・・・・、この状態を保たねばならない 」
  その言葉が合図なのか、二人は法起寺へと向かった。
  法起寺(ほうきじ)は、法輪寺と同じ聖徳宗の寺院。斑鳩町岡本にある。
  その岡にあるため、古くは岡本寺、池後寺(いけじりでら)と呼ばれた。山号は「岡本山」。ただしこれは、奈良時代以前創建の寺院にはもともと山号はなく、後世付したものである。この寺院は聖徳太子建立七大寺の一つに数えられるが、寺の完成は太子が没して数十年後のことであった。富造にとってはこの寺院の位置が重要であった。
「 北緯34度37分22.75秒 東経135度44分16.40秒 」
  長年の親しみもあり、富造は「 ほっきじ 」と読む。この法起寺の位置から北に直線を引くと、京都市北部の桟敷ヶ岳とが結ばれ真南北に向かい合う関係になる。
  三重塔をみつめる二人はしばらく境内に佇んでいた。
  火中の栗を拾うという例えがある。猫が猿におだてられ、炉で焼けている栗を四苦八苦して拾わされる話だ。
  これは、お人好しを戒める寓話ともなっている。だがこれは、身を捨てて難儀を背負った話ともなろう。
                       
「 さて、火中の、馬の骨を拾うぞ・・・・・! 」
  見る側の五郎は、興ざめを通りこして呆れた。しかし、倒れた古老の大樹の切り株からも、新しい芽が吹くことを富造は知っている。創建当時の建築で現存するものは三重塔のみである。その三重塔の建立時期、および寺の建立経緯については、『 聖徳太子伝私記 』(仁治3年・1242年の顕真著)という中世の記録に引用されて「 法起寺三重塔露盤銘 」の史料をよりどころとする。
  それによれば、聖徳太子は推古天皇30年(622年)の臨終に際し、山背大兄王に遺言して、岡本宮を寺院に改められることを命じている。そして富造は広く境内と連なる景観を見渡した。佇む法起寺は、法隆寺東院の北東方の山裾にある。さらに、京都の北山に桟敷ヶ岳(さじきがだけ)という山がある。
  この山は伝説のある山で、王位継承の争いに敗れた惟喬親王(これたかしんのう)がこの山に桟敷を作って京の街を眺めた。
  山名の由来はそこにある。
  ここ桟敷ヶ岳は北山の奥地だけあって、今の季節、山頂付近の樹木はやっと芽吹き始めたばかりであろう。惟喬親王が京都北山に隠棲の時、桟敷ヶ岳山頂より京の都を眺め、懐かしみ、小亭いわゆる桟敷を建てさせた。建てたのが阿部家の祖先らであった。
「 惟喬親王は聡明なお方であったようだ・・・・・ 」
  父の愛情もことのほか深く、皇太子になる筈のところ、当時、権勢高い藤原良房の娘で藤原明子が、第4皇子惟仁親王を誕生させると、天皇は良房をはばかられて、生後9ケ月の惟仁(これひと)親王を皇太子とされました。この方がのちの第56代清和天皇となられた。
  さて、惟喬親王は858年(天安2年)、清和天皇の即位に先立って太宰権帥に任命され、その後は太宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守などを歴任され、872年(貞観14年)、病のために出家なさり、比叡山麓の小野の地に隠棲された。それ以後、惟喬親王は時勢を観察され、山崎・水無瀬みなせに閑居し、河州交野で紀有常(紀名虎の二男)在原業平(紀有常の娘を妻とする)らと観桜されている。さらに京都雲林院の傍らにしばらく新居を構えて住まわれた。さらにその後、江州・小椋庄へ移られ、轆轤ろくろを開発して、緒山の木地屋に使用を教えられた。その間、阿部富造の先祖らが従事し、以後阿部家では、惟喬親王を轆轤の始祖として崇拝をし続けてきた。 都に戻られてからの親王は、洛北の大原、雲ケ畑、二ノ瀬、小野郷・大森にと隠栖され、貞観14年7月11日(872年)疾に寝て、仏に帰依し素覚浄念と号された。
  そのように聞かされてきた祖先の声が『伊勢物語』の中につづられている。
「むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に宮ありけり。年ごとの桜の花ざかりには、その宮へなむおはしましける。その時、右の馬頭なりける人を、常に率ておはしましけり。時世経て久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。狩はねむごろにもせで酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、上中下みな歌よみけり。馬頭なりける人のよめる・・・・・ 」
  阿部富造は、その「 馬頭なりける人の 」という祖先の人の影をそっと泛かべた。
  以前から探しあぐねていた敷地がある。
  八方手を尽くした。だが輪郭ほどの消息しか掴めていない。
  十三参りの帰路、後ろを振り返るようなことはしていないと思う。嵯峨野の法輪寺で授かった智恵を使い尽くすほど働かせたかと問えばそれほどの自信もないのだが、返さなければならないというほどの罰あたりもない。 富造にはその未探索が心遺しで、半ばその決着を諦める高齢の息切れが何とももどかしくある。未だ埋め得ないでいる京都市井図の赤い丸囲いの部分が泛かんでいた。惟喬親王が出家される以前に住んでいたのは、大炊御門(おおいみかど)大路の南、烏丸(からすま)小路の西詰まりであったはずだ。そう伝えられてはいる。
  親王の没後、その広い邸宅は、藤原実頼(さねより)から実頼の孫で養子の藤原実資(さねすけ)へ、そして、実資の娘の千古へと伝領されていく。もとは親王の御所であって「 小野の宮 」と呼ばれた。しかし、どのような経緯で藤原氏の物になったのかは明らかでない。富造にはそこが、どうにも不可思議なのだ。いくら阿部家の伝承を遡って漁(あさ)るも確たる先の見通しがない。隔世にいつしか欠落したようである。



「 ああ・・・・・、あれは・・・・・むかしおとこ・・・・・ 」
  法起寺(ほうきじ)の三重塔の上に薄暗い雲がのっぺりとある。流れようとはしないその雲と、真下にある甍(いらか)との空間が少し揺れるような気がした。どうやら空気だけは動いているのであろう。しかし富造がよくみると、燻銀の甍が、じんわりと炎立てるように見える。すると雲と甍のそこに挟まれたかのように在原業平(ありわらのなりひら)の姿が泛かんできた。
  何とも雅なその馬上の男こそ、伊勢物語の「 馬頭なりける人の 」姿であった。
「 忘れては夢かとぞ思う思ひきや 雪ふみわけて君をみんとは 」
  と、甍の上の浮雲で、その男が歌を詠んでいる。その歌は、親王と縁深い在原業平が、冬の一日訪ねた時のものである。親王は「 夢かとも何か思はむ浮世をば そむかざりけむ程ぞくやしき 」と返歌された。在原業平とは伊勢物語で「むかしおとこ」として語られる主人公である。その在原業平が心からお仕えしていた方こそが惟喬親王であった。
  在原業平は「薬子の変」を起こした平城天皇の第一皇子・阿保あぼ親王の第五子として天長2年(825年)に生まれた。
  惟喬親王よりは19歳年上であったが、業平の義父(紀有常)と惟喬親王の母(紀静子)が ともに紀名虎(きのなとら)の子供で 兄妹の関係にあったことなどから、藤原氏の圧倒的な勢力のもと、同じく不遇を託っていた業平は、紀有常らとともに 惟喬親王に仕えた。業平はその無聊のサロンで和歌に親しむことにより、親王の無聊さを慰めでもするかのように仕えた。
  主人は28才の時、剃髪して出家し「 小野の里 」に幽居する。
  伊勢物語に描かれる時の人々は、そんな親王を「 水無瀬の宮 」「 小野の宮 」などと称した。その親王は御在世中、小椋庄に金竜寺、雲ケ畑字中畑に高雲寺(惟喬般若)、大森字東河内に安楽寺、長福寺を建立されて、東河内で寛平9年(897年)54歳で薨去される。
御陵墓は左京区大原上野町と北区大森東町にある。
「 伊勢物語は、それ以後の古典作品に大きな影響を与えた歌物語でもあるね・・・・・ 」
  どうにも聞かされる話が感慨深い虎哉は、目尻を指先でつつきながらそう言った。
  源氏物語もその例外ではない。源氏物語には伊勢物語からの引き歌が多くある。内容にも伊勢物語を意識して書かれたと思われる箇所が散見される。そう虎哉が口を挿むと、扇太郎はポンと膝を鳴らした。



「 大鏡の内容にも、・・・・・ありますよねッ 」
  と、そういう扇太郎が持ち出したのは、裏書きの話だ。大鏡の裏書には、文徳天皇が惟喬親王を皇太子にと希望されながらも 周囲の反対をはばかられ、また、右大臣藤原良房に気を遣われて、その娘・明子(あきらけいこ・染殿后)所生の惟仁(これひと)親王(後の清和天皇)を皇太子に立てられたことが伝えられている。
「 平家物語だって・・・・・、しかりだ 」
  と、虎哉はさらにし返した。江談抄や平家物語には、立太子を巡って、惟喬親王の母方である紀氏が惟喬親王を立てて真済僧正を、また、藤原氏が惟仁親王を擁して真雅僧正を、それぞれ祈祷僧に起用し、死力が尽くされた。という話まで伝えられている。虎哉はそこらを丁寧に解説した。こうした伝承が後世に度々発生するほどに、生母「 紀名虎(きのなとら)の娘静子」の出自の低さにもかかわらず、惟喬親王への信望が高かったことが覗えるのである。
「 五郎・・・・・、みくにのまち、をそこに据えてくれないか 」
  そう言って、富造は三重塔の角下を指さした。そして五郎は指された裏鬼門の角へとすばやく動いた。その角が東大寺に対する裏鬼門であることを、すでに五郎も心得ていた。まずその封印を解き外す必要があった。そうせねば新たな封じ手が効かない。そこまでは五郎にも解る。しかし、角にこれをどう据えてよいのかが見当もつかない。木彫りの椀を手に握る五郎は、角隅に立つもたゞ足踏みをした。
「 ところで雨田博士・・・、今夜お会いになるM・モンテネグロ氏、それは日本刀の件ですよね!・・・・・ 」
  と、流れを絶って挿んだ扇太郎の言葉が、虎哉には突飛だった。
「 そろそろ・・・・・、その御霊太刀のことに触れますが・・・・・ 」
  さも神妙な顔をして扇太郎は虎哉を見た。そして香織の顔色もみた。
「 ごれいたち・・・・・? 」
「そうです・・・・・、御霊太刀です。お探しの・・・・・! 」
  ハッと虎哉はしたが、微妙な間合いの意外な外されように、妙にぼんやりともさせられた。
「 椀の底を逆さに、地に伏せるようにして角に据えてくれ。そうして動かぬよう両手で押さえといてくれ! 」
  何かに覆い被せるかのようにして五郎は木彫りの椀を角に据えた。するとその椀の正面に富造は晴明桔梗の護符を貼った。
  紋様には呪文が記されている。
  それは、急急如律令の呪文を文字で書きつけた呪符である。その急急如律令とは元来、中国漢代の公文書の末尾に書かれた決り文句で「 急いで律令(法律)の如く行え 」の意であるが、それを転じて「 早々に退散せよ 」の意で悪鬼を払う呪文とされた。それによってすでに五郎も気づかぬ内に、東大寺の裏鬼門封じは解除されている。次に富造は太上神仙鎮宅霊符を加えた。
  この霊符を司る神を鎮宅霊符神というが、それは玄武を人格神化した北斗北辰信仰の客体である。京都行願寺(革堂)から出されたこの霊符を祭ることで、すでに南北の運気が開かれたことになる。
  そうして次に「 式神(しきがみ) 」を呼び出すために、富造は禹歩(うほ)を始めた。
「 ヤギハヤノ トツカノツルギ コレホムスビトナリ・・・・・ヤギハヤノ トツカノツルギ コレホムスビトナリ・・・・・ヤギハヤノ トツカノツルギ コレホムスビトナリ・・・・・ヤギハヤノ トツカノツルギ コレホムスビトナリ・・・・・夜芸速(やぎはや)の十拳剣(とつかのつるぎ)此れ火産霊(ほむすび)と成り 」
  神威の発揮を強く求めるために、富造は禹歩に合わせて呪文を唱えた。
  しばらくは法起寺の境内をその富造の呪文が地を祓うごとく舞い立っていた。
  椀を押さえ続ける五郎を巻くように舞い廻っていた。足で大地を踏みしめて、呪文を唱えながら、富造は千鳥足様に前進する。その禹歩とは、歩く呪法を指す。阿部家伝承の基本は、北斗七星の柄杓方を象ってジグザグに歩くものであった。それは魔を祓い地を鎮め福を招くことを狙いとする。この起源は、葛洪『抱朴子』に、薬草を取りに山へ踏み入る際に踏むべき歩みとして記されている。
  奇門遁甲における方術部門(法奇門)では、その術を成功させるためにこれを行った。
「五郎・・・・・。さて・・・・・その椀を表返しに直してくれ。もう手を放してもよい。手を放したら静かに声を立てずに寺の外で待て。出たら門のところで般若心経を唱えてくれ。俺が後を終えて門を出るまで・・・・・ 」
  そう言って五郎の姿が消えるのを待った富造は、また新たな呪文を唱えはじめた。
「 イワクスノ フネニナレシモ イカズチノタマフリ・・・イワクスノ フネニナレシモ イカズチノタマフリ・・・・・イワクスノ フネニナレシモ イカズチノタマフリ・・・・・イワクスノ フネニナレシモ イカズチノタマフリ・・・・・石楠(いわくす)の 船に鳴れしも雷(いかずち)の布都(たまふり)・・・・・ 」
  長い呪文であった。唱えながら富造は神威の顕れを静かに待っていた。
  これを反閇(へんぱい)という。この秘伝だけは人知れず密かに行わねばならない。富造の額は汗を滲ませていた。反閇とは、道中の除災を目的として出立時に門出を祓う呪法である。また自分自身のために行うこともあるが、その多くは天皇や摂関家への奉仕として行われた。その反閇では、まず最初に玉女を呼び出して目的を申し述べる。
  呼び出すときにはやはり禹歩を踏む。最後は6歩を歩いて、そのまま振り返らずに出発する。家伝の掟(おきて)である、その詰めの6歩を踏み終えた富造は、もう何事もなかったかのよに静かに門前へと向かった。門前で心経を唱え続けていた五郎は、その富造が門を出て、立ち止まることもなく法起寺へと向かう後ろ姿が消え去るのを待ってピタリと般若心経を止めた。
  陰陽道には「 魂清浄 」という呪文がある。魂清浄を唱えることで御魂の輝きの増やし、魂の正しい位置への鎮まりや、心と精神面の安定を整える。五郎はその呪文を唱えながら富造の後を追った。
「 一魂清浄・二魂清浄・三魂清浄・四魂清浄・五魂清浄・六魂清浄・七魂清浄・八魂清浄・九魂清浄・十魂清浄 」
  五郎はそう唱えながら、腹の底より息を長く吐いた。 陰陽道に触れると、不意に霊体に憑依されてしまうことがある。気の流れを変えた。奈良も同じなのだが、平安時代は、平安という言葉とは裏腹に、闇と迷信が支配した恐ろしい時代だった。現在の価値観では到底計り知ることの出来ぬ感覚が根づいていた。遺体の処理にしても現代とは、だいぶ異なるものであった。
  人が死ぬとそのまま川に流したり、一か所に集められて放置されるのである。もし、疫病が流行ろうものなら、人がバタバタと死に、たちまち、どこもかしこも死体だらけとなる。それが一つには陰陽道がこの世生まれ出た背景であった。
  何千何万という死体が方々に山積みにされ、野犬が人間の手足の一部をくわえて、街中を走り回るという身の毛もよだつ光景が展開されるのである。鴨川は、遺体を水葬にする場所と変わり、清水寺は遺体の集積所に成り果てた。
  雨が降って水かさが増すと、半分腐りかけて死蝋化した死体が、プカプカと民家の床下にまで漂って来るのである。そして、災害や疫病の大流行などは、恨みを残して死んだ人間の怨霊や悪霊の祟りであり、わけの分からぬ奇怪な自然現象は、物の怪など妖怪変化の起こす仕業であると信じられるようになっていった。
  こうして、人々は、闇におびえ、ないはずのものに恐怖するようになった。
  貴賎の区別なく、人々はさまざまな魔よけの儀式を生活に取り入れるようになる。大きな屋敷では、悪霊や物の怪が入り込み、人に取り憑くことがないように、随身(ずいじん・護衛の者)が定期的に弓の弦をはじいて大声を上げるという呪いなどが夜通し繰り返されていた。
  そういう時代を阿部一族をはじめ八瀬の童子は継ぎ継ぎにくぐり抜けてきた。


「 ああ・・・・・、秘太刀(みくにのまち)・・・・・が空を翔けた・・・・・! 」
  再び法輪寺の境内に立った富造は、そう五郎に呟くと、静かに閉じた眼にその秘太刀を泛かばせた。
  惟喬親王の母方(紀氏)の末裔である星野市正紀茂光が、紀名虎(祖父)の秘蔵していた御剣を、親王が御寵愛されていたことを知り、これを親王の御霊代として奉祀したと伝えられている。
「 その御霊太刀の銘を・・・・・、みくにのまち、という 」
  富造はそう聞かされていた。
  惟喬親王には兼覧(かねみ)王と呼ばれた息子があった。神祇伯、宮内卿などを歴任し古今集にも歌を残している。
  その兼覧王の娘は兼覧かねみ王女とも呼ばれて、これもまた和歌をよくし、後撰集に一首が残っている。富造は、この王女あたりから、藤原実頼へと親王の邸が伝領されたのではないかと思っている。だがこれは推測の域を出るものではない。しかし阿部家の家伝によって確かなことは、惟喬親王には「 みくにのまち 」と呼ばれた娘があったことだ。
  星野市正紀茂光は御剣を親王の御霊代として祀るに当たり、その秘宝の娘の名を御霊太刀の銘として偲ばせた。それが富造が眼に泛かばせる「 秘太刀(みくにのまち)」であった。
「 このとき・・・・・、富造さんは、馬の骨を拾った、とそう確信したはずです 」
  という、扇太郎のその眼は、夢でも叶ったかのようにキラりと輝いている。
  しかしそう見える虎哉は、未だ狐にでも耳を抓まれて動けぬ悟りの悪い坊主のようだ。
「 拾ったことになるのか・・・・・? 」
  ただ空を切るような始末に、眼がくるりとぼんやりとする。
「 ええ、拾ったことになりますね。言霊(ことだま)の世界では・・・・・! 」
  と、念を押されても、巨漢に伍(ご)して抜くにはおのれの刀が鈍(なまくら)なのか、虎哉は竹光でも握らせられたような心もちであった。しかし、香織は、うんうんと、やはり眼を輝かせて何度も頷いている。いずれも得体の知れぬ連中だと思われた。
  どうやら人が伍して掛れる世間話ではなさそうだ。

「 しかし、そんなことよりも、惟喬親王についての最大の謎は、なぜ惟喬親王が木地屋(きじや)師の業祖とされるに至ったのかということですよね。八瀬の集落は、そのことを固く語ろうとしません。理論立てについては障りとして始末されている。そこを・・・・・ 」
  扇太郎は一つ長い溜息をついた。
  そうしておもむろに香織の顔をみて微笑んだ。おそらく香織に木地屋師の匂いを感じ取れるのであろう。虎哉も同じ匂いを嗅いでいる。それが生地屋師の匂いかどうか分からないが、京都の山端の人々にはたしかに森の匂いを放つ人が多い。あるいはそれは、森深いところの土の匂いではないかと以前から感じていた。木地屋は「 ろくろ 」を用いて木材を削り、鉢や盆などの木製品を作る人たちであり、中世には、山中に原材を求めて、山から山へと渡り歩いた漂泊の山人たちであった。
  彼らは、惟喬親王が藤原氏から差し向けられた刺客を逃れて、滋賀県神崎郡永源寺町の山奥の小椋谷(おぐらだに)に隠れ、ここで里人たちに「ろくろ」の技術を教え、これより木地屋は始まったとしている。もとよりこれは史実ではなかろう。しかし今、小椋谷の金龍寺は親王の御所「高松御所」であったとして、親王の木像なるものを伝え、全国の木地屋たちの総名簿である「 氏子狩(うじこがり)帳」を蔵し、筒井八幡宮は「 筒井公文所(くもんところ)」と称して「木地屋木札」「通行手形」を発行する。そして小椋谷よりも更に山奥の君ガ畑にある「 皇太器地祖神社 」は惟喬親王を祀る。
  各地の木地屋たちは、しばしば親王の随身従者の末裔と称し、「 木地屋文書 」と云われる木地屋の由緒書や、親王が与えたとする諸役御免の綸旨を所有し、墓には皇室の紋である菊水紋を用いるのだ。これらは、非定住民であるために下賤視された彼らが、定住民たちの軽蔑の目への反発として作り出したものであると共に、原木伐採の自由と、山中通行の自由を得るためのものであることは論ずるまでもない。民俗学的には虎哉はそう考えてきた。
「 しかし・・・・・、なぜここで惟喬親王の名が使われたのか・・・・・ 」
  と、考えると、そこは一定の領域を超えた、学識では割れぬ異界の摂理でもあるようだ。
  中世、小野巫女と呼ばれた「 歩き巫女 」たちがいて、「小野神」という神に対する信仰を全国に流布したことに起因するという見解が、あるといえばある。これはすなわち、惟喬親王が隠棲した山城愛宕郡の小野とは、比叡山を隔てて東側、近江国滋賀郡にも小野という所がある。いずれも小野氏と称される人たちの住んだ所である。この琵琶湖湖畔の小野に住む小野氏の人たちは、自分たちの祖先である「 タガネツキオオミ 」( 鏨着大使主、または米餅搗大使主 )を「小野神」として信仰した。この神は「タガネ」という文字から鍛冶の神と考えられている。
  その小野氏の女たちが小野巫女として、近江の製鉄地域などに小野神信仰を広めていった。
  小野小町や小野猿丸の伝説を全国に広めたのも彼女らであるという。そうした鍛冶師も木地師もいずれも山の民である。またその分布地域も重なっている。その木地師たちが、その信仰を受け入れた時、「小野神」と「小野宮」とは習合して、そして、小野宮惟喬親王が木地師たちの業祖とされるに至ったと見立てられている。
「 しかし・・・・・、それにしても何か漠々とした話ではあるがね・・・・・ 」
  日本史には虚と実が、じつは混在している。古文書の存在のついては、歴史過程を査証する手本となるかも知れないが「 不都合な過去を消す為 」と言う政治的効用も在り、「 必ずしも事実とは受け取れないもの 」と心得るべきである。古典もそれと同様な側面がある。そう改めて思う虎哉もまた深い溜息の一つもつきたくなる。
「 しかし・・・・・、秋子さんご存じすよね。彼女こそ、小野巫女です。そうだよね香織ちゃん・・・・・ 」
  そう促されて耳にした香織は、妙にぼんやりとしていた。
  だが、しだいに、うっとりして虎哉に向き直ると、丸い瞳をほんのりと潤ませている。
  その潤む瞳の湖(うみ)では、秋子の吹く篠笛の音がさざ波のように揺らいでいた。






                                      

                        
       



 秋子の笛









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